2014年09月21日

悪人列伝−戦後民主主義の斜め上を行った男、皇帝ボカサ

第二次世界大戦は、その規模、兵器の発達などの特徴の一方で、世界の勢力図を大きく塗り替えた戦争でもありました。
戦後は東西冷戦の二極構造となる一方、植民地が次々と独立を果たし第三勢力へとつながったのも、大戦で宗主国が国力を衰退させたことなどが背景にあります。
そして、政治思想的にも、それまで主流だった君主制がその意義を失っていき、戦後も君主のいる国は王の政治権力を弱めた立憲君主制として、また王を廃立して共和制へと移行する国も増えていきました。
そんな中、戦後になって王制になった国もわずかに存在します。
たとえば、フランコ独裁政権から立憲君主制へと移行したスペイン。しかしこれは、元々スペインの王朝だったボルボン朝が復位したともいえ、政治は民主制を取り、王位は一種の象徴とも言えるものでした。
しかし、本気で君主制に移行し、それもあろうことか、皇帝になろうとした男がいます。
それが、中央アフリカ帝国皇帝、ボカサ一世。

ジャン=ベデル・ボカサは、フランス領赤道アフリカのムバカ族の族長の家に生まれました。一族は独立運動を展開していました。彼自身は自由フランス軍の兵士として活躍した後、従兄弟で独立した中央アフリカ共和国初代大統領となったダヴィド・ダッコに呼ばれその軍を指揮することになります。ダッコもまた、一族の独立運動家(※1)でボカサの叔父でもあるバルテレミー・ボガンダに誘われて政治の世界に入った人物であり、ボガンダが独立直前に飛行機事故死すると跡を継ぎ、1960年8月13日、宗主国フランスの後押しで中央アフリカ共和国は独立。初代大統領になりました。ところがダッコは国内を統制できず、経済政策も失敗。汚職が蔓延し、また反対勢力を抑えられなかったため、国力は衰退の一途をたどります。アフリカの独立国の多くが、皮肉にも植民地から脱したことで経済的に不振になる例は相次ぎましたが、中央アフリカ共和国も同じでした。

ボカサはそんな状況を受けて1966年、クーデターを起こして全権を掌握。もっとも、従兄弟であるダッコを殺したり、追放したりはせず、政権に取り込みます。
ボカサは軍事独裁政権を樹立すると、外交力を駆使して、ザイールなど周辺国を始め、ソ連や東欧諸国の共産圏、ユーゴスラビアなどの第三国と友好関係を築き、黒人でありながらアパルトヘイト政策を推進した南アフリカとまで関係を結ぶほど。
中でもフランスとの関係は大きく、もともとド・ゴールの部下だったこともあり、その葬儀には自由フランス軍の軍服を着て出席。国内の鉱物資源の利権を餌に、時に駄々をこねながら、フランスの有力政治家らとのコネクションを活かして経済支援を取り付けます。しかし、その経済政策はダッコとさして変わらぬまま。フランスからの支援も、同族経営の企業があげる利益もみな懐に入れ、贅沢三昧。危機感をもった軍部がクーデターを起こそうとすると、軍・警察の幹部を粛清。政権樹立に貢献した閣僚らも次々と罷免・処刑し、そのポストの多くは自分で兼任しました(※2)。

政治権力として弾圧するだけでなく、自らも刑務所へ赴き、収監されている政治犯らを直接殺したと言われています。刑務所には小中学生まで収監され、その子どもたちを自ら拷問にかけたとも。後には人肉を食したという噂も流れました(※3)。
彼は、1972年には終身大統領、そして1976年12月4日、国号を中央アフリカ帝国と改め、皇帝へ即位します。
彼の理想はフランス皇帝ナポレオン。
即位1年後、準備万端、戴冠式が行われました。バチカンでローマ教皇から戴冠してもらうつもりだったが断られたと言われ、昭和天皇とイランのモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝を招待しましたが、どちらも参列しませんでした(※4)。式典は国家予算の2倍、フランスから料理人を多数連れてこさせ、ドイツからは多数の高級車を持ち込み、熱帯の国なのに豪華な外套を着て、宝石を散りばめた王冠をかぶり、ダイヤモンドを多数はめた杖を持ち、8頭立ての馬車に乗って高級車100台以上を従えてパレード。豪華絢爛な式典を行いました。この様子はテレビ中継され全世界へ放映されますが、あまりの贅沢ぶりに、アメリカ政府は呆れて支援をうち切ってしまいます。批判に対しても、ボカサは「偉大な歴史は、犠牲なくしては創造できない。民衆は犠牲を甘んじて受けるのだ」と豪語します。
フランスのジスカールデスタン大統領は賄賂と鉱山権益を受けて、金銭的支援をし、「皇帝」を承認しました。

