2012年10月28日

隣国問題―朝鮮と中国の「範囲」

中国と韓国の領土問題では、蘇岩礁、日向礁、丁岩礁があることは先に上げましたが、これとは別に、両国の間で微妙な問題をはらんでいるのが、「朝鮮」「中国」の範囲。
その対立の最も大きな要素が、古代国家「高句麗」の「帰属問題」です。
中国は高句麗を「中国の地方政権」であり、現在の朝鮮民族の祖である新羅とは異なっていると主張。隋と唐が高句麗を攻めたのは、対外戦争ではなく、「国内統一を目指した内戦」という位置づけになっています。
それに対して韓国は、高句麗は歴然とした独立国家であり、現在の朝鮮民族の原点の一つとして扱っていて、当然、隋や唐との戦争も国際戦争の位置づけ。
なぜこのような対立になったかというと、これは高句麗の歴史的・地理的・文化的・民族的な「位置」が曖昧で微妙だから。

高句麗は自称「高麗」で、日本でも関東などで見られる高麗(こま)の地名は高句麗移民が住んだ場所であるとされています。高句麗という名前は、漢帝国が設置した玄菟郡に属する高句麗県から来たもの。紀元前75年ころに、玄菟郡が廃止されたため、地元の勢力を高句麗県侯を任じたのが初期のものと思われ、その後、高句麗王を称する勢力が出てきます。
紀元前37年に朱蒙によって興されたことになっていて、その朱蒙は扶余の金蛙王の子とされていますが、このあたりはかなり神話的内容で、史実はよくわかっていません。ただ、古くから、高句麗や百済などでは自分たちが扶余系であることは認めていたフシがあります。朱蒙の時代は卒本城に都を置き、のちに丸都城に移りました。卒本は今の遼寧省の端、丸都は吉林省集安市に当たります。魏王朝の頃までは臣従していました。
扶余は漢の頃に、のちの満洲地方にあたる地域に住んでいた民族で、鮮卑の東方、烏桓の東北方面に位置しました。
つまり、扶余にしても、高句麗県にしても、卒本や丸都にしても、中国から見れば、中国国内だ、という理屈になるわけです。

ココらへんが微妙で、中国の当時の思想から言えば、すべての中心である「中国」(黄河流域の洛陽辺り)から同心円的に世界は地方・辺境へと広がり、蛮夷の住む世界へとなっていくわけで、今でいう国境という概念がありません。皇帝の威徳が届きにくくなっていく度合いのようなもので、扶余なんかは今の政治地理学的感覚で言えば、支配権の及ばない外国なんだけども、今の中国は満洲地方も抑えているから国内、という今と昔をごっちゃにしたような理屈をこねているわけです。

一方、高句麗は最盛期には満洲地方のかなりの部分から、遼東半島、そして朝鮮半島の大部分を抑えるまでになり、都も平壌に置かれています。まだ都市国家を少し大きくした程度の百済や新羅(※1)を半島の南端に抑えこんでいましたが、両国が勢力を伸ばしてくると、三国は「二国対一国方式」でくっついたり離れたりを繰り返します。この関係に、南の倭国、西の北朝系中国王朝まで乗り出してきて、やがて高句麗は統一国家の隋(581年建国)や唐(618年建国)から繰り返し攻められるようになります。その都度撃退して、隋はこの負担の大きさから滅亡しますが、朝鮮半島では新羅が台頭。唐と手を組み、この時期高句麗と同盟関係にあった百済を660年に滅ぼし、663年の白村江の戦いで倭国は半島から駆逐され、唐・新羅と高句麗の対立構図になり、666年、麗唐戦争が始まり、668年、ついに高句麗は滅亡に追い込まれました。
高句麗の移民は、多くが唐王朝によって移住を余儀なくされますが、一部は敵対した新羅へ降伏し、新羅は彼らを重用して唐勢力を半島から追い出すために利用しています。また一部は北東へ逃れて後に満洲から沿海州にかけて強大化する渤海の建国に関わり、さらに日本列島にも多く渡り、文物を伝え、高麗の地名を各地に残しました。

