2012年09月19日

悪人列伝―日本史上最大の反逆者、明智光秀

2014年の大河ドラマの候補にもなっているという明智光秀。
歴史に疎い人でも、織田信長を本能寺で滅ぼした人物として知っている、ある意味最も知名度の高い人物の一人。
しかし、これまでは、主君を裏切って殺害した謀反人としての評価が主流でした。
近年は、その謎めいた生涯が、学界を賑わせ、様々な創作のテーマになり、メディアでも盛んに取り上げられています。正体不明な分、いろんな解釈ができることが、人々を刺激させるのでしょう。

光秀の出自は、一般的には美濃土岐氏系の明智城主の一門とされ、斎藤道三とその子義龍の争いで道三方について没落し、光秀自身は母親の出自である若狭武田氏を頼った後、越前朝倉氏に仕えたと言われています。朝倉氏のところで、13代将軍足利義輝殺害事件(永禄8年5月19日:1565年6月17日)で難を逃れてきた足利義昭と知り合い、織田信長への上洛を要請する使者として向かい、義昭の家臣として信長に協力することになります。義昭が将軍となる(永禄11年10月18日:1568年11月7日)と、その後は徐々に信長との対立が鮮明化し、光秀は義昭から離れ、信長の家臣となって活躍。比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日:1571年9月30日)、各地の一向一揆との戦いと石山本願寺との攻防戦(元亀元年9月12日:1570年10月11日〜天正8年8月2日:1580年9月10日)に参加し、松永久秀討伐戦(天正5年10月5日:1577年11月14日〜同年10月10日:同年11月19日)、有岡城討伐戦(天正6年11月10日:1578年12月8日〜 天正7年10月19日:1579年11月7日)、そして丹波攻略を担当して、信長の軍団長の一人にまで出世。惟任の姓を与えられ、近江坂本と丹波を領有する大名となりました。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、光秀は中国攻略の途上、京の本能寺にいた信長を襲撃して滅ぼします。朝廷工作や近隣の小大名、そして縁戚関係のある大名らへの工作を進めているさなか、変後11日目にして、中国から大返ししてきた羽柴秀吉軍と山崎で衝突。大敗し、落ち延びる途中、落ち武者狩りによって百姓の竹槍に刺され、殺害、あるいは自害したとされています。

出自には諸説あり、不明なことも多く、その前半生もよくわかっていません。
年齢も、ドラマやマンガなどでは若く描かれがちですが、信長よりも年上と見られています。
そして最大の謎が、本能寺の変を起こした動機。心理を伺わせる記録はほとんどなく、文献史学の悩みどころでもあります。
また、従来言われてきた、「信長からの打擲の数々」「国替えの強制」「饗応の不手際を責められたこと」「保守的な思想が信長の革新的な政策と相容れなかったこと」というのは、ほぼ江戸時代中頃以降に創作されたもので、同時代の記録にはわずかにルイス・フロイスの「日本史」に「光秀が信長から足蹴にされた噂がある」といった僅かなものしかありません。

記録に見られる動きからすると、むしろ逆に、信長と光秀は非常に似たもの同士だった、ウマがあった、という説のほうが注目されています。例えば、仏教勢力を攻撃した信長に対し、従来は反対していたという光秀は止めるどころか、むしろ積極的で、比叡山焼き討ちでも功績をあげています(むしろ秀吉のほうが僧侶らを密かに助けたという説も)。信長は光秀を最大限に評価し、外様でありながら、最も重要な畿内の軍事管轄を任せ、京・安土に近い近江と丹波に領地を与えています。惟任の姓を与え、饗応や馬揃えの役を任せるなど、信長家臣団の中でも群を抜いて特別扱いでした。
また、光秀側も本能寺の変の直前まで、妙な動きは一切見せていないため、変そのものは、唐突に起こったような感があります。

