2012年01月31日

1月31日の出来事

1月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1879年
高橋お伝の斬首
これが日本で最後の斬首刑となりました。斬首は、確実に人を殺せる処刑法として青銅器時代から行われていましたが、日本では「斬首」は一般庶民に対する処刑法であったのに対し(武家は切腹の上で「介錯」であり「斬首」は大名で松倉勝家の1例だけとされてます)、ヨーロッパでは貴族の処刑法でした。それは他の苦痛を伴う処刑法(逆さで縦に鋸挽きする、串刺しにする、四ツ裂き刑、ゆっくり火あぶりにするなど)に対し即死するため、より軽い刑罰だったわけです。しかしうまく切れずに苦痛を伴うことも多かったことから、苦痛なく処刑できる「人道的」な方法としてギヨタンによってギロチンが発明されました。
日本で最後に斬首されたとされる高橋お伝(高橋でん)は、上野国利根郡下牧村の出身。
慶応2年12月(1867年1月)に高橋浪之助と結婚しますが、その生活は長くは続かず、1872年9月17日、浪之助が癩病を発病して死去。お伝は看病しましたが助かりませんでした。その後の彼女の行動から、夫を毒殺したという風な創作が付け加えられています。その後、小川市太郎という男と恋仲になりますが、この男がろくでもない人物で、借金を抱えてしまいます。困ったお伝は、古物商の後藤吉蔵に借金を相談します。吉蔵は自分と寝れば金を貸すと言われ、迷った挙句、それを受け入れて、明治9年(1876年)8月26日浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で一晩を過ごしました。ところが翌日、吉蔵が金は貸せないと言ったことから、お伝は怒り、剃刀で吉蔵の喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走しました(寝ている間に金を盗もうとして見つかったために殺した、という話もある)。9月9日、強盗殺人容疑で逮捕され、東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で、江戸時代より代々斬首の役目を世襲した山田浅右衛門八代目の弟吉亮により、斬首刑に処されました。
仮名垣魯文をはじめ、小説、演劇、映画、テレビドラマなど明治から現代に至るまで、多くの作品にも描かれており、毒婦と呼ばれている割には、身勝手な男のために身を崩して自滅したその行いに共感や同情する所があるのでしょう。


1912年
女性専用車両の登場
女性専用車両は、現在、JRをはじめ、主に大都市圏の多くの鉄道路線で導入されています。これは痴漢犯罪の被害を軽減させるのが大きな目的です。
この女性保護のための専用車両の考えは、古くからあり、最初に導入されたのは、東京の中央線のうち中野駅〜昌平橋駅で導入された婦人専用電車でした。
朝と夕に運行され、主に女学生の身辺を保護するのが目的だったと言われ、学習院院長だった乃木希典が意見を出したという説もあります。当時はまだ、男女が同じ電車に乗ることは風紀上よくない、という感覚もありました。
女性専用車両はしばしば廃止されては復活を繰り返しており、その過程でシルバーシートも生まれています。なお、観光目的の女性専用車両もありました。
痴漢防止として導入されている近年の女性専用車両ですが、反発もあります。それは男女平等を唱えながら、この件のみ女性を特別扱いしてその車両分不便を強いる男性を差別している、というもの(台湾ではそのために廃止になっている)。また痴漢を行う人への抑止効果はない、というもの。男性に対する痴漢もあること。そして男性への痴漢冤罪が多発していることへの不満から、むしろ男性専用車両を作るべきだ、という意見まであります。ただ女性への痴漢犯罪は多いことから、その対策は当然必要でしょう。
痴漢犯罪とは別に、混雑がひどくなったことから、事業者・利用者共に廃止を求める意見もあります。
外国ではイスラム教のように宗教的に男女を分ける所では女性専用車両があります。
ちなみに、近年のこの女性専用車両は、子供や高齢者、身体障害者、その介助者は男性でも乗車できますが、女性乗客から抗議されて移動や降りる羽目になる事例が見られるといいます。