676年に事実上半島を統一した新羅は、やがて内部崩壊していきます。900年には新羅の将軍だった甄萱によって南西部に後百済が興され、また新羅の王族の出自で、在野にあった弓裔が高句麗を受け継ぐ名分をもって901年、後高句麗を興し、同国は半島の過半を抑えますが、918年には、暴君と化した弓裔を配下の王建が弓裔を追放して王氏高麗王朝を興します(王建は漢人説もある)。高麗は935年に新羅を滅ぼし、936年には内紛を起こした後百済を滅ぼしています。

連続性から言えば、これがその後、高麗から、李氏朝鮮、大韓帝国、日本の統治を経て、北朝鮮と韓国になるため、韓国としては高句麗が朝鮮の祖国王朝のひとつになるわけです。
ただ言語学的には、朝鮮語は新羅の言葉をルーツに持ち、高句麗の言語とは異なるとされています。

沿海州地方を中心に満洲に領土を広げた渤海は、その祖、大祚榮が、高句麗(高麗)の別種、あるいは従属していた粟末靺鞨の出自だとされており、高句麗移民も多く加わっていたことから、韓国ではこれも朝鮮民族の国家の一つとしています。ただ領土的には朝鮮半島は北部の一部が含まれるのみで、高句麗に比べると違和感は抜け切れません。
ちなみに渤海とは黄河の河口にある湾のことで、その海に面した渤海郡から来ています。実際には領有していない地名が国号になっているのは、唐が懐柔策として大祚榮を名目上の渤海郡王に封じたため(3代大欽茂は渤海国王に封じられている)。
冊封体制にあったと言っても、現代の感覚で言うところの中国国内の地方政権というのは無理があります。朝鮮か中国か、ではなく、渤海だったというしかありません。

韓国では、高句麗、渤海、王氏高麗が朝鮮民族として登場する作品として、『朱蒙』『大祚榮』『太王四神記』『広開土太王』『太祖王建』『近肖古王』などのテレビドラマが制作されており、民族意識を刺激してか好評を博し、放送回数も日本ではありえないほどの数になっていますが、元から神話ファンタジー風の太王四神記は別にしても、他の作品が史実に則ったわけではなく、演出も中国人が悪辣だったり弱虫だったり(これは他の歴史ドラマでも共通)、また、「西百済」(※2)を指しているとみられる描き方が出るなど、明らかに「歴史問題」で中国を意識したドラマを制作しているのがわかります。

なお、北朝鮮では中国との関係が大きいためか、あまりこの種の問題に関わっていません。

※1百済は朱蒙の三男が紀元前18年に建国したと伝承にはありますが、記録上は346年に即位した13代近肖古王の時代より前のことはほとんどわかっていません。近肖古王は古事記などにも記録のある人物。新羅は新羅六部の村が赫居世居西干を王にした紀元前57年を建国としますが、356年に即位した17代奈勿尼師今より前のことはよくわかっていません。

※2西百済:中国南朝系の記録には、百済が海を渡り、遼西地方(遼東半島を含む遼東地方の西の方)を支配したという記述があるため、韓国では百済が遼西に進出していたという説が人気があります。ここからさらに山東半島や淮河付近に領地を持っていたような原典不明の説も出てきており、これがドラマに反映されたと思われます。しかし中国北朝系王朝にはそれらしい記録はありません。百済ではなく、その祖である扶余の遼西進出を指しているという説もあります。

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2012年10月25日

隣国関係の歴史―日中・日韓・中韓

2012年の8月・9月は、竹島と尖閣諸島をめぐって、日韓関係、日中関係がこじれた月でした。

竹島は、1905年に閣議で編入が決まったもので、戦後のサンフランシスコ講和条約で韓国側が日本領土から除外するよう求めたものですが、連合国側は歴史的に見て受け入れられない、という態度を取ったため、李承晩大統領が李承晩ラインを引いて一方的に韓国領に組み込んだ島。後付けで過去の記録にある別の島を「独島を指す」として古くからの領土を主張していますが、根拠となる島は二転三転しており、ほぼ反論されています。この竹島を2012年8月10日に李明博韓国大統領が大統領として初めて訪問。大阪出身の彼は、親日派を理由に攻撃されており(※1)、選挙を控えて国民の支持を取り戻す思惑があったとも言われています。さらに天皇謝罪要求発言まで飛び出し、日韓関係は極度に悪化しました。