これらのことから、動機についての様々な説が唱えられているものの、どれも、「これだ!」というほどの説得力がありません。
打擲された、というのは信長であれば、十分考えられるでしょうが、それは他の武将でも言えることですし(それどころか追放されたり殺された家臣は多数います)、国替えの命令も秀吉政権や徳川政権でも頻繁にあるため、それほどおかしな話ではありません。信長と光秀の考え方の相違、という証拠は創作以外には見られないし、光秀が変後に協力を求めたのが没落した守旧勢力だったのは、織田家の支配域ではそれしか選択肢がなかったとも言えます。
あとはよくある、陰謀説。朝廷黒幕説、公家黒幕説、家康黒幕説、秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、宣教師黒幕説などがありますが、どれも史実の一部だけを見て、あとは想像で論じているようなところがあります。陰謀説は話としては面白いものですが、実際には、なにもかもが陰謀、というのはちょっと非現実的です。

ただ、これらの黒幕とされた幾つかの勢力が、動機に影響した可能性は否定出来ないでしょう。信長と対立した朝廷や公家、上杉や長宗我部、毛利といった織田家と敵対していた大名、寺社勢力などの意向や情勢が光秀に伝わり、信長を倒したあとに協力を得られるのではないか、という計算は働いたと思います。あまりにも秀吉の来襲が早かったため、光秀の考えが世に反映される前に滅んでしまったのが、謎を謎たらしめてる所以でしょう。

また、唐突という形で信長・信忠親子が空白地帯に置かれていることに気づいて、急遽打倒を決めたのかもしれません。
歴史上には、明確な目的のないままに起こってしまった反乱や騒乱が重大な結果になってしまったことはいくつもあります。
こういう場合、史料的に評価しにくいのが難点でしょう。

光秀は謀反を起こしたことで、忠君を重要視する徳川政権下でも、明治以降の天皇制のもとでも悪く言われてきました。フロイスの「日本史」には陰謀家としての面も描かれているため、ある程度そういう性格はあったのかもしれません(ただしフロイスが異教徒に対して悪意を持って描いている面は引かなければなりませんが)。
一方で、倒した相手が強権的な主君信長であったこと、光秀が領地経営の手腕に優れていて領民に慕われていたこと、記録上も妻の妻木煕子との仲が良かったことがわかることなどから、近年は好意的に見直されつつあります。

なお、著名人にはよくあることですが、光秀や嫡男光慶にも生存説があります。その中には南光坊天海になったというのもありますが、いささか無理があるようです。また、坂本龍馬を輩出した高知の坂本家は明智秀満(光秀の重臣)の子孫を称していますが、実際には定かではありません。


☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
posted by あお at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

悪人列伝−神になった盗賊、高坂甚内

高坂甚内は、盗賊から神になった人物。
武田の家臣だった高坂は、素破、すなわち忍者だったとも言われ、高坂弾正昌信(※)の子(あるいは孫)という説もあります。
武田氏が滅亡したのち、宮本武蔵に拾われ、その弟子となるも私利私欲に走って逃走したという伝承もあります。やがて江戸へ出てきて、盗賊となります。主家武田家の再興を図ったと言いますが、江戸から東海道にかけて散々に悪さを働いたとか。
これはいつの時代にも良くあることですが、まだ治安が安定していない頃は、権力者が裏社会の実力者と組むことがあります。
高坂もそういう一人で、徳川家康に接近し、裏社会に関する様々な情報をもたらしました。

当時江戸の町を荒らし回っていたのが、風魔一族(※)。風魔は北条氏に仕えた忍者の一派で、北条氏が滅んだのちは、敵だった徳川の支配する江戸を荒らし回るのは当然至極のこと。元が忍者だっただけに、幕府もなかなか取り締まれなかったわけです。
同じ忍者であり、裏社会の実力者高坂にとっても風魔は邪魔な存在。そこで高坂は風魔の組織、潜伏場所を探り、その情報を幕府に通報しました。
1603年、風魔の頭領、5代目風魔小太郎は捕らえられ、高坂は幕府の信頼を勝ち得たかのように見えます。当然、引き替えに利権を求めたことでしょう。