皇帝となった彼は、ますます贅沢三昧、粛清の嵐、30歳以下の国民を与党の党員とし、政治学の講義、教育を全面禁止し、贅を尽くすためなら護衛の警備兵の給与までケチってしまうという始末。
父親の無茶苦茶ぶりに、とうとう息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子までが批判を展開して国外追放されます。ボカサは猜疑心にとりつかれたでしょう。
国内の不満は頂点に達している中、彼は自らデザインし同族企業の作った制服を小学生に義務化させようとしました。これに反発した市民がデモを起こしたところボカサはこれを武力鎮圧。子どもを含む400人以上が死亡する事件になりました。この結果、さすがのフランスも自国への波及を恐れてかこれを批判、援助を拒否します。
経済的にさらに追い詰められたボカサは、イスラム教に改宗して、アラブ諸国からの支援を取り付けようと画策。サラー・エッディン・アフメド・ボカサと名乗り、リビアのカダフィの元へ交渉に出かけます。カダフィはこれを歓待しました。
ところが、
この外遊のさなかの1979年9月20日。フランス軍主体でダッコを担ぎだしたクーデターが勃発。中央アフリカ帝国はあっけなく崩壊しました。
ボカサはよりにもよってそのフランスへ亡命しようとします。知己の多いフランス政府を動かして復帰しようとますが、さすがにうまく行かず、腹をたてた彼は、ジスカールデスタン大統領との関係をマスメディアに暴露し、フランス政界を揺るがす大スキャンダルに発展しました。

コートジボアールに亡命した彼は、かつてフランス軍にいたことからその恩給で暮らしました。1986年、周囲の反対を押し切って帰国。逮捕され死刑判決を受けます。1993年恩赦で減刑。1996年11月3日に病気で死去しました。75歳。多くの人を犠牲にした独裁者は因果応報を受けることもなく寿命を全うしたわけです。
2010年12月、中央アフリカ大統領フランソワ・ボジゼにより、ボカサの名誉回復がなされました(※5)。

現代でも、国際情勢のはざまをうまく利用した独裁者は複数存在し、昔と変わらぬ狭小な視野で贅を尽くし、少なからず市民が抑圧を受けています。彼らは皇帝の称号こそ名乗りませんが、専制という意味では同じでしょう。
しかし、民主化が進んでいた20世紀半ばという時代に、時代錯誤な「皇帝」となったのは、後にも先にも、ジャン=ベデル・ボカサしかいませんでした。彼が夢見たのは、まさに物語の中の「王様」だったのかもしれません。

※1:ボガンダが起こした組織が黒アフリカ社会進歩運動 (MESAN) で、アフリカ中央部全域を領土とするラテンアフリカ連邦を構想していた。
※2:16のポストのうち14を兼任したという。
※3:クーデター後、フランス軍の兵士らが、ボカサの宮殿にある冷蔵庫などから遺体を見つけたと公表したため。ボカサを貶めるための捏造とも言われる。
※4:国際的な慣習で、天皇家とパフラヴィー家は「Emperor」の称号で呼ばれていた。パフラヴィー朝はイスラム革命で失脚したが、天皇家は今もそのまま。なお、この「Emperor」は厳密には「king」の上に位置するものであって、中国語で言うところの「皇帝(「地上」を唯一支配するもの)」とは同義ではないが、そもそも中国の「皇帝」の定義も時代によって異なる上に、適当な訳語もないので、近代以降、同義として使われている。
※5:第6代大統領ボジゼはボカサ皇帝時代の軍の准将。
ラベル:世界史 悪人
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2014年05月25日