尖閣諸島は1895年1月14日に領有権を調査した日本政府によって編入が決定しており、その後入植しましたが、後に無人島となりました。戦後は米軍施政下の琉球政府に入っていますが、沖縄返還前、中国も琉球政府の一部と認めています。しかし、1968年10月12日からの国際調査でこの周辺に石油資源があると発表されると一転、中国も台湾も領土を主張するようになりました。過去にさかのぼっての領有主張を行なっていますが、これも明朝・清朝の史料の多くは領土外という認識にあることから論争になっています。近年中国側の軍事圧力が強まり、漁船の侵入、保釣運動関係者の上陸強硬なども相次いで、日本側の態度も硬化。特に2010年9月7日の漁船衝突事件での日本政府の対応とその後の映像流出事件が日本国民の反発を買いました。空軍戦闘機の飛来、漁業監視船の侵入、海洋局のヘリによる威嚇行動なども頻発。2012年4月16日、石原東京都知事が購入を発表。中国と台湾政府の幹部も強硬発言を繰り返し、侵犯事件も続発。9月11日、日本政府による国有化に発展(目的は石原都知事の購入阻止)。中国各地での反日官製デモは、暴動に発展。日本人以上に中国人が被害に遭うという皮肉な結果となり、日中関係も極度に悪化しました。

戦後、謝罪を繰り返し、経済支援を行い、技術を無償で教え、友好関係を築こうとしてきた日本人の努力は、あっという間に台無しになってしまったわけです。
日本の「過去の歴史認識」問題が要因であるとして、両国や、日本国内の左派系知識人は指摘していますが、欧米メディアや、同じ領土問題で軍事圧力のかかっているフィリピン、ベトナムなどでは、中国の覇権主義、帝国主義を問題にする論評も見られます。

ところで、今回、日中、日韓関係ばかりが目立ちましたが、実は、隣国同士の関係というのは、世界中どこでも悪いものです。領土問題や、経済問題が直接関わってくるためで、友好的になる時もありますが、仲の悪いことの方が普通です。日中・日韓関係がこじれた同じ時期に世界中で対立や紛争が起こっています。

身近なところでは、中国と韓国の海洋領土紛争があります。
今回、領土問題で日本を敵視するという意味で共通する両国が、外交的同盟関係や、盟友関係を結んだかというと、そうでもありません。というのは、この両国、歴史的には何度も争っており、また近年に入ってからはより露骨に領土問題が生まれ、かつ「どこまでが朝鮮で、どこまでが中国か」という認識で、教科書問題からテレビドラマに至るまで、火種が尽きないからです。

現代の領土問題としては、東シナ海にある蘇岩礁(韓国では離於島。発見船からソコトラ島ともいう)、日向礁(可居礁)、丁岩礁(波浪礁)の3つの暗礁が争点となっています。いずれも韓国と中国の中間付近にあります。

蘇岩礁は、戦後になって韓国が領土を主張し始め、竹島同様に李承晩ラインに一方的に組み込まれ、離於島と名づけました。この名前は、済州島の伝承にあるいわゆる「彼岸の島」(※2)で、それを理由に領土を主張し、実際の暗礁に命名したわけです。のちに中共政権が安定してくると、国際法上の大陸棚の管轄権をたてに、この島の領有権を唱えて蘇岩礁と名づけました。蘇岩礁の名は、古書『山海経』(※3)に出てくる「東海の外にある蘇山」からきているようで、こちらも怪しいといえば怪しくなります。
韓国はさらに、波浪島とも呼んでいましたが、これも伝説上の島の名で、その場所は日本海側にあるとする意見もあり、「独島」同様、もとが非常に曖昧で、説明も二転三転しています。結局、2001年1月26日に韓国地質学会が「離於島」としました。韓国政府によって、1987年に灯台が建設され、さらに2001年にはこの暗礁の海中にある「麓」を基盤に櫓を組立て、上にヘリポートなどのついた施設が完成しており、中国の反発を買いました。

可居礁は、1927年3月29日に日本帝国海軍の戦艦日向が接触したことで調査・発見された暗礁で、「日向礁」と名付けられました。中国ではそのまま「日向礁」を使ってますが(古くから日の出る方向にある暗礁として知られてきたという理屈もつけて)、韓国は可居礁と命名して、海洋観測施設を建設したため、これも中国の反発を買っています。

丁岩礁は、蘇岩礁の側にある大きな暗礁で、中国が1999年から2002年にかけて調査し、「丁岩礁」と名付けたため、今度は韓国の海洋水産部が2006年12月29日に、上記の伝説の島「波浪島」から「波浪礁」と命名しました。