しかし、これまたいつの時代にも良くあることですが、社会が安定してくると、たとえ協力者でも裏社会の人間は政権にとって邪魔になってくる。風魔という最大の問題が消え、江戸の治安が安定してくると、今度は裏社会で大きな力を持つようになった高坂自身が危険視されるようになりました。幕府はついに高坂の捕縛命令を出し、高坂は逃走。10年にわたって逃げまわります。彼を支持し匿う人も多かったのでしょう。

しかし彼は「瘧」に罹ってしまった。今で言うマラリアと見られる病気です。逃げられなくなった高坂は隠れ家を密告されて捕らえられ、処刑が決まります。市中引き回しの上、処刑場へ連れてこられた高坂は見物に来た人々に向かって叫びました。
「我、瘧にあらずば何ぞ召し捕れんや。我ながく魂魄を留め、瘧に悩む人、我を念ずるものあらば、これを平癒なさしめん!」
「私は瘧にさえ罹っていなければ、捕らえられることはなかっただろう。だから私はこの世に長く魂魄を留めるから、瘧に罹って苦しむ者は、私に祈るが良い、さすれば治してやろう」ということ。
彼は慶長18年8月12日(1613年9月26日)に浅草鳥越の刑場で処刑されました。
人々は処刑場のそばに社を建て、永護霊神として彼を祀りました。これがのちの甚内神社。江戸の庶民は、病に罹ると神社に詣でて彼に祈ったといいます。
この甚内神社、今も浅草橋鳥越に残っています。
庶民に有名だったためか、彼には、『番町皿屋敷』のお菊の父親という設定もあります。

ところで、江戸初期には三甚内と呼ばれる三大裏の実力者がいました。一人が高坂甚内。もう一人は庄司甚内と言い、吉原遊郭を作った人物。三人目が鳶沢甚内。この男も盗賊でしたが、幕府に捕らわれた際に盗賊らの情報提供を協力するから古着市の支配権を認めてくれ、と申し出て認められた人物です。この鳶沢甚内が高坂甚内の居場所を密告した人物です。

※高坂昌信…武田四天王の一人。弾正忠。実名は春日虎綱ですが高坂昌信で有名。海津城城代。勝頼の代になると越後上杉景勝との同盟を推進した。大永7年(1527年)〜天正6年5月7日(1578年6月12日)。
※風魔…元は風間。頭領風魔小太郎は、ゲームなどでも有名。忍者200人を抱えて後北条氏に仕えた一族ですが、『北条五代記』以外に記録がないため、実在は不明。北条関係の文書に風間出羽守など風間という名字の家臣がみられることから、その関係者かもしれません。風魔小太郎は、堕落した一族を嘆いた家臣の密告で捕らえられたとも言います。
posted by あお at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

悪人列伝−中国史上最高の「悪役」曹操

三国志演義で劉備の最大の敵として立ちはだかるのが曹操。字を孟徳。日本の小説や漫画によく見られる「曹操孟徳」という表現はあまり使わない方法で、曹操か、曹孟徳というのが普通です(字は諱の代わりなので。ただし文章中には同時に使っている例は当時からある)。
漢の建国の功臣、曹参の後裔とされていますが、祖父の曹騰が4人の皇帝に仕えた大宦官で、当然子孫がいないのを特別に許されて養子を迎え(子孫を残し社稷を守るのは儒教では重要な問題)、同じ漢の建国の功臣夏侯嬰の後裔にあたる名門夏侯氏から迎えたのが、曹操の父親である曹嵩でした。有力な将、夏侯惇・夏侯淵はそれぞれいとこで、同じ有力な将、曹仁よりも近い親族になります。

