2012年03月31日

3月31日の出来事

3月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1944年
海軍乙事件
これは、太平洋戦争の最中、連合艦隊司令長官だった古賀峯一海軍大将が行方不明になった事件。
この年の2月17日連合艦隊の拠点であるトラック島の泊地は、大空襲を受けます。そこで連合艦隊は拠点としてパラオに移りますが、ここも3月30日に大空襲を受けます。海軍も迎撃に出ますが、港は機雷をばらまかれ、地上の港湾施設も破壊されたため、夜、司令部をとりあえずフィリピンのダバオへ移すことを決定します。
翌日も空襲が続きますが、夜になり空襲が止むと、ダバオから二式大艇が2機到着します。二式大艇は日本では数少ない4発エンジンの高速大型飛行艇です。
古賀長官を始め、司令部要員は搭乗すると急いで出発します。ところが、この2機は低気圧に遭遇し消息を絶ちました。政府は古賀長官らが遭難殉職したとして、古賀大将は元帥に列せられます。
ところが、事態はそう単純なものではありませんでした。
実は、福留繁参謀長らの乗る2番機が不時着水。上陸するも、ゲリラに襲撃されてしまったのです。当時日本の支配下にあったフィリピンですが、統治に失敗し反感を買っており、ゲリラ組織が活動していました。福留はあっさりと機密書類を奪われてしまい、アメリカ軍の手に渡りました。「あ号作戦」などの詳細が漏れ、米軍の対日作戦に利用されたと言われます。ただし、米軍の戦術的勝利に貢献したかどうかは賛否両論あります。福留らは解放され、助けだされますが、海軍内部で情報を奪われたかどうかで聴取されるも、このことが明らかになることを恐れた上層部によって不問にされました。福留はその後、第二航空艦隊司令長官になっています。
なお、乙事件というのは、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を甲事件と呼んだことを受けてのものです。


1970年
よど号ハイジャック事件
左翼テログループの赤軍派は、国内での取締が進む中、国外に亡命して拠点を築くため、ハイジャックを計画しました。
ところが、3月15日に、赤軍派議長の塩見孝也が逮捕されたため、メンバーの田宮高麿らは、ハイジャック計画をすすめることにしますが、その予定日だった3月27日に、メンバーが遅れてしまい、3月31日に変更されます。
メンバーは、羽田空港発板付空港(現:福岡空港)行き日本航空351便に乗り込みました。当時は検査が厳しくなく、持ち込んだ日本刀や拳銃、爆弾らしきものを見せて(実は偽物だった)、乗客らを脅して拘束。操縦席に入り込んで、航空機関士も拘束し、機長と副操縦士に対し、北朝鮮の平壌へ向かうよう指示します。
機長は、国内線なので、平壌まで行く燃料がない、と説明。給油のために板付空港に向かいます(実は燃料は余裕を持たせてあるため、平壌に行くことは可能だった)。
警察や自衛隊は離陸させないように妨害を行いますが、赤軍派の怒りを買います。機長は女性や子供の解放を条件に出して、23人が解放されます。その後、離陸して朝鮮半島へ向かいますが、この時韓国政府と協力し、ソウルを平壌に見せかける工作を準備。現れた戦闘機の指示に従い金浦空港に着陸。韓国兵が北朝鮮兵の格好で現れるなど偽装しますが、赤軍派にバレてしまいます(米国の旅客機が止まっていたのに気づいたから、現れた男が犯人の北朝鮮に関する質問に答えられなかった、金日成の写真を用意出来なかった、などの説があります)。
赤軍派は、離陸を要求するが、韓国側がエンジンスターターの提供を拒否したため、離陸できず、事態は膠着。韓国側の強行突入を抑え、ソ連や赤十字を通じて、北朝鮮政府と交渉し、平壌へ移動した場合の人質の保護を求め、北朝鮮も了承。これをうけて韓国政府を説得し、さらに韓国側とともに赤軍派と交渉するため、山村新治郎運輸政務次官らも到着。
4月3日、山村次官は、乗客の身代わりとして自ら人質になると条件を出し、日本社会党の阿部助哉衆議院議員がその身元を保証したため、赤軍派も了承。
乗客を降ろし、山村次官を乗せて北朝鮮へ向かいました。具体的な地図がなく、無線の指示もなかったため、平壌国際空港ではなく、美林飛行場跡地に着陸しました。乗員と山村次官の身柄は北朝鮮当局に確保され、犯人は投降しますが、北朝鮮が一旦、人質だった乗員らの身柄返還をごねますが、よど号で無事帰国しました。
犯人らは北朝鮮で歓待されるも、当然、赤軍派の拠点づくりにはならず、日本への無罪帰国もかなわず、柴田泰弘が日本への密入国後に逮捕、田中義三がカンボジアで逮捕されて、両者は日本で服役、病死。吉田金太郎、岡本武、田宮高麿は、北朝鮮で死亡したとされ、のこり4人が北朝鮮に残っているといいます。
自ら人質となって名を上げた山村新治郎は、のち、自民党訪朝団の一員として北朝鮮に行く前日、次女に殺害されるという事件で死亡しました。