なお、これらは海面下にある暗礁なので、本来はいわゆる「領土」ではありませんが、漁場、排他的経済水域への影響のため、両者で対立。中国の漁船団に対し韓国海洋警察が取り締まりを行い双方に死傷者が出ています。

中国周辺での各国の対立の背景には、近代に入って中国を宗主とする中華圏(※4)が崩壊し、一種の民族自決権が周辺国に出てきたことや、国境という概念が明確化したこともあるでしょう。中国の混乱の中で、周辺国が独立国としての権利を主張するようになり、その後、経済力をつけて自信をもつようになった中国もまた資源確保を主な理由として領有権を主張するようになったため、相次いで対立を生んだわけです。


※1:李明博大統領は大阪出身の財界人ということもあって、親日派のように見えますが、政策的には対日強硬論も多い人物。なお、韓国では歴史上、退任した大統領が在任中の不正を追求されることが定番化しており、全斗煥、盧泰愚、金大中、盧武鉉はいずれも退任後に問題になった。李明博大統領も次兄がすでに摘発されていて、自身も訴追される可能性が高くなっている。これは大統領を内乱・外患以外の理由で在任中訴追できないこともあるため。
※2:彼岸の島、すなわち、海の彼方に理想郷があり、死後にいけるといったもの。日本で古くからある常世、普陀落、竜宮、沖縄のニライカナイなどもその一種。海辺に住む民族には必ずあります。
※3:「山海経」は中国の戦国時代から前漢の頃にかけて書き足されていったと言われる地理・風物誌
で、内容の多くは伝説・伝承の類が元になっている。
※4:中国、中華、の本来の意味は、「世界の中心地」「文明の中心地」で、洛陽などのある黄河流域の「中原」を指す言葉。三国志などでも呉や蜀からは魏のことを中国と呼んでいる。対極にあるのが周辺蛮族の「四夷(北狄、東夷、南蛮、西戎)」であり、この中国と四夷の関係が中華思想へと発展した。近代化の際に、「蛮夷」の世界から来た西洋文明の吸収を遅らせる原因の一つにもなっている。

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2012年10月08日

悪人列伝−第六天魔王、織田信長

日本は古来より、和をもって尊しとなし、あまり突出する人材をよしとしない風潮があります。いまでも出る杭は打たれるとして、付和雷同的な風潮が強く、他人を思いやり、争いを避けようとする美点はあるものの、一方では相手にもそれを求めるため、しばしばお人好しなことをして、外交で中国などに出し抜かれたりしています。物事をはっきり言わずにナアナアにして過ごそうというのも、相手を傷つけまいとし争いを避けようという意識が働いているからでしょう。
証拠はないですが、古代、戦乱の大陸から逃れてきた人々や先住土着の人々が、お互い争って覇を競うより、手を組んで大陸からの侵略を警戒したほうがいいというような風潮がはじまりだったのかもしれません。記紀神話や神道の神社の順列を見ると大和政権の成立過程で、他の勢力を融和して取り込んでいった過程が推測できます。

そんな日本史の中で、時代時代で出る杭となっても社会を動かした人々がいます。中でもずば抜けて異色だったのが織田信長。
本能寺で滅びるまでに、日本最大の勢力となり、幕府に代わる新政府を築き、その組織は中央集権的で、異国と貿易し、宗教的にも厳格に対応しました。
戦国時代という現実的な社会の中では当然ではあるものの、それが彼のような現実主義者を生み、統一体制への流れを作っていったわけです。

尾張守護代の清洲三奉行のひとり、織田信秀の嫡男として生まれます(天文3年5月12日:1534年6月23日とされるも異説あり)。尾張は織田一族が分割統治のような状態にあり、信秀はその中では勢力を持っていましたが、強大な守護大名がまだ残る天下の中では、極小規模な勢力でした。
信長は若き日、衣装も乱れ、ワルガキどもを引き連れて山野を駆けまわり、父の葬儀には抹香を位牌に投げつけるなど、当時ですら異常な言動の数々。うつけ、と呼ばれていたと言います。
しかし、実際の馬鹿だったわけではなく、家臣を巻き込んだ弟や一族との権力闘争、特に稲生の戦い(弘治2年8月24日(1556年9月27日)※)を経て、尾張の大名へと成長。家臣団を掌握し、領地経営者として有能でした。