曹操は若くして素行が悪く、評判の悪い人物でしたが、橋玄や月旦評(月一回の人物評)をしていた許劭などからは高く評価されていました。許劭が曹操を評した「治世の能臣、乱世の奸雄」は有名。
20歳で孝廉(※1)に推挙され、洛陽北部尉(帝都北門地区の警察長官)となり、有力者でも容赦なく法令に従わせたことから、敬遠されて頓丘県令に栄転、さらに議郎を歴任しました。
黄巾の乱では戦功を上げ、近衛軍である西園八校尉の一人となり(中平5年10月・西暦188年)、董卓専横では反董卓連合軍(初平元年・西暦190年)の一員となるも、彼自身は有力な地盤を持っておらず、他の軍閥から出遅れ、兵を集めるのにも苦労しています。一方で、黄巾の乱で青州黄巾賊30万を傘下に収めて力をつけ、建安元年(196年)8月に献帝を自分の拠点である許に迎え入れてからは、国家の大義を背景に勢力を拡大しました。

初期の最大の敵だった呂布との攻防(興平元年・西暦194年)や、最大勢力だった袁紹との官渡の戦い(建安5年・西暦200年)などは苦戦を強いられましたが、最終的には勝利を収め、以後も慎重に動きつつ、黒山賊を降し(建安10年・西暦205年)、袁氏を滅ぼし(建安12年・西暦207年)、烏桓や南匈奴(※2)を抑え(建安12年・西暦207年)、公孫氏を傘下に組み込み(同年9月頃)、河北から朝鮮半島北部までを支配下に置くと、荊州へ乗り出しこれをあっけなく手にします(建安13年9月・西暦208年)。
しかし、ここで呉の孫氏と対立。赤壁の戦いで大敗を喫しました(同年冬頃)。
ただ勢力としてはそれほどダメージはなかったのか、以後も長江流域に進出し、黄河沿いに長安方面にも進出して関中十軍閥を撃破し(建安16年3〜9月頃・西暦211年)、漢中へ進出して五斗米道(※3)を降し(建安20年冬・西暦215年)、蜀を窺うまでになります。蜀は劉備に先んじられ漢中も後に奪われますが(建安24年・西暦219年)、当時の漢王朝の領域の7〜8割は抑え、呉や蜀と同列に扱われていますが、国力差は大きく、圧倒的な勢力を築きました。
劉氏以外の臣下としては異例の、魏公(建安18年・西暦213年)、ついで魏王(建安21年・西暦216年)の地位に就き、漢帝国内に魏国を建国。禅譲まであと一歩のところで病没しました(建安25年1月23日(220年3月15日))。ただ皇帝になるつもりだったのか、帝位は次代に譲る気だったのか、あるいはあくまで漢の臣下の分を守るつもりだったのか、そのあたりは不明。息子の曹丕が魏王を継いで、献帝から禅譲を受け皇帝となり、同年魏を建国しました。