悪人列伝−「皇帝」を作った男−贏政−

中国における歴代帝国全王朝を通して、まさに最初の皇帝だった男、自ら定めた称号「秦始皇帝」を名乗ったのが、贏政です。一般には始皇帝で通るため、贏政(えいせい)という名だったという事自体、知らない人も多いでしょう。絶対権力者として、人々を苦しめたイメージがあります。

古代中国では都市国家から発展した殷(商)、その殷に代わった周も都市国家のゆるい連合体のような体制でした。周王朝の後半、春秋時代には少なくとも200の大小都市国家が存在していました。この頃周王朝は縮小衰退し、代わって比較的規模の大きい地域国が覇を競い合うようになります。戦国時代に突入すると、弱小国から次々と併呑されていき、最後に残ったのが秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七雄と呼ばれる大国と形式的に残っていた周、衛だけになります。この七雄も攻防の末に、最も西域にあり、最も異質の文化を持っていた秦の一強時代となりました。贏政はその時代に秦王となります。
それまで、どれかの国の王が他を圧倒する力を持っても、それは単に「覇者」であって、王の統一国家ではなく、連合体の指導者に過ぎませんでした。しかし贏政はほかの6カ国を滅ぼすと、中国史上初めて「統一王朝」を打ち立てました(※1)。

贏政の出自は決して良いものではありませんでした。
秦の昭襄王の次男だった安国君(のちの孝文王)の子で趙の国に人質に送られた子楚(当時の名前は「異人」)が、贏政の父です。王族とはいえ一朝有事の際にはあっけなく殺されかねない立場でした。昭襄王がしばしば趙と争ったため、ほとんど見捨てられていた子楚は冷遇され貧窮していたといいます。
その子楚を支援したのが大商人の呂不韋。彼は子楚を見て「これ奇貨なり。居くべし」(これは珍しいものを見つけた、手に入れておこう)と言い、支援します。いわゆる「奇貨居くべし」の故事です。もちろん、投資に見合う価値を作るため、呂不韋は秦まで行くと、安国君の正室華陽夫人に取り入ります。華陽夫人は子に恵まれなかったため、将来に不安を感じていたところ。呂不韋の進言に乗り、子楚を跡継ぎに決めます。子楚は名も「異人」から楚国出身の華陽夫人にあわせて「子楚」に改めました。子楚は呂不韋に対して高い地位を約束しますが、一方で呂不韋が囲っていた愛人「趙姫」を欲しがります。呂不韋はしぶしぶ女を与えました。この趙姫が産んだ子が、贏政です。
「史記」には、贏政が、子楚の子ではなく、呂不韋の子という説を取り上げてます。ただ、記録上は子楚の子である方が矛盾はないといいます(※2)。
昭襄王が趙を攻めたため、子楚は邯鄲を脱出し秦に逃げます。幼い贏政と母親は取り残され潜伏し非常に苦労しました。この時の環境が贏政の性格を形作る要因とも考えられます。昭襄王が死に、安国君が即位して孝文王となると子楚は後継者に選定されますが、孝文王はたった3日で急死。子楚が王位を継いで荘襄王となりました。これを受けて、趙は贏政を秦に送り返します。
荘襄王は3年後に死に、贏政が13歳で即位しました。少年王の後見として、呂不韋は相国となって国政を担いました。彼の目論見は成就したわけです。

ところが贏政22歳の時に大事件が起きます。贏政の母親、太后となっていた「趙姫」が愛人との間に子を二人も作っていたのが発覚したのです。実は趙姫は子楚の妻となってからも、呂不韋との関係は続いていました。趙姫に迫られ困った呂不韋は彼女にロウアイという巨根の男をあてがいます。宴会芸として一物を車輪の穴に通して回したという逸話の人物。呂不韋はロウアイを宦官と偽って宮中に入れ、旧都雍の離宮で趙姫と過ごすようになります。この事は、密告があったとも、贏政が元服の儀式で雍を訪れて発覚したとも、ロウアイが反乱を起こそうとしたとも諸説あります。贏政は激怒し、ロウアイ一族は殺され、呂不韋も地位剥奪の上、蜀の地へ流刑にされそうになったため、服毒自殺しました(※3)。贏政が呂不韋の権力と豊かな人間関係を恐れたという見方もあります(※4)。