桶狭間の戦い(永禄3年5月19日:1560年6月12日)、稲葉山城攻略(永禄10年9月頃)は、信長の天下取りの足がかりとなる厳しい戦いでしたが、以後、足利義昭を将軍に奉じ(永禄11年10月18日)、その権威を背景に諸国平定へと乗り出します。しかし義昭との対立から織田包囲網が形成され、その対応に振り回されます。急襲して朝倉一族を滅ぼし(元亀4年8月20日:1573年9月16日)、義弟浅井長政も小谷城攻防戦で滅ぼし(元亀4年9月1日:1573年9月26日)、松永久秀、荒木村重の謀反に対処し、本願寺と一向一揆は長期に渡って苦しめられ、三方ヶ原の戦い(1573年1月25日:元亀3年12月22日)で敗れた最大の敵、武田氏を長篠の戦い(天正3年5月21日:1575年6月29日)で破って天目山で滅ぼし(天正10年3月11日:1582年4月3日)、一方最強の敵である上杉謙信に手取川で敗れる(天正5年9月23日:1577年11月3日)など、その生涯は強敵との苦戦の連続でした。

信長はスローガンとして「天下布武」を称していましたが、外交戦も展開し、敵には容赦しない一方で、味方には領地や権益を認め、婚姻政策にも積極的でした。宗教に対しても、一方的に弾圧したわけではなく、必要とあれば寺社への支援も行なっています。
比叡山の焼き討ちには、延暦寺の宗教らしからぬ武力や金、女犯、それに所領を巡る争いという、世俗的な問題が信長の怒りを買ったのは言うまでもありません。

羽柴秀吉のような身分の怪しいもの、松永久秀のような梟雄でも、有用であれば重用し、国人層と呼ばれる在野の勢力の協力を取り付け、絵師を保護し、料理人まで登用していたほど人材にこだわりました。家臣の家族のことにも気を使っていたことは、幾つかの記録から読み取れます。一方、能力の乏しいものはその地位を剥奪し追放するという容赦のないところもありました。

楽市楽座は彼の独創ではありませんが、積極的に採用し、畿内に進出すると堺を真っ先に抑えるなど、商業の重要性も知っていました。経済観念なくして天下布武も成り立ちません。南蛮貿易は言うまでもないでしょう。
茶の湯に権威を与えて政治に利用し、鉄砲を大量に投入し、長さ30間(約55m)幅7間(12.7m)の大型安宅船(鉄張りだったとも)を建造し、安土城のように天守閣を一種のシンボル化したことも、彼の現実主義的なところと、その視野の広さを反映しています。それが旧来の価値観を壊したが故に、悪く言われるようになった要因の一つといえるかもしれません。

戦に敗れるとまっさきに逃げるのも、生きていればやり直しも可能、という現実的な考えでした。もっとも「逃げる」という選択肢は、当時はそれほど変な考えでもなかったようで、多くの大名・武将が戦場から逃げています。

信長は、自ら第六天魔王を称していたとも言います。それとその苛烈な方針から、しばしばオカルト的な怖さで表現されていますが、もちろん、信長は人間であり、人間的な喜怒哀楽や悩み、考えもあったわけです。
第六天魔王とは、仏教の修行を邪魔する欲界の悪魔のようなもの。仏教の考えには六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)があり、天界以外はまさに欲によって成り立ちますが、天界の中にも六欲天があり、その一番上が他化自在天といい、そこにいるのが天魔波旬、すなわち第六天魔王でした。天魔は他人の楽しみを自由に我が身の快楽にすることができたとされています。
信長の思想宗教観では、まさにこの世を治めるには、人の持つ「欲」が重要だと認識していたのかもしれません。こういう清濁併せ呑むようなところも、「悪」を冠するにふさわしいと言えます。もちろん、小悪党ではなく、一代の英雄として。

※稲生の戦いは、信長の弟、織田信勝(一般には信行)が柴田勝家、林秀貞ら彼を支持するものと、信長に反抗した戦い。信勝は早くから後継者として信長に対抗していたようですが、信長の岳父、斎藤道三が敗死(弘治2年4月20日:1556年5月28日)したことを機会と見て挙兵するも敗北。信勝は一旦は母の土田御前のとりなしで許されるも、弘治3年11月2日:1557年11月22日に河尻秀隆らの手で暗殺されました。

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