2012年05月07日

5月7日の出来事

5月7日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1888年
博士の日
1888年5月7日、植物学者の伊藤圭介、数学者の菊池大麓、物理学者の山川健次郎ら25人に日本初の博士号が授与されました。
博士は、読み方は「はくし」、学位の最高位で、普通は大学院の博士課程を修了して学位審査に合格するか、学外で論文審査に合格した場合に授与されます。
1887年(明治20年)に制定された学位令により定められたのは、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士の5学位でした。
なお、戦後になって大学が増え、研究目的ではなく、大学が通過点のようになってからは学士は当たり前になりましたが、学位設置当初は博士・修士どころか、学士だって非常に珍しく、価値のあるものでした。
なお、学位令設置時には、博士の上に大博士というのがありましたが、1898年に授与例のないまま廃止されています。


1915年
ルシタニア号事件
ルシタニア(RMS Lusitania)は、イギリス船籍、キュナード・ライン所有のオーシャン・ライナー。進水は1906年6月7日。ルシタニアと姉妹船のモーリタニアは、ブルーリボン賞を巡る客船のスピード競争でイギリスとドイツの間が争っていた時に政府の支援で建造されました。
1907年9月7日にリヴァプールからニューヨークに向けて処女航海をし、9月13日に到着。ブルーリボン賞を受賞しています。
ちなみにキュナードのライバル、ホワイト・スター・ライン社はオリンピック級客船(オリンピック、タイタニック、ブリタニック)を建造しました。オリンピック級に比べ防水隔壁が整備され、救命ボートも十分な数を積んでいました。
第一次世界大戦時、その巨体が標的にされやすいことから、仮装巡洋艦ではなく、輸送船・病院船の候補になりますが、英米航路の豪華客船として運航され続けました。
1915年2月18日、ドイツ帝国は「無制限潜水艦作戦」を開始。
4月22日、ドイツ大使館は、新聞に戦争中であるため、イギリスとその同盟国の大型船は攻撃対象になります、という警告文を、ルシタニアの広告の横に掲載しました。
しかし、1915年5月1日、ルシタニアはニューヨーク港54番埠頭から出港。1257人の乗客と702人の乗組員の1959人を乗せていた。
ドイツのUボート「U−20」は、5月5日、6日に、ファストネット岩礁付近で3隻の船舶を撃沈。ルシタニアにも情報が伝わりますが、U−20は燃料が減ったため、任務を終えて帰還する途中、ルシタニアを発見。残る3本のうち2本の魚雷を発射。
1本が右舷ブリッジ直下に命中。直後に謎の大爆発を起こし、右舷に傾斜。このため、救命ボートの大半が使えなくなりました(48隻中6隻のみ)。
ルシタニアは南部アイルランド沖8マイルで沈没し、わずか18分で水深100mの海底に垂直に着底し、船尾はしばらく水面上に出ていました。1198名の乗客が死亡しました。その中には、139名のアメリカ人のうち、128名が含まれていました。
アメリカの世論は沸騰。イギリスはこれを利用して中立のアメリカを参戦させようとしますが、これは簡単にはいきませんでした。のちアメリカは参戦しますが、その遠因の一つとなったとも言われています。
船の周りの海底は、不発の爆雷が多数あると言われ、イギリス海軍が、ルシタニアに何か都合の悪いものを積載していたため、隠蔽するためにわざと沈没点で演習を行い、ルシタニアを破壊した、という説があります。