1917年
無制限潜水艦作戦
潜水艦は、アメリカ南北戦争時代頃に出現した艦種ですが、本格的に戦争に投入されたのは、技術の発達した第一次世界大戦。
ドイツはUボートと呼ばれた潜水艦による無制限潜水艦作戦を開始すると発表しました。
これは潜水艦で、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶は、軍艦だろうが商船だろうが艦種を区別せず、無制限に、無警告で攻撃するというもの。
1915年に短期間だけ、イギリスの周辺海域で実施され、大西洋航路の豪華客船ルシタニア号や客船アラビック号を撃沈しています。しかしドイツ皇帝によって一旦は中止します(ドイツはルシタニア号出港の直前、新聞に警告文を掲載しています)。しかし戦争の長期化を受けて、経済的打撃効果もあり、軍事物資の輸送を止める手立てでもある無制限潜水艦作戦を、英仏周辺海域と、地中海で実施することにしました。
アメリカ人も犠牲になったルシタニア号事件に続き、この作戦の開始によって影響を受けたアメリカ合衆国は、中立をやめて参戦を決定。戦術的には大きな成果を上げたこの作戦は、戦略的にはドイツの敗北の遠因となりました。
無制限潜水艦作戦は、戦時国際法違反に当たる行為ですが、実際には、どの国も、民間船や赤十字船に兵や兵器を運ばせたりすることが多く、いちいち臨検して調べるようなことは実際上困難で、まして潜水艦の用途から考えても、事実上、無制限の攻撃を行なっていました。それは、第二次世界大戦でも変わらず、ドイツや日本ばかりでなく、連合軍のアメリカやソ連の潜水艦も、日本やドイツの多数の民間船を沈めています(ソ連は終戦後も日本の引揚船などを撃沈しています)。


1979年
江川巨人に移籍
作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回など数々の記録を残した、まさに「怪物」と呼ばれた江川卓投手。各球団はこぞって彼の獲得に乗り出すも、当時の江川投手は、大学進学を目指していたといいます。指名した阪急に対し、江川は拒否して進学しました(当時巨人はさほど興味を示していない)。法政大学でも大活躍した江川は、卒業時に巨人行きを希望し、巨人も1位指名を目指しますが、クジ順では福岡のクラウンライターライオンズが1番目。しかし江川は拒否(恋人との交際を理由に関東を離れたくなかったため。巨人以外でも関東の球団であればOKだったという)。結局、1年待ちとなり、米国へ野球留学。その間にクラウンライターが西武に売却されたため、西武が交渉するも失敗。1978年11月21日江川は突然巨人とドラフト外入団で合意。これは交渉権を受け継いだ西武の期限がドラフト会議の前々日に切れること、ドラフト会議の対象者が中学、高校、大学生であること、社会人野球選手は最低2年間プロになれないが、江川は学生でも社会人でもなく留学していたこと、を理由に、この期限切れとドラフト会議の間のたった1日の空白期間を利用して、巨人は契約したわけです(江川は前日に急遽帰国させられ、当日朝に知ったという)。この巨人による空白の一日作戦は、波紋を広げ、他球団の抗議に遭い、ドラフト会議は大混乱。南海、近鉄、ロッテ、阪神が江川を指名。阪神が交渉権を得ます。交渉権があるのは巨人か阪神かという事態の中、巨人はリーグ脱退も示唆し、日本野球機構コミッショナーの金子鋭に判断を仰ぎますが、金子はドラフト会議こそが有効と判断し、巨人入団契約は無効、阪神が交渉権を持つと判定されました。しかしこれでは巨人が収まらないと考え、一旦阪神に入団した後、巨人へトレードするというのはどうか、とアイデアを示します。今度は阪神が反発するも、江川との交渉も難航。ようやく阪神入団を決め、その上で、即日、巨人・阪神間でのトレードが成立。それに巻き込まれたのが、当時巨人にいた小林繁投手でした。彼は唐突に阪神へのトレードを告げられたわけです。これが球界・ファンから激しい批判を受けために、結局、交換トレードではなく金銭トレードとして、阪神は小林を確保、江川は巨人へ移籍しました。
いまでこそ、穏やかな解説者として知られる江川氏も、この事件で長いことマスコミやファンから悪人のレッテルを貼られていました。のち小林と江川はお酒のCMで共演し、当時のことを語り合って大きな話題となっています。