贏政は実権を掌握すると、李斯を抜擢して法家主義でもって国内の制度を整え、内外の人材を集め、灌漑事業を進めて生産力を高め、強力な軍隊を組織します。思想的には韓の公子であった韓非のマキャベリズムな思想を尊崇し、韓非も故国と一族に失望しており、贏政に期待を寄せていました。しかし韓非は同門でもある李斯らに陥れられて自殺。贏政は韓非の故国である韓を前230年に攻め滅ぼしました。
続けて前229年、趙の国を攻めます。事前に趙の重臣郭開への買収工作を進め、有能な人材を粛清させるよう仕向けたことで、趙もあっけなく秦の前に滅亡。贏政は生まれ故郷の邯鄲に入ると、母を貶めようとした人々を探しだして生き埋めにしました。
趙が消滅したことで、韓・趙と同じ晋から分立した魏と、北方の燕も秦の脅威にさらされます。燕の太子丹は、幼いころ趙の邯鄲に人質としていたことがあり贏政とは幼なじみでしたが、秦に赴いた際に冷遇されたため恨みに思っていました。丹は贏政の暗殺計画を企て、前227年、秦からの降将樊於期の首と督亢地方を割譲すると称してその地図を荊軻に持たせて降伏の使者と偽り贏政に会見させます。荊軻は地図でくるんでいた刀で贏政を殺そうとしますが寸前で失敗。怒り狂った贏政は燕の都薊を攻め落とし住民を殺戮します。燕王と太子丹は遼東に逃れますが、丹は秦との和睦を望む父親に殺され、その燕王も捕らえられ、燕は滅亡しました。
前225年、贏政は魏の都大梁を包囲。水攻めにして3ヶ月後にこれを陥落。
前224年、ついに最大の敵、楚との攻防が始まります。贏政は若く血気にはやる李信と蒙恬に指揮させますが大敗。代わって老将軍王翦と蒙武にほぼ全軍の指揮を任せ、60万の大軍で攻撃。前223年、楚を滅ぼしました。前222年、燕の残存勢力を滅ぼしています。
最後に残った斉に対しては、趙の時と同様、買収工作を進め、前221年、大軍を発して攻め寄せます。斉は工作が功を奏して戦わずして降伏。同年、東越も服属させてついに天下統一を達成しました。

統一後、重臣らと諮り、皇帝の称号を新たに作り、秦始皇帝と称しました。旧王国を解体し、秦の制度だった郡県制を全土に敷き、その行政官を各地に派遣して中央集権体制を強化します。
各国でまちまちだった度量衡、通貨、車の軸幅、数の単位表記、文字・書体を統一します。これにより意思疎通、経済活動がよりスムースに行えるようになりました。
一方で、すでに建設を進めていた生前陵墓の驪山の工事、阿房宮の建設、各国が建設していた長城をつなげる事業(万里の長城)、運河「霊渠」の開削など、大規模な土木工事のために全土から人民を徴用しました。のちの漢の高祖劉邦も、小役人だった頃に労働者を連れて行く仕事をしています。人々はこれを嫌がり、逃亡者も相次ぎますが、法によってこれを厳しく取り締まります。
始皇帝は全土を数度にわたって巡察しました。そのための専用道路まで作らせています。途中、各地で刻石を彫らせて自分の事跡を誇示し、また泰山に登って天帝に報告する封禅の儀式も行いました。
この巡察の途上、博浪沙で飛来してきた重りが副車に激突する事件が起こりますが、これは、のちに劉邦の軍師となった張良による暗殺計画でした。