1946年
東京通信工業(現ソニー)が設立される
1946年(昭和21年)に井深大、盛田昭夫らが東京都中央区日本橋の白木屋 (現COREDO日本橋)3階に東京通信工業株式会社を設立しました。資本金19万円。社員は20人ちょっとの小さな会社でした。社長には文部大臣だった前田多門(次女勢喜子が井深の妻)、技術担当専務に井深大、営業担当常務に盛田昭夫という体制をとった。
技術者の井深大は、写真化学研究所(PCL)社員時代に「走るネオン」を制作してパリ万国博覧会で金賞を獲得した人物で、日本光音工業株式会社に移籍。日本測定器株式会社を設立。軍需用電子機器の開発を行い、熱線誘導兵器を研究している時、戦時科学技術研究会で盛田昭夫と出会いました。盛田は第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科を経て、海軍で研究にあたり、技術中尉時代に井深大と知り合いました。
井深が技術開発に当たり、同じ技術者でありながら盛田が営業マンとして製品を売り込みました。また盛田が資金調達に当たり、実家の醸造会社、盛田株式会社から資金を得ていたこともありました。
初めは真空式電子電圧計などを製作していましたが、その後、トランジスタラジオ、トリニトロン、ウォークマン、AIBOなどを発表しました。
独自の製品を開発することでソニーのブランドは高まり、まさに世界のソニーとなりました。しかし、創業者二人がなくなった後、ハワード・ストリンガー体制になってからは、採算よりもアイデアを生かした製品開発は減り、予算を抑えられた一方で他社の製品を導入するなど、ソニーのブランドも弱まり、円高と国際競争の激しい中、現在のソニーは経営的にも厳しい状態にあります。


2000年
ウラジーミル・プーチンがロシア大統領に就任
プーチンはKGB出身で、ソ連崩壊後に大統領となったボリス・エリツィンのもとで頭角を現し、1999年8月9日に第一副首相に任命され(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行)、12月31日のエリツィンの大統領辞任により大統領代行を務めたのち、2000年ロシア大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任しました。演出の多い人物で、就任の式典も、あるいは「活躍する大統領」の演出として、爆撃機に乗ったり、オートバイを運転したり、柔道をしてみせたりと、わざとらしい演出が見られました。それでも国内総生産(GDP)を6倍にまで増大させ、失業率を大幅に下げ、流通を安定させ、市民の生活を改善させたことから、2004年の大統領選挙では再選を果たし、2008年5月7日まで大統領を務めています。この間、複数の財閥トップを罪に落として競争相手をなくし、メディアを支配して、独裁的なところが批判を受けたり、イスラム勢力と敵対して、度重なる爆弾テロに見舞われました。
後任の大統領であるドミトリー・メドヴェージェフの指名され連邦議会下院で承認されて、5月8日に首相に就任。2012年3月4日に実施された大統領選挙で約63%の得票率で当選。再びメドヴェージェフと交代し、5月7日、第4代大統領に就任。選挙前から大統領返り咲きを宣言するなど、大きな批判を受け、予想以上に支持を受けませんでしたが、対抗馬が弱すぎたために勝てた、という事情がありました。しかし一部では、強いロシアを復活した人物として、熱烈に支持されています。


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2012年05月06日

5月6日の出来事

5月6日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

604年
十七条憲法を制定(推古天皇12年4月3日)
聖徳太子が制定したとされる法文で、日本書紀には「憲法十七條」とあり、臣下や官僚らに対する道徳の規範を記したもの。仏教用語も使われており、儒教、礼教的な文言も見られます。
第一条の「和を以て貴しとなす」は特に有名。以下、第二条、篤く三宝を敬へ。第三条、詔を承りては必ず謹め、君をば天とす、臣をば地とす。第四条、群臣百寮、礼を以て本とせよ。第五条、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁めよ。第六条、悪しきを懲らし善を勧むるは、古の良き典なり。第七条、人各(おのおの)、任有り。第八条、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。第九条、信は是義の本なり。第十条、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。第十一条、功と過を明らかに察て、賞罰を必ず当てよ。第十二条、国司・国造、百姓に収斂することなかれ。国に二君非く、民に両主無し。第十三条、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。第十四条、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。第十五条、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。第十六条、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。第十七条、夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ふべし。
なお、年代に関しては、養老4年(720年)に成立した『日本書紀』が初出で、それ以前の記録が見られないことや、その文章の文言から、成立年代は日本書紀と同時代で、聖徳太子の制定には疑問視する意見もあります。