1998年
日本原子力発電株式会社東海発電所の営業運転終了
日本で最初に商業運転を行ったのが、東海発電所。事業者は日本原子力発電株式会社。英国製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉で、減速材に3万個もの黒鉛のブロックを使っており、これも日本で初めてのタイプでした。耐震強化を施した上で、1965年5月4日に臨界に達しており、以後27年間運転されました。出力は16万kW。そして1998年3月31日に運転停止し、日本で最初の商業用原子炉の解体プロジェクトが行われることになりました。実はまだ設計寿命に達していませんでしたが、発電量が低いためにコストが悪かったためです。このコストの悪さも経験に生かされ、日本では黒鉛炉はその後作られることはありませんでした。
高濃度放射性物質に汚染されているため、非常に時間がかかる原子炉解体のプロジェクトは、日本では初めてのケースであり、その経験を得るために利用されています。そして2014年からは6年かけて原子炉の解体を行う予定。大津波の後、外部電源喪失でメルトダウンを起こした福島第一原子力発電所も解体される予定ですが、内部は溶けた核燃料により、数分で死亡するほどの高線量であるため、より困難と見られています。


2000年
有珠山が23年ぶりに噴火
北海道南部にある有珠山は、標高737mの、低めの活動の盛んな火山で、過去に何度も大規模な噴火をしています。1910年の明治新山、1944年の昭和新山、そして1977年の噴火は特に大きなものでした。
また、この火山は上記のように2〜30年という短期間で定期的に噴火することでも知られ、予知できるかどうか詳細にその状態を観測していました。2000年3月27日、周辺で火山性の地震が起こり始め、地中の様子を探査したところ、近日中の噴火が予測されます。そこで3月29日、気象庁は緊急火山情報を出しました。間違って責任を問われるより、危険性を重視して予報を出したわけです。有珠山周辺には比較的多くの人が住んでおり、一度大きな噴火が起こると、犠牲者を出す恐れもありました。気象庁の火山情報を受け、壮瞥町・虻田町・伊達市は、住民1万6千人あまりを避難させました。北海道大学は具体的に時間も指定して予測。住民も、頻繁に噴火することを知っていることから、避難に従いました。
そして、見事に3月31日午後1時7分、西山山麓から噴火が始まり、周辺で次々と新たな火口が出現。そのいくつかは住宅地のすぐ近くから起こっており、噴出物で複数の住宅が破壊され、熱泥流で学校や橋などが破壊されました。噴火前に火山情報が出されたのは初めてであり、完全に予測できた噴火でもありました。
噴火は短く、9月にはほぼ終息しました。