始皇帝はこの頃から不老不死を求めるようになっていたともいいます。そのために神仙思想を唱える怪しげな方士らの話に乗って神仙を探す金を与え(日本に来たともいう徐福が有名)、自らは水銀を飲んだりしたとか。この水銀に因る中毒が死因という説も。
始皇帝は、淳于越が郡県制を止め古い封建制に戻すよう上奏したことをきっかけに、李斯らの主張を入れて、現実的に必要な書籍を除き、政策の障害となる「古い書物」を全土で焼却処分させます(焚書※5)。また方士の廬生らの口車に乗せられて「真人」(不老不死の超人)から不老不死の秘薬を得ようとしますが、一向に現れず(※6)、盧生は始皇帝の政策を批判して逃走。始皇帝はこれを怒り学者ら460人余を生き埋めにしました。これがいわゆる坑儒であり、現在では焚書坑儒は思想弾圧の代名詞となっています(※7)。焚書坑儒を諌めた始皇帝の長男扶蘇は前線に送られました。
前210年、4回目の巡察に出た始皇帝は、途上で病に倒れ、後継者を長男の扶蘇と定め、後事を側近の宦官趙高と、宰相の李斯に委ねて亡くなりました。
その遺言は、権力を欲する趙高に握りつぶされ、そそのかされた李斯とともに扶蘇を自殺に追い込み、末子の胡亥が二世皇帝に即位します。やがて圧政に苦しむ人々が各地で蜂起、趙高はこれに対応せず、胡亥も宮中の奥で実情を知らずにいたため、劉邦と項羽の侵攻により始皇帝の作り上げた統一国家は短命のうちに崩壊しました。
始皇帝の強権的な政治は後々批判され、その名にはイメージの悪さがつきまといます。
一方で、漢の高祖劉邦は天下を得ると、皇帝を名乗り、漢も秦に倣って中央集権国家としました。以後歴代王朝はこれを踏襲していくことになったわけです。始皇帝の作ったシステムは広大な土地と膨大な人民を支配する体制として優れていたからでしょう。

※1:形式的には残っていた小国の「衛」が滅んだのは二世皇帝胡亥の時だが、実質は秦の統一国家だった。
※2:史記は歴史書であると同時に物語的要素も強く、漢臣である司馬遷の立場上秦の始皇帝を貶める意味もあったと思われる。
※3:三国時代の蜀の政治家、呂凱は、益州永昌郡「不韋県」の出身で流刑になった呂不韋一族の子孫と言われる。
※4:呂不韋は自分の抱える豊富な食客を動員し、諸子百家から自然科学までを網羅した「呂氏春秋」という書物を編纂した。これを公開し、一字一句でも追加修正できたら千金与えると布告したことから、一字千金の熟語が生まれた。
※5:焚書は、人々に必要な農学、医学、占いの書籍を除く、各国の歴史書、諸子百家の書の所有を禁じる法(挟書律)を制定し、該当書籍は提出し焼却処分にするよう命じたもの。法令に関しては秦の役人が直接指導することにしていた。儒教の経典「六経」のうち現在に伝わっていない「楽経」はこの時失われたと言われるが、存在を含め異説も多い。
※6:廬生は、真人は他の人がいると現れないと説明し、真に受けた始皇帝が宮中の奥に潜んで人目を避けたにも関わらず真人は出てこなかった。「人ではない」宦官の趙高を重用したのもこのためだと言う説もある。
※7:坑儒は儒者を穴埋めにするという意味で、刑罰を多用する法家主義的政策を批判した立派な儒者を皆殺しにしたかのように言われているが、実際には、方士廬生が起こした事件の審問で、他者を告訴して責任逃れをしようとした者が相次ぎ、告訴された無関係の学者が多数巻き添えで殺された、という説もある。儒学を標的にした思想弾圧ではなく事件後も始皇帝の側近として仕えた儒者もいる。

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ラベル:年表 世界史
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2014年01月20日

超新星爆発の記録

超新星とは、質量の大きい恒星の最終段階で起こる大規模な爆発現象のことです。
古くから、人類は夜空に見える星々とは違う、突如現れる強い光を放つ星のことを観測してきましたが、1572年、ティコ・ブラーエがこの種の星の出現を観測した際に「新星」と呼びました(※1)。
1885年に観測されたアンドロメダ銀河内での大規模な爆発現象を観測したことで、「超新星」と呼ぶようになります。