1626年
ニューヨークの原点ニーウアムステルダムの誕生
オランダ西インド会社がインディアンからマンハッタン島を25ドルで買収し、ニーウアムステルダムと命名したとされています。
この話はあくまで伝説に過ぎず、事実は定かではありませんが、当時草原と湿地帯で覆われていたマンハッタン島をオランダ西インド会社が乗り出して開拓を行ったのはこの頃と考えられています。西インド会社が管轄したのは、このあたりでビーバーの毛皮を多く採取できたからでした。
島には運河が掘られ、要所要所を高い壁で仕切っており、街は外敵に攻められるのを警戒した構造でした。金融街で知られるウォール街の名前もここから来ています。
なおマンハッタン島の脇を流れるハドソン川は、オランダ東インド会社に雇用され、北西航路の探索や現在のニューヨーク一帯からハドソン川上流へ探検に出たイギリス人ヘンリー・ハドソンの名前を名付けたものでした。
ニューアムステルダムは1653年に正式に市となり、ニーウネーデルラントの中心地として発展していきますが、1664年、イギリス軍が侵攻してきて、オランダ総督ストイフェサントは降伏。1667年7月31日、第二次英蘭戦争のブレダの和約でニーウアムステルダムを含むニーウネーデルラントは、イングランドに割譲されて、チャールズ2世の弟ヨーク公に与えられたことから、ニューヨークと改められました。


1671年
伊達騒動(寛文事件)(寛文11年3月27日)
江戸時代の三大お家騒動の一つ。
遊興放蕩三昧の仙台藩3代藩主の伊達綱宗を、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝が諌言しますが聞き入れられませんでした。そこで宗勝は、親族でもある岡山藩主池田光政、柳川藩主立花忠茂、宮津藩主京極高国と相談し、老中酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう依頼します。
ところが、綱宗の放蕩はおさまらず、1660年(万治3年)7月9日に家臣と親族の池田光政・立花忠茂・京極高国の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府は綱宗を隠居させ、わずか2歳の伊達綱村が第4代藩主となることを認めました。その結果、宗勝や立花忠茂らの推す奉行(家老)の奥山常辰が権勢を振るうことになります。しかし後見人の岩沼藩主田村宗良らと対立して失脚したため、宗勝は直接藩政に関わるようになり、目付の渡辺義俊らに大きな権限を与え、奥山失脚後に台頭した奉行の原田宗輔(原田甲斐)もこれを支持して、諫言した里見重勝を無嗣断絶にしたり、幕府国目付饗応での席次問題で、伊東重孝らを処罰する事件が起こりました。また藩主毒殺未遂事件まで起こっています。
そんな中、一門の伊達宗重と宗勝の甥にあたる伊達宗倫の所領紛争(谷地騒動)が起こり、宗重は裁定案を呑みますが、宗勝寵臣の検分役人による郡境検分に不満を持ち、宗重は伊達宗勝派の専横を幕府に上訴。
寛文11年(1671年)3月7日に伊達宗重、奉行の柴田朝意(※)、原田宗輔は老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で審議が行われます。
しかし柴田朝意と原田宗輔の主張が食い違ったため、あらためて3月27日に、大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清以下老中全員と幕府大目付も列座して、2度目の審問が行われることになりました。その審問の控え室で、不利を悟った原田が伊達宗重を斬殺し、さらに老中のいる部屋へ行こうとしたため、柴田朝意が原田を止めようと斬りかかり、蜂屋可広も柴田に加勢しますが、そこに騒ぎを知った酒井家家臣が駆けつけて3人とも斬られ、原田は死亡。柴田も同日に死亡し、蜂屋は翌日に死亡しました。
結局、藩主綱村は幼少のためお構い無し、刃傷沙汰を起こした原田家は一族切腹・斬首による断絶、裁判の争点となった伊達宗勝派、藩主後見人(伊達宗勝と田村宗良)も処罰の対象となり、宗勝の一関藩は改易、宗良は閉門となりました。
もともとの綱宗の隠居を幕府が認めた背景に、綱宗と後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)だったことを、幕府が警戒した、という説もあります。
歌舞伎『伽羅先代萩』、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』は、この事件を元にして作られ、特に『樅ノ木は残った』では、一般に極悪人とされ、無能扱いされた原田宗輔を藩を幕府から守るために孤高のまま戦う忠義の人として描いています。
※柴田朝意は、長宗我部元親の孫で、同家重臣佐竹親直の子にあたり、大坂夏の陣後に伊達政宗に登用された重臣