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2012年03月30日

3月30日の出来事

3月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1282年
シチリアの晩祷
これは、シチリア島のシチリア王国を支配していた、フランス王ルイ8世の子、アンジュー家のシャルル・ダンジュー(カルロ1世)に対し、地元住民が起こした暴動事件。
彼がシチリア王になったのは、神聖ローマ帝国のシチリア支配が強まったため、帝国としばしば対立したローマ教皇インノケンティウス4世がフランス王に要求したため。それを受け、十字軍と称してフランス軍を率いてシチリアを支配していたマンフレーディ王(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子)をベネヴェントの戦いで倒し(1266年2月26日)、同地を支配しました。
彼は、東ローマ帝国の征服を計画。アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンを従臣して子供同士を結婚させて縁戚関係を結び、ラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーを保護して、こちらも子供同士を結婚させて、1273年、ラテン皇帝の地位を、1278年にアカイア公も相続します。1277年には、さらにエルサレム王国の継承権も手に入れるなど、東地中海方面の地位を着実に固めます。そして具体的な軍事侵攻の準備を進め、そのための物資調達を強制的に行いました。これに住民が反発。さらに東ローマ皇帝ミカエル8世は、ダンジューの勢力拡大を恐れてシチリア島民を扇動します。
そんな中の1282年3月30日、アンジュー家の兵らパレルモで住民の女性を暴行。住民の怒りが爆発し、暴動が発生。シチリア全土へ拡大し、フランス系住民が4000人も殺害されます。遠征用の艦艇も多数が破壊され、遠征計画は頓挫。
シャルルと東ローマ支配を画策していたというローマ教皇マルティヌス4世は、全島民を破門。しかし、シャルルが暴動の鎮圧を進めている中、8月になり、東ローマ皇帝と結んでいたアラゴン王ペドロ3世がシチリアに上陸(ペドロ3世はマンフレーディの婿でもある)。シャルルを破り、シチリア王即位を宣言。シチリア王国はペドロ3世のシチリア王国とシャルルのナポリ王国に分裂しました。
ちなみに3月30日は復活祭の翌日で、晩祷(夕刻の祈り)を告げる鐘が鳴った時、教会に集まっていた住民が蜂起したため、「シチリアの晩祷」と呼ばれています。この際、住民が唱えた言葉「Morte alla Francia Italia anela」(フランス人に死を、これがイタリアの叫びだ)の頭文字を取って、「MAFIA」(マフィア)となったと言われるため、この日は「マフィアの日」になっています(ただしマフィアの語源は複数あり、シチリアの晩祷事件は、あとから付けられたものと考えられます)。


1940年
汪兆銘政権の樹立
盧溝橋事件後、本格的に中華民国へ侵攻した日本軍ですが、蒋介石とは交渉しなかったため、収集を図るために白羽の矢を立てたのが汪兆銘(汪精衛)でした。当時、日本の事実上の影響下にあった大陸沿岸地帯で、河北や北京・天津・青島などを支配する中華民国臨時政府(王克敏政権)、江蘇省、浙江省、上海・南京を支配していた中華民国維新政府(梁鴻志政権)が、日本の傀儡政権として設立されましたが、汪兆銘はこれらを吸収して、「中華民国政府」を樹立しました。蒋介石の重慶政府とは別ですが、中華民国の正統を主張していました。汪兆銘は法政大学で学んだ過去もある知日派で、民国政府内部で蒋介石と対立していました。また、この政権に参加した閣僚らは、蒋介石政権で軽視された政治家や、北洋軍閥政府(北京政府)の主要メンバーでした。中華民国は誕生以来、南北に分裂した状態が続いており、南側の政府の蒋介石に対して、北側の政府のメンバーが汪兆銘側に付いたわけです。もともと汪兆銘は、日本との間で、日本の影響下にない地域で政権を樹立する、日本軍は2年で撤兵する、中華民国は満洲国を承認する、という協定を結んでいました。しかしせっかくの秘密協定も、近衛文麿の第三次近衛声明や首相辞任で撤兵が確約されなかったために台無しにされてしまいました。
国民党が汪兆銘を暗殺しようとしたため、彼は日本支配地域での政権樹立を決めたと言われています。
日本側は、汪兆銘政権をして中華民国の代表機関として和平を結ぶという格好にしましたが、蒋介石との戦闘は継続し、また汪兆銘政権はなかなか各国の承認を得られず(ドイツも含め)、市民の支持も得られませんでした。汪兆銘自身は日本と共に蒋介石政権との和平を念頭にしていたと見られます。日本と英米の開戦は、勝つ見込みがないと反対していましたが、やむなく日本側で戦争に参加します。一方では徐々に蒋介石との講和も模索するようになっていたとも。しかし、かつて狙撃された時に負った傷が悪化。名古屋へ治療に訪れ、1944年11月10日そのまま亡くなりました。政権は日本の敗戦を受けて1945年8月16日に解散。汪兆銘の墓は1946年1月15日に国民党によって爆破され、遺体は焼却されました。