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2012年01月30日

1月30日の出来事

1月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1165年
三十三間堂が落慶(長寛2年12月17日)
三十三間堂は蓮華王院本堂が正式名称で、天台宗妙法院に属しています。ここは988年に太政大臣藤原為光が法住寺を創建しましたが、1032年に九条邸から起こった火災で延焼し焼け落ちます。1161年、この法住寺の一帯に、後白河上皇が平清盛に協力を命じて、院の御所を建設します。これを法住寺殿といいます。御所ですが、大きな伽藍を構成した大寺院でした。
長寛2年12月17日に完成。このとき本堂として作られたのが、いわゆる三十三間堂。これは清盛の父、平忠盛が鳥羽上皇に寄進した観音堂「得長寿院」に似ているため、関連があるかもしれません。
建長元年(1249年)の火災で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されました。
蓮華王院と呼ばれるのは、後白河上皇の「前世」が蓮華坊という僧侶だったから。上皇には頭痛の持病があり、それを熊野権現で祈願したところ、京の因幡堂薬師如来に祈るとよい、というので、戻って参詣したところ、上皇の前世は蓮華坊で、蓮華坊の髑髏が岩田川の底にあり、目の穴から柳が生えてきたため、風で柳が揺れると上皇の頭が痛む、というお告げがありました。そこで岩田川を調べると髑髏が出てきたので、上皇はそれを本堂の千手観音の中に納めて、熊野から切り出した柳の大木を本堂の棟木にしたところ、頭痛が治ったといういわれがあるためです。このため、三十三間堂は「頭痛山平癒寺」と庶民の間で呼ばれました。また、この棟木を切り出した切り株の上に建てられた熊野の楊枝薬師堂も同様に呼ばれています。
「三十三間堂」の名称は、母屋の柱間が33あり、また33が観音菩薩が衆生を救うときに変じる姿の数に関わる数字であるため。内部には1001体の千手観音像が置かれています。
極端に長いお堂で、その西軒下は121.7mもあることから、江戸時代には端から端へ弓を射る通し矢が行われ、中でも丸一日かけて行われる「大矢数」が有名。
もともと妙法院と後白河上皇の関係が深く、そこから法住寺とも関わりました。豊臣時代に方広寺が北に隣接して作られたことから、豊臣ゆかりの門や塀が現存しています。


1945年
ヴィルヘルム・グストロフ事件
第二次世界大戦末の1945年1月21日、ソ連軍の侵攻に伴い、ナチスは東プロイセンなどドイツの東方領土や支配域から多くの市民や兵士をドイツ本国へと避難させることを決定。避難には海上を使い、そのために多数の貨客船が動員されます。これをハンニバル作戦と呼びました。膨大な数の人々を輸送する作戦に、一隻当りの搭載人数も定員を上回る大変な数になりました。
1月30日、ヴィルヘルム・グストロフ号は少なくとも1万582人の避難民と傷病兵を乗せて、バルト沿岸のゴーテンハーフェンを出港しました。護衛は水雷艇1隻。この大型船は、一般市民向けの比較的安価な客船としてナチスが建造したもの。地中海などでのクルーズに使われた後、海軍に徴用されて病院船となり、その後は兵営として使われていました。クルーズ用で船内が広かったことからこの船も避難民輸送に使われたわけです。
しかし出港後、無灯火で進んでいた同船は、海軍の掃海艇が近づいていると知らされ、衝突防止のため灯火を付けたことから、ソ連軍の潜水艦S−13に発見され、発射された魚雷4本の内、3本が命中。1時間後に沈没しました。定員をはるかに超える避難民はボートや救命具も足りない中、大パニックに陥り、そのまま極寒の海に放り出されました。
近くにいた水雷艇や掃海艇、貨物船などが救援に駆けつけ、1200名以上を救助しますが、9343名が死亡しました。これは海難史上最大の犠牲者と言われています。
その後も避難作戦は継続され、2月10日に客船シュトイベンが撃沈(4500名死亡)、4月16日に客船ゴヤが撃沈(6666名死亡)されています(他も含め総計33000人が死亡)。一方で250万人もの人がドイツ西部へ避難しました。
グストロフとシュトイベンを撃沈したS−13の艦長アレクサンドル・マリネスコは、避難民船撃沈の正当性の問題などで必ずしも評価されず、のちに予備役に回されています。