曹操が悪く言われるのには、彼の行為の中に大きく2種類の「悪行」があるからでしょう。ひとつは彼を助けた呂伯奢を殺害した事件、名医華陀(※4)の処刑、徐州侵攻による民衆虐殺といった人道的な問題を起こしたこと。もうひとつは、献帝や皇后に対する厳しい対応、孔子の子孫孔融の処刑、求賢令の発令、王公の地位についたこと、といった儒教的な問題を起こしたことにあると思われます。また、曹操が宦官の孫、という点も、批判の背景にあるでしょう。
呂伯奢の事件など、曹操の行為の中には、正史(※5)『三国志』ではなく、その敵対勢力の書に記されているものも多く、正史が意図して外したのか、他の書物が悪意をもって記したのか定かではありません。徐州虐殺は正史にもあるため事実でしょうが、曹操による将兵の管理が完全ではなかったということもあるのか、曹操が比較的早くから『孫氏兵法』に注釈をつけて書物にしたのも、臣下将兵への教育に理由がありそうです。
求賢令とは、人材募集の政令ですが、この中で不道徳な言動の人物でも推挙せよ、という意味の内容がくどくどと付記されています。人材募集が趣味のようだった曹操らしく、また中国の歴史では異例の命令でもありますが、曹操が身分や言動に関係なく才能を重視したのは、自身が宦官の孫という、儒教的に見て蔑視される立場にあったことが大きかったと思われます(※6)。孔融との対立もそういう背景があったのかもしれません。
曹操は早くから劉備の敵対者、悪の親玉というふうに捉えられ、物語が生まれ、のちに三国志演義となりました。
東晋以降の異民族に領土を奪われていた時代に特に善玉劉備対悪玉曹操の構図が出来上がっていったという説もあります。
一方で、正史三国志の著者陳寿、その注釈者裴松之をはじめ、評価している人物も多く、特に近代に入り、魯迅や毛沢東などは反儒教的な思想から曹操を評価しています。日本では儒教の影響が弱く、さらに吉川英治が小説『三国志』で曹操を人間味のある準主役として扱ったことから、以降の小説やマンガ、ゲームはその傾向が強く、曹操は人気のある英雄の一人です。

曹操は、外見はさほど立派ではなかったといいます。しかし、自ら先陣に立ち、剣をふるい、敵対した人物を許し、部下の意見を採用し、屯田による開拓を進め、漢詩の元となった四言詩、五言詩を歌謡・楽辞から発展させて自ら歌い、のちに日本酒の醸造法にも影響した九醞春酒法を皇帝に上奏するといった具合に多彩な人物でした。
そんな彼だからこそ、家臣らはもとより、民衆にも相応に支持を得られ、あれだけの国家を作れたと言えます。

※1孝廉…漢朝で行われていた郷挙里選制度の科目の一つで、地方長官に命じて、毎年国や郡から孝行な者、廉正な者を推挙させた。官僚となる有力な道だったものの、権力の世襲化が進み、軍閥が強くなると、その子弟から選ばれるようになった。ほかの科目に賢良・方正・直言・文学・計吏・茂才などがある。
※2烏桓・南匈奴…北方の異民族で、この時代は長城を越えて漢の領土に入り込んで居住。烏桓の騎兵は曹操軍の強さを高めたと言われる。なお南匈奴はのちの五胡十六国のきっかけを作った部族で漢や魏王朝とは比較的友好関係にあった。
※3五斗米道…現在の道教の起源となる宗教勢力。当時漢中を支配。信者に五斗の米を寄進させ、流民のために無料の食事処を各地に置いた。当時の教祖は不老だったという張魯。
※4正史…正しい歴史という意味ではなく、国家が作らせた正統の歴史書。王朝交代後に前王朝の分が記されるのが普通。『三国志』は西晋に仕えた陳寿の編著で、西晋が魏から禅譲を受けているため、魏を正統国家としている。ただし曹操については都合の悪い内容も記されている。
※5華陀(字は元化)…正史に見られるものの、かなり伝説的な医者で、麻酔技術を持ち、開腹手術や鍼治療、投薬、健康体操に優れていたとされています。正史の記述では、医術を評価する曹操に対し、医者の地位が低く、儒者としての評価を期待した華陀は、曹操に失望し、嘘をついて曹操の元から去ろうとしたため、怒りを買って殺された。曹操は自身の優秀な子曹沖が病死した際、華陀を殺したことを悔やんだとか。華陀も元化も先生とか教化するという意味に通じるため、架空の人物という可能性もあるほか、異民族説もある。
※6「宦官の孫」…陳琳は袁紹の檄文を記し、曹操のことを「贅閹遺醜」(贅閹、すなわち、去勢された奴の余り物(養子)が遺した醜いせがれ)などと称し、曹操は「これを読むと腹が立つ」と言いつつ、その文章を賞賛しています。
posted by あお at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。