1981年
レーガン大統領暗殺未遂事件
就任してまもなくのアメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガンがワシントンD.C.近郊のヒルトンホテルの会議場そばで狙撃された事件。
大統領は胸に銃弾を受け、ジェイムズ・ブレイディ大統領報道官、警察官のトマス・デラハンティ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシーも重症を負いました。テレビ中継のさなかに事件は起こり、大騒ぎの中、大統領はシークレットサービスの手で専用車に押し込まれ、そのまま走り去りました。途中、重症を負っていることがわかり、急いで病院へ運ばれ、緊急手術が行われて、一命を取り留めました。
タカ派として知られたレーガン大統領ですが、実はこのテロ事件は、思想的にはなんの関係もないもの。
狙撃犯は、ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニアといい、彼は女優ジョディ・フォスターの偏執的なストーカーで、彼女の気をひこうとして失敗すると、旅客機をハイジャックして自殺を図ろうとしたり、ついには大統領を暗殺して歴史上の人物になり、彼女に認めてもらおうと、異常な思考に囚われていきました。その標的になったのが、ジミー・カーター大統領だったわけですが、銃の不法所持で逮捕されたため、その間に就任したレーガン大統領が狙われたわけです。
ヒンクリーは、1982年6月21日の判決で、精神異常が理由で無罪となり病院に収容、大きな波紋を広げます。精神異常者の犯罪に関する法改正へと発展し、アイダホ、カンサス、モンタナ、ユタの4州が免罪措置を全て廃止。一方、銃器購入の際の購入者の適性を確認する「ブレイディ法」は、この事件で頭に銃弾を受け障害が残ったジェイムズ・ブレイディ補佐官から来ており、レーガン大統領は任期の間、彼をずっと補佐官に任命していました。


1995年
警察庁長官狙撃事件
オウム真理教による地下鉄サリン事件から間もない、3月30日、当時の國松孝次警察庁長官が、東京荒川区南千住の自宅マンションを出た所で狙撃され、3発の銃弾を受けて瀕死の重症を負いました。一連のテロ事件で、市民の間に衝撃が広がります。
手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2ヵ月半後には公務へ復帰。完治するには1年半もかかりました。
事件の直後に、テレビ朝日に電話がかかり、オウム真理教への捜査をやめるよう、警視総監の名を標的に上げて脅迫しました(電話の主は砂押光朗教団幹部だとされています)。狙撃犯はオウム真理教の信者だった警視庁の岐部哲也巡査長だとされ、事情聴取でも具体的な説明をしますが、拳銃などは発見できず、起訴猶予処分となります。この捜査の過程では、警視庁と警察庁の連携が乱れ、その後、2004年に岐部哲也、砂押光朗、石川公一の3幹部が改めて再調査されますが立証できず、不起訴となっています。また、オウム真理教とは無関係の強盗事件を起こして服役中の男性が、犯行を自供しますが、証拠がなく、これも関連性が低いとして、のちに不起訴となっています。
結局、2010年(平成22年)3月30日午前0時に公訴時効到来となりました。この際、警視庁公安部は記者会見で、オウム真理教によるテロと断定し、識者の批判を浴びました(証明はできてないわけですが、オウム真理教による犯行の可能性は非常に高いと考えられています)。