1937年
ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故
アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で、ドイツ・フランクフルトから飛来したドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号が爆発炎上し墜落。乗員乗客35人と地上の作業員1名が死亡しました。この場面はニュース映像としても記録されています。
事故原因は、当時は雷雨の中飛来したヒンデンブルク号が、何らかの理由で浮揚ガスの水素に引火し爆発した、とされました。そのため、水素ガスの危険性が広まり、飛行船の運用は衰退して行きました。
1997年、NASA・ケネディ宇宙センターの職員アディソン・ベインが、当時の映像などから、爆発の炎が水素のものと異なることに気づき、調査を進めていった結果、雷雨の中、機体に蓄積された静電気が完全には逃げず、外皮のつなぎ目で放電、外皮に塗られていた酸化鉄・アルミニウム混合塗料に引火し炎上した、と発表しました。つまり水素ガスが原因ではない、というもので、この説は有力視されています。実は当時のナチスドイツの調査でも判明していた、と言われ、それを隠蔽したのではないかとされています。ドイツでは大型の硬式飛行船は使われなくなる一方、アメリカはヘリウムガスを使ってその後も採用し、偵察機用の空中空母という特異な使用方法を模索しますが、アクロン号の墜落事故などで結局衰退しました。


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2012年05月05日

5月5日の出来事

5月5日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1260年
クビライがモンゴル帝国第5代皇帝に即位
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)となったクビライ(世祖・聖徳神功文武皇帝・セチェン・カアン)は、チンギス・カンの四男トルイの子。第4代皇帝モンケは兄、イルハン朝を開いたフレグは弟、モンゴル皇帝位を争ったアリクブケは末弟にあたります。
1251年、モンケがカアンとなると、南モンゴル高原・華北の総指揮官となり、南宋攻略を任されます。翌1252年、拠点としていた陝西からチベットを経て雲南へ遠征し、1253年に大理国を降伏させました。
雲南から戻ると、南モンゴルのドロン・ノールにオルド(幕営)を置き、南宋および高麗征服の総指揮を取ります。しかし彼は漢人らを登用し、確実に攻略するため、慎重に作戦を進めます。
ところが、モンケは、早急に南宋を攻略すべきだと判断。クビライを更迭し、自ら遠征を行います。そして1259年、遠征先で病死してしまいます。
カアンの死により、その位を誰が継ぐかで、モンケの弟らが台頭します。特にモンゴルの首都カラコルムを抑えていた末弟のアリクブケと、南宋遠征のために出兵していたクビライが有力候補となります。両者にはそれぞれに支援する王族や有力氏族が付き、対立は激化。
1260年、クビライは本拠地のドロン・ノールでクリルタイを開き、カアン即位を宣言。アリクブケも対抗してカアン即位を宣言しますが、クビライは東部の諸部族を味方につけてシトム・ノールの戦いに勝利し、モンゴル高原から中国にかけての広大な地域を確保。アリクブケはオイラト部族を味方につけてモンゴル高原の半分近くを確保しますが、クビライが中国方面からの物資を抑えたためにカラコルムは疲弊。1264年、アリクブケは降伏し、形式的にも、クビライが皇帝となりました。
クビライは元号、漢人の登用、軍閥の解体と新たな地方行政機関の設置など、中国風の王朝を築きます。しかし、クビライ自身は、あくまで遊牧風の巨大な幕営を王宮として移動しながら政策を進めました。