新星の多くは、片方が白色矮星である連星系で起こると考えられています。もう一方の恒星から水素ガスが大量に流入し、白色矮星の表面で核融合反応を起こし、これが爆発的に吹き飛ばされる現象です。爆発するのは表面だけなので、爆発後は元の状態に戻り、ふたたび水素が蓄積していき、しばらく後に再び爆発を起こすことを繰り返します。銀河系内で年間30〜60個程度が新星となると考えられていますが、その多くが、距離が遠かったり、星間物質に遮られたり、銀河中心の向こう側で起こるために観測できるのはわずかです。

超新星は、新星とは異なる仕組みで起こります。
T型の場合は、白色矮星に連星からのガスが降り注ぎ、その質量が縮退圧のチャンドラセカール限界を超えることで支えきれなくなり収縮、その結果、中心核の炭素核融合が一気に加速して爆発。超新星となる場合です。
U型の場合で、太陽の約8倍より重い星の場合、水素の核融合反応が進むとヘリウムが増え、その収縮で高温となり膨張して赤色超巨星に進化します。中心核では6億Kという超高温となり炭素が核融合を起こしてネオンやマグネシウムからなる縮退した中心核が作られますが、陽子の電子捕獲反応によって電子の縮退圧が弱まるため、重力収縮が勝って一気に崩壊します。この時開放されるエネルギーで外層を吹き飛ばす大爆発が超新星です。
また、太陽の10倍程度よりも重い星では中心核が縮退することなく核融合が進み、酸素、ケイ素と生成し、最後に鉄の中心核ができます。鉄の中心核は重力収縮しながら温度を上げていき、約100億Kに達すると黒体輻射により生じた高エネルギーのガンマ線を吸収してヘリウムと中性子に分解する鉄の光分解現象が起こります。併せて電子の捕獲も進むため、中心核の圧力が低下し、一気に重力崩壊を起こします。この結果、放出されたエネルギーで外層部は大爆発を起こして吹き飛び超新星となります。
あとには爆縮した中心核だけが、中性子星やクォーク星、ブラックホールという形で残ります(※2)。

超新星爆発のエネルギーは、光速の20%もの速さで広がり、周囲数光年を巻き込み、さらに大量のガンマ線を放出します。仮に生命のある惑星がその十数光年ほどの範囲にあれば、降り注ぐガンマ線で壊滅的な打撃を受けます。過去、地球の歴史で起こった生命大絶滅現象の中に、このガンマ線照射が原因となっているものがあるのではないか、という説もあります(※3)。
一方で、その衝撃波は星間物質をかき混ぜ不均衡にすることで、密度の濃い部分が重力を増し、それが周辺物質を引き寄せさらに重力が増し、新たな星の誕生につながる他、超新星爆発の膨大なエネルギーによって鉄より重い重金属は生成されると考えられ、生命の誕生にも少なからず影響しています。

新星と超新星を明確に区分するようになったのは、仕組みがある程度わかってきた20世紀後半です。
しかし、その猛烈なエネルギーは、過去いくども地球上から観測され、記録に残されました。
最も古い記録は、西暦185年の超新星。中国の記録にあり、3300光年離れたところで起こりました。
有名なものでは、1006年の超新星、1054年の超新星があります。1054年の記録は、藤原定家の日記『明月記』(※4)や中国の古典にも見られ、20世紀に入り、牡牛座かに星雲がこの爆発の残骸であることが判明しました。
ティコ・ブラーエが「新星」と初めて呼んだ1572年の超新星、銀河系内で起こったもので観測されたものとしては今のところ最後である1604年の超新星(ケプラーの星)、超新星という語のきっかけとなった1885年のアンドロメダ銀河内で起こった超新星、ニュートリノ天文学のきっかけとなり、カミオカンデの観測で小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞した1987年の大マゼラン銀河での超新星などが知られています。
実際には銀河平均で40年に1個程度は超新星爆発が起こっていると考えられますが、地球との間にある星間物質によって見えなかったり、銀河中心の向こう側で起こるために見えなかったりしているものと思われます。
また超新星爆発自体は観測された記録がないのに、超新星残骸が現在観測できるものもあります(※5)。