1948年
ガンディー暗殺
マハトマ・ガンディーは本名をモハンダス・カラムチャンド・ガンディーといい、ポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーの子。マハトマは「偉大なる魂」という意味で、詩人タゴールに贈られた尊称。子供の頃は非常に素行の悪い人物でした。その後、留学先のロンドンで法律を学び、弁護士となります。南アフリカへ渡り弁護士として開業しますが、南アフリカは人種差別の強い国。彼も差別され、それに反発してインド系移民の権利擁護運動をするようになります。第一次世界大戦で、イギリスはインド人の協力を求め、代償によりインドの自治を認めますが、勝利したイギリスは自治どころかインドの支配を強化。さらに抗議するヒンドゥー教徒をイスラム教徒の兵を使い武力で弾圧しました(アムリットサル事件)。イギリスは信用出来ないと思ったガンディーは独立のためのインド国民会議に参加。
ヒンドゥー教やキリスト教の影響で非所有の思想を持ち、非暴力・不服従によって、イギリスに抵抗。塩税に対して塩の行進を行なうなど、その活動は人を引きつけ、後世の多くの社会運動家のモデルとなりました。ガンディーはイギリス製品の不買とインドの伝統的綿製品を着用するアピールで糸車を回しました(インド国旗の中央のチャクラ(輪)はこの糸車が元です)。
しかし弾圧を受ける民衆はしばしば暴動に走り、第二次世界大戦では日本の協力で独立戦争を図ろうとするチャンドラ・ボースらの勢力もありました。ガンディーは日本の覇権主義を批判しますが、日本と共に戦ったインド人兵士が戦後、処罰されそうになったことで、ガンディーは彼らを助けるためにも独立を人々に指示しました。第二次世界大戦でイギリスは勝利するも、インドを支配する力はもはやなく、独立を達成します。しかしイスラム教のパキスタンは分離。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は対立し、ガンディーは絶食して抵抗しますが、イスラムを容認しているとしてヒンドゥー教徒のナートゥーラーム・ゴードセーらに、ガンディーを経済的に支えていたビルラー財閥の邸宅で暗殺されました。
ガンディーは非暴力・不服従で抵抗し、その意味では正しい人物ですが、カースト制度の階級は容認しており(カースト外に置かれた最下級の不可触民制度には反対)、近代技術を一方的に否定し、また親族に禁欲を強いるなど、必ずしも万人に受け入れられる思想だったわけではありません。ただ他人には優しい人だったといいます。
ちなみに実際に独立を達成した初代首相ネルーの子孫は代々政治家となり「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれますが、このガンディーはマハトマ・ガンディーではなく、ネルーの娘インディラ(のち首相)と結婚したフィローズ・ガーンディーの姓から来ています。


1972年
北アイルランド「血の日曜日事件」(ボグサイドの虐殺)
長年アイルランド島を支配してきた大英帝国から独立したアイルランド。しかしその北部にある北アイルランド(アルスター地方)だけは、英国領として残りました。イギリスはプロテスタント系の英国教会ですが、アイルランドはカトリック。両者は宗教的にも対立関係にあります。そして北アイルランドのイギリスからの分離を訴える市民は、イギリスの強圧的な支配に抗議してしばしばデモ(北アイルランドでは非合法)を行なっていました。イギリスの公判無しで監禁を認める政策に反発した市民が、ロンドンデリーで集会を開くために集まったところ、イギリス陸軍は落下傘連隊を投入。デモ隊の一部が軍のバリケードへ接近して投石したところ、軍は鎮圧用のゴム弾や催涙ガスで応戦、さらに参加者を逮捕するために進軍。そのさなかにボグサイド地区で逃げ惑う市民に発砲し、27名が撃たれ14名が死亡しました。
軍は裁判で無罪を主張しましたが、のちにブレア政権下で再調査を行ったところ、兵士らの虚偽報告や、当時現場の副指揮官だったマイク・ジャクソン元参謀総長も無実の人々を撃ったことを認めたといいます。
この事件は結果的にアイルランド統一を訴えるIRA(アイルランド共和軍)の過激化を招き、多数の爆弾テロを引き起こしました。