1889年
エッフェル塔が公開される
パリの象徴エッフェル塔は、フランス革命100周年を記念して1889年に行われた第4回万国博覧会、パリ万博のために建造されました。公募して最終的に採用されたのが、ギュスターヴ・エッフェル、ステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランの設計した案でした。エッフェルが著作権者となったことから、エッフェル塔と名付けられました。金属時代の代表的で独創的な作品であることが評価されました(錬鉄製)。
650万フランをかけ、2年2ヶ月という、当時としては短い工期で建設され、事故もなく完成しました。
高さは312.3m。1930年にニューヨークにあるクライスラービルが完成するまで、世界一高い建物でした。
今でこそパリの象徴であるエッフェル塔も、重厚で詳細な装飾の付いていたな石造りの建物が普通だった当時、奇抜極まりないシロモノで、大変な反対運動が起こりました。完成後もエッフェル塔を嫌う文化人がいて、有名なのが、文学者モーパッサン。彼はエッフェル塔の1階にあったレストランにしばしば通いましたが、それはエッフェル塔を見なくて住む唯一の場所だったから、というほどでした。そのため「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれました。
当初の予定では1909年に解体されることになっていましたが、軍事用の無線電波塔という役目が付き、以来維持されてきました。1991年に、エッフェル塔他パリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録されました。


1945年
風船爆弾で初めての犠牲者が出る
風船爆弾というのは、第二次世界大戦中に、東京の大きな劇場を工場として製造された爆弾(※)。和紙を蒟蒻糊でつなぎあわせた直径10m、重さ200kgの巨大な風船に15kg爆弾と5kg焼夷弾2つを搭載し(それ以外のものもある)、千葉県、茨城県、福島県などから空へ飛ばしたものです。上空の偏西風に乗れば、アメリカまで到達するだろうという考えで行われました。実際に高度10〜12km上空を飛行し、およそ70時間の飛行経路能力を持っていました。
生産個数はおよそ1万発。このうち9300発が放球され、少なくとも361発が、アメリカ国内に到達しています。
実数はこれ以上とも言われていますが、到着した場所が、山中や森林などで被害は殆どありませんでした。
しかし、5月5日、風船爆弾の1発が、不発弾としてオレゴン州に到達し、それを見つけた民間人が触って爆発し、6人が死亡しました。
他の様々な軍事作戦と比較しても、小規模な被害でしたが、それでもアメリカ政府は、情報を制限し、被害の内容を明らかにしませんでした。
※劇場で製造したのは、完成後に水素ガスを注入してガス漏れがないかを確認するため、広くて高い場所が必要だったからです。日本劇場、東京宝塚劇場、浅草国際劇場、両国国技館などで製造されています。


2000年
さいたま新都心が街開き
埼玉県の中心、さいたま市は、元は与野市・浦和市・大宮市の3つの都市でした。
浦和市が県庁所在地で、大宮市が中核的な商業都市、その間に挟まれた与野市で、2001年(平成13年)5月1日に3市が合併して、さいたま市となりました。大宮市と浦和市が首都を補完する業務核都市して定められたことがきっかけとなり、中枢都市を目指す上で、政令指定都市を目指す大宮市と、浦和市、与野市、上尾市、伊奈町との協議の結果、上尾市と伊奈町が離れ、従来、埼玉の代表としてはライバル的な関係にもあった大宮と浦和が与野を挟んで合併に至ります。
その最大の理由は、3市にまたがって存在した旧国鉄大宮操車場。1984年をもって使われなくなった24.9haの広大な土地に周辺地区を併せて、大規模な再開発を行い、政府機関や企業のオフィスビルを誘致し、北の大宮、南の浦和に偏らず、新たな市の中核にしようと考えたわけです。同地の複雑になっていた行政区域も整理することが出来ました。
その再開発地区が「さいたま新都心」で、国、埼玉県、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)が主体となって再開発が進められました。2000年5月5日に街開きの式典が行われました。
政府機関、民間企業ビルの他に、さいたまスーパーアリーナなども建設され、周辺の高層住宅も増えています。


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