2012年11月17日

悪人列伝−忠義の人だった「悪役」石田三成

悪人、と言うよりは、悪役な立場に置かれたのが、石田三成でしょう。
彼は、近江の土豪石田氏の出身と言われる人物。
織田政権下でのし上がった羽柴秀吉が、近江長浜城主となった頃に仕えたと言われています。
真偽定かならないものの有名な逸話に、鷹狩に出た秀吉があるお寺に寄ったところ、寺小姓だった三成が出てきて、はじめは多めの水を、次にやや少なめにぬるいお茶を、最後に少ない熱いお茶を出し、喉の渇きを潤したため、その気遣いに感心した秀吉が彼を臣下に加えたというものがあります。創作としても、三成の性格の細やかさ、あるいは要領の良さをイメージしたのでしょう。

信長横死後、天下に乗り出した秀吉のもとで彼も出世していきます。
当初は、賤ヶ岳での武功など、武将として知名度を上げていきますが、むしろ彼の活躍は、政治面。
長期にわたって全国の検知奉行を務めた他、堺の接収、博多の復興など、政権の財政面を支える改革を行いました。後述する各種事件を担当し、朝鮮出兵の方針にも関わって、明との折衝も行なっています。関ヶ原で西軍の総指揮官となって敗北、処刑されました。

秀吉政権は、武力統一から、徳川幕府のような完成された官僚体制に向かう中途の状態であったため、政権樹立の功多き大名と武将上がりの行政官との対立が起きやすく、また行政面でも多分に個人に依存しているようなところがありました。秀吉自身はもちろん、事実上の首相であった羽柴秀長、石田三成ら五奉行などです。
そのため、三成は、あらゆる問題に奉行として当たらなければなりませんでした。当然、責任者としての立場が不平や不満の矛先になり易かったことでしょう。

石田三成には、以下のような、彼が仕組んだこと、というレッテルを