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2012年03月29日

3月29日の出来事

3月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1911年
日本で工場法が公布される
工場法というのは、労働者の労働時間や年齢制限などを定めた法律のこと。
産業革命が始まり、工業化が進んだことで、利益追求をすすめる工場での過酷な労働環境が問題になるようになり、労働者の反発が強まったことから、1833年、イギリスで労働条件を規制する工場法が認められると、各国で採用の動きが進みました。
日本では、当時主要な輸出産業であった製糸業を中心に、いわゆる「女工哀史」と呼ばれる工場での過酷な女性労働が社会問題になり始めていました。そこで農商務省がまとめた『職工事情』を参考にして以下のような工場法を制定します。
第1条:就業者が常時15人以上の工場に適用する。
第2条:12歳未満の子供は就業させない(法施行時に10歳以上のものを引き続き就業させる場合を除く)。
第3条:15歳未満および女子の1日12時間以上の労働を禁じる(ただし大臣指定の業種は法施行後15年間に限り2時間を追加できる)。
第4条:15歳未満および女子を午後10時から午前4時の間就業させない、
第5条:次のうち1つに該当する場合は、第4条は適用しない(ただし法施行15年後からは14歳未満および20歳未満の女子の午後10時から午前4時の就業は禁じる)、1:一時に作業を為さなければならない特殊な事由がある場合、2:夜間の作業を必要とする特殊な事由がある業務の場合、3:昼夜連続の作業を必要とする特殊な事由がある業務で職工を2組以上に分けて交代で就業させる場合、以上の業務の種類については主務大臣が指定する。
第6条:職工を2組以上に分けて交代で就業させる場合は第4条は適用しない。
第7条:15才未満および女子に対しては、毎月少くとも2回の休日を設け、職工を2組に分けて交替し、午後10時から午前4時の間就業させる場合および第5条第1項第2号に該当する場合は、少くとも4回の休日を設け、又1日の就業時間が6時間を超える場合は、最低30分、10時間を超える場合は、最低1時間の休憩を就業時間中に設ける
と言った内容で、全部で25条ありました。
例外規定や猶予期間が付いており、労働緩和にならない抜け道のある法律でしたが、徐々に改正されていき、ILO基準の1日8時間、週48時間労働へと近づいて行きました。ただしこれは一定年齢未満と女子に限ってのことで、男子は適用されていません。昭和22年9月1日、労働基準法制定により廃止され、男子も含むILO労働基準が成立することになりました。


1952年
マリモの日
1952年3月29日に、北海道阿寒湖のマリモが国の特別天然記念物に指定されたことから、3月29日はマリモの日とされています。
マリモは日本を始め、ロシア、北欧、北米などに分布する水生植物ですが、必ずしも球体になるわけではなく、実際に球体で確認されているのは、日本やアイスランド、エストニアなどの一部の湖沼だけ。そのため、海外でも「マリモ」として知られています。
この球状のマリモは、球体でひとつの個体ではなく、多数の個体の集合体が球状になったものです。
1753年にカール・フォン・リンネがスウェーデンのダンネモーラ湖で採取し学名Aegagropila linnaeiをつけていますが、球状のマリモは、1897年に札幌農学校(現北海道大学)の川上瀧彌が阿寒湖の尻駒別湾で発見し、その毬のような形から「マリモ」と名づけました。
1921年(大正10年)3月3日天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日に特別天然記念物に指定変更されました。
阿寒湖のマリモが有名ですが、他にも北海道や青森、山梨、西は琵琶湖にも生息しています。
マリモは年々減少していて、レッドデータブックに絶滅危惧I類で登録されており、保護が求められています。