人類に影響を及ぼす可能性がある距離の星で、近い将来超新星爆発を起こす可能性が高いのは、冬の大三角の一点、オリオン座ベテルギウス。超有名な恒星ですが、赤色超巨星の段階にあり、すでに寿命の終わりの方。しかもこの十数年の観測だけでも、激しく収縮をしており、また噴き出しているガスで形状も不規則になっていることから、人類が超新星を目撃できる可能性のある星です(※6)。もしいま超新星爆発が観測された場合、距離は640光年ほど離れているので(つまり640年前に爆発したことになるわけですが)、直接の影響は殆ど無く、数日間は昼間でも輝いて見えると考えられています。問題はガンマ線バーストの影響を受けるかどうかで、現時点では地球の位置が放射される方向から外れているので、自転軸の移動などがない限り問題はないだろうというのが大方の研究者の結論のようです。

主だった超新星の記録
185年、SN 185を観測。ケンタウルス座3,300光年。最古の観測記録。
393年、SN 393を観測。さそり座。超新星残骸RX J1713.7-3946か?
1006年、SN 1006を観測。おおかみ座7,200光年。明月記にも記録されている。
1054年、SN 1054を観測。おうし座7,000光年。現在のかに星雲。明月記に記録された3つのうち最も有名なもの。
1181年、SN 1181を観測。カシオペア座26,000光年。明月記の記された時代に起こった超新星。
1572年、SN 1572をティコ・ブラーエら複数の天文学者が観測。カシオペア座12,000光年。新星と名付けられた最初の星で、通称ティコの星。
1604年、SN 1604を観測。へびつかい座20,000光年以内。通称ケプラーの星。銀河系内で記録上最後に観測された超新星。
1885年、SN 1885Aを観測。アンドロメダ銀河内254万光年。supernovaと呼ばれた最初の星。他の銀河で発見された最初の超新星でもある。
1987年、SN 1987Aを観測。大マゼラン銀河。167,800光年。ニュートリノを多数観測しニュートリノ天文学のきっかけになった。
2005年、SN 2005apを観測。かみのけ座47億光年。観測史上最大光度の超新星。
2006年、SN 2006gyを観測。ペルセウス座方向の銀河NGC 1260内。2億3800万光年。対生成を伴う対不安定型超新星爆発で観測史上最大級。


※1…中世カトリック全盛期には、天動説が絶対であり、太陽や惑星の動きを含め、神の作った宇宙は完璧・不変であるとみなされ、不意に生じる新星や超新星は大気上層部の現象だと考えられてきたが、観測技術の発達とルネサンス期の宗教観の変化によって、宇宙で起こる現象だと考えられるようになった。そのため「新星」と名付けられた。ただしティコ・ブラーエ自身は観測結果と整合しないとして地動説を否定的に捉えていたという。
※2…ブラックホールすら残らない極超新星爆発もあると言われる。
※3…約4億4000万年前のオルドビス紀−シルル紀境界での大量絶滅はその候補の一つ。6000光年以内で起こった超新星爆発のガンマ線照射が原因という説もある。
※4…藤原定家が明月記を記したのは、1180年〜1235年で、1054年の超新星は陰陽師らの残した記録を記載したものといわれる。1006年と日記と同時代の1181年の超新星爆発のことも記されている。
※5…ほ座ベラ・ジュニアは西暦1200年ころ超新星爆発の光が地球に到達しているはずだが記録にない。G1.9+0.3超新星残骸も140年位前に地球に光が到達した超新星爆発の残骸と見られるが記録にない。
※6…明日起こるかもしれないし、1万年後かもしれないスパンだが、宇宙の歴史の長さから見ると人類スケールに近い時間で超新星化する。ベテルギウスの直径は太陽の約900〜1000倍(太陽の位置から見て木星軌道くらいまでの大きさがある)、視直径は約0.047秒(太陽の視直径は約30分)で、太陽には比べられないが、全天で2番めに「見た目」の大きな恒星。宇宙望遠鏡などでは直接観測が出来るため、その変化もよく分かる。

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