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2012年01月29日

1月29日の出来事

1月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1940年
西成線列車脱線火災事故
大阪市此花区の当時の鉄道省西成線(現JR西日本桜島線)安治川口駅構内で午前7時少し前に起こった列車脱線転覆火災事故です。
列車は臨海の軍事工場地帯へ向かう労働者で満員でした。車両は当時比較的普及していたガソリンカー(ガソリン動車)という気動車でしたが、日中戦争が始まり、燃料の節約のため、できるだけ無駄に使わないようしばしば惰性走行を行なっていました。そのために遅れが生じて、単線区間の西成線に臨時列車や旅客列車が集中して入ることが出来ず、更に遅れが生じる状況になります。遅れると時間を戻すためにはガソリンを消費しなければならず、焦った駅員が、この列車が分岐器を通過しているさなかに、手動で分岐器を操作してしまいます。そのため列車は線路をまたいで走行し脱線。構内にあった踏切そばの電柱に激突して転覆しました。この際に、満員の車体が重みで沈んでいたため、ガソリンタンクにプロペラシャフトが接触してタンクが破損。漏れ出したガソリンに、転覆時の火花か何かが引火して車体が燃え上がりました。
転覆したため片側の窓からしか逃げ出せず、満員の車内の乗客は次々と火に飲み込まれて行き、乗員乗客の死者は189名、重軽傷者は69名という大惨事になります。しかし、軍事重要路線であることから、労働者らを総動員して復旧が行われ、その日の午後には運行を再開しています。駅員2名が禁錮2年となりましたが、そもそも列車通過中に分岐器が操作できた状態も問題でした(事故を受けて通過中の操作ができないように鎖錠される)。
同線の電化は翌年の予定でしたが前倒しされ、さらにガソリンカーの危険性が明らかだったことから、ディーゼル動車への開発が進められました。戦争による燃料不足もありますが、この事故でガソリンカーは急速に衰退しました。


1960年
カフジ油田の発見
太平洋戦争が、石油資源の獲得を大きな要因としていたように、エネルギー資源の乏しい日本は、戦前からその確保に苦慮してきました。戦後、燃料や製品の原料として、石炭から石油へシフトする中で、日本は独自の石油資源獲得に動き始めます。独自にこだわったのは、かつてアメリカに石油輸出を禁止されて苦境に陥り、戦争へ発展した苦い経験があったからです。1957年、日本輸出石油株式会社がサウジアラビアで採掘権を獲得。それに尽力した実業家、山下太郎が興した会社がアラビア石油で、クウェート沖の海底で大規模な油田を掘り当てました。これがカフジ油田であり、日本初の自主開発油田で、日の丸油田と称されました。クウェート王族が日本に開発許可を出したのは、技術支援などの他に、欧米に対する対抗意識があったとも言われます。
その後も、アラビア半島の各国と結んで日本は石油を輸入して行きました。これが日本の発展を促したと言っても間違いではないでしょう。しかしその始まりとなったカフジ油田の契約は、アラビア石油の採掘権は2000年2月に期限が切れる事態に。クウェート側がごねて、延長されずにマスコミに批判されました。
アラビアでの自主開発の成功は、一方でアラビア半島依存となり、他の地域の資源開発を遅らせ、東シナ海で中国に先手を打たれたり、中東情勢次第で石油危機に追い込まれる事態も招いています。


1968年
藤田嗣治死去
藤田嗣治は洋画家。1886年(明治19年)に軍医だった藤田嗣章(のちの陸軍軍医総監)の子として生まれた彼は、子供の頃から絵が好きで、それが高じて画家としてフランスへの留学を夢見るようになります。父の関係で軍医総監でもあった森鴎外の勧めで東京美術学校(現東京芸大)に入り、卒業後は展覧会などに出品しますが、当時の画壇は、黒田清輝らのグループが力を持ち、その画風に合わない彼は相手にされませんでした。まもなく結婚するも、妻を置いてフランスへ渡り、妻とは離婚。芸術家が多く住んだパリのモンパルナスに居住。彼を支援したのはパトロンとして知られた超大富豪、バロン薩摩こと薩摩治郎八。藤田はパリで最新のキュビズムやシュールレアリズムに触れ、日本で権威を誇っていた黒田清輝らの印象派が時代遅れであることを知ります。
のちにエコール・ド・パリと呼ばれた様々な新たな画風とそれを生み出す自由奔放な暮らしを送る若き画家たちに惹かれた彼は、教え込まれた作風のすべてを捨て、透明感のある独特の画風を生み出して行きました。第一次大戦の頃は絵が売れず、貧窮しますが、終戦間近になりにわかに評価が高まるようになりました。このころフランス人と再婚。戦後の新たな時代に藤田の画風ははまり込み、人々に賞賛され、経済的にも成功。サロン・ドートンヌ(1903年に誕生した新進の展覧会)の審査員に推挙されるなど大変な人気を博しました。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章も受けています。南北アメリカでの個展も大成功をおさめるほど。私生活では2番目の妻と離婚後、3度目の結婚をしますが、これもまもなく破綻。1933年日本に帰国しますが、日本での評判はまったくありませんでした。欧米での賞賛に画壇から嫉妬を買ったと言われます。日本で終生の伴侶となる君代夫人と結婚。その後、従軍画家として中国で活動後、一旦はフランスへ戻りますが、第二次世界大戦勃発で再び帰国。戦時中は、いわゆる「戦争画」を多数描きました。彼自身、国のため、という意識もあったようで、それは日本で受け入れられない孤独感もあったのかもしれません。この戦争画にも沢山大作があります。

ところが、終戦後、この戦争画によって「戦争協力者」だとして、洋画家で日本共産党員の内田巌らに激しい糾弾をうけるはめに。ここでも藤田に対する嫉妬があったという説もあります。また、藤田のような「協力者」を攻撃することで、自分への批判をかわそうという意図もあったでしょう。戦時下で協力を拒むのは画家としては困難であり、殆どの国民が戦争に協力する中では心理的にも難しかったわけですから。他にも日名子実三(※)など同様の理由で攻撃された芸術家は多数います。
どこまでいっても日本から嫌われることに嫌気がさした藤田はフランスに渡りました。フランスでも過去の人という扱いでしたが、それでも受け入れられ、フランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと名乗りました。スイスのチューリッヒで死去。死後になって、ようやく、日本でも評価されるようになり、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈されたりしますが、藤田自身は祖国に対する孤独感から離れることが出来なかったでしょう。
※日名子実三は彫刻家、デザイナー。宮崎の八紘一宇の塔(現平和の塔)の彫刻設計や、デザインとしては日本サッカー協会のサッカーボールを抑える三本足の八咫烏が有名(発案は内野台嶺)。


2002年
悪の枢軸
この日、アメリカ合衆国のジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が、一般教書演説で北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸(axis of evil)」と名指しで指摘し、物議をかもした出来事です。
この背景には、前年に起きた前代未聞の同時多発テロがありました。テロを主導したアルカーイダと関係の深いアフガニスタンのタリバン政権に侵攻し、対テロ戦争と呼ばれる状況下にあった中での発言で、従来よりアメリカと関係が悪く、テロ組織の背後に暗躍する支援国家という位置づけで、北朝鮮、イラン、イラクの3か国を批判したわけです。
イランはイラン革命後のアメリカ大使館選挙事件以来、イラクは湾岸戦争以来、そして北朝鮮は朝鮮戦争以来、仲が悪く、それぞれに大量破壊兵器の開発を進めていると見られていました(イランと北朝鮮は実際に進めている)。国連機関の査察を拒否するといった3カ国の対応もあったわけで、一概にブッシュ大統領の感情的発言というだけでもありません。
さらに5月には、ボルトン国務次官が、「悪の枢軸を越えて」という演説をおこない、大量破壊兵器を追求する国々としてシリア、リビア、キューバを追加指定。いずれも反米国家です。どちらの発言も、世界を動かすアメリカの不遜さや、安直さを感じさせる所があり、批判も多く出ました。そしてこれが2003年3月19日にはじまるイラク戦争へつながっていきます。
なお、北朝鮮が含まれているのは、イスラムだから敵視しているわけではないことへの調整、という見方もあります。
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、ベネズエラ、キューバ、ボリビアの反米政権による連携を「善の枢軸 (axis of good) 」と呼び、
イスラエルのオルメルト首相は、イスラエルと敵対するイラン、シリア、ヒズボラ、ハマースと、それらの協力者である北朝鮮を悪の枢軸と呼び、イスラエル外相アヴィグドール・リーバーマンも、イラン、シリア、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んでいます。


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