1967年
恵庭事件で被告人全員が無罪
恵庭事件とは、北海道千歳郡恵庭町(現恵庭市)にある、自衛隊演習場の近隣で、酪農家が演習による騒音で牛が影響を受け、牛乳の生産量が落ちるとして、自衛隊との間で、射撃訓練の際には事前に連絡すると確約したにもかかわらず、自衛隊が守らなかったとして、施設と着弾点との間の通信回線を切断した事件。
この住民を、自衛隊法第121条の「その他の防衛の用に供する物」に該当する防衛器物の破損として121条違反で起訴します。
これに対し裁判では、そもそもの自衛隊が憲法9条の平和条項に反するとして、違憲問題論争に発展しました。
1967年3月29日、第1審の札幌地方裁判所の判決では、通信回線は自衛隊法121条「その他の防衛の用に供する物」に該当しないとして、被告人に無罪を言い渡した。しかし自衛隊の憲法判断に関しては、被告人の行為が無罪である以上、憲法判断を行う必要はなく、また行うべきでもはないとして、論争については回避しました。
検察はこの自衛隊の違憲問題があったためか、上訴をせず、また当然のように、無罪となった被告人は上訴することでの利益がないとして、無罪が確定しました。軍事力である自衛隊の憲法問題は、当然論争になるわけですが、一方で現実問題として防衛力が必要であり、政治的に判断せざるを得ないことから、度々裁判で争われながらも、このように明確な司法判断を避ける傾向にあります。


1989年
女子高生コンクリート詰め殺人事件が発覚
これは、未成年の少年数人が、女子高生を集団で強姦した上に拉致し、加害者の一人の家に監禁。41日間にわたり性暴力を始め、何度も顔をはじめ全身が腫れ上がって変形するほど暴力を繰り返し、まともな食事も与えず、ついに衰弱して死亡すると、ドラム缶にコンクリート詰めにし、東京江東区若洲の埋立地に投棄するという、まれにみる残虐非道の限りを尽くした事件。死亡した被害者の恐怖と絶望を考えると普通の人なら胸が詰まるような衝撃的な内容に、日本中に戦慄を与えました。監禁していた家の加害者の家族は、事態に気づいていましたが、少年の暴力を恐れ、何も言えなかったといい、家族にも大きな責任があります。
主犯格の4名は未成年でしたが、事件の内容から刑事処分相当として東京家庭裁判所から検察庁へ送致され、刑事裁判にかけられます。
1990年7月20日、東京地裁刑事四部の判決は、主犯格の少年Aに懲役17年(求刑無期懲役)、少年Bには懲役5年以上10年以下(求刑懲役13年)、監禁場所を提供した少年Cには懲役4年以上6年以下(求刑懲役5年以上10年以下)、最も関与が薄いと見られた少年Dには懲役3年以上4年以下(求刑懲役5年以上10年以下)の不定期刑を言い渡します。殺意については、松本光雄裁判長が「未必の故意」として殺意を認定しますが、計画性がない、Aの両親が遺族に五千万円を支払っている、少年らが裁判中に「人間性に目覚めている」などを理由に、情状酌量を入れて、求刑より軽い判決となりました(少年D以外は殺人、婦女暴行、窃盗、傷害なども有罪)。1991年7月12日、東京高等裁判所は、少年A、C、Dに関する検察側の主張を認め一審判決を破棄、主犯格の少年Aに懲役20年、少年Cに同5年以上9年以下、少年Dに同5年以上7年以下。少年Bは一審判決を支持し、双方の控訴を棄却して確定。
ところが少年Bは、仮出所後、2004年5月19日に、またも監禁致傷事件を起こし、6月4日に逮捕され、懲役4年が確定。この事件の影響で服役中の少年Aの仮釈放は取り消しになっています。
日本は死刑制度がある一方で、有期刑は比較的軽く、弁護士による法廷闘争で責任能力を問題にして回避しようということもあり、この事件のような残虐非道な凶悪犯罪でも短期で済むことがあります。そして、服役したからといって、人によっては、更生するとは限らないということも、刑罰の難しさを考えさせられます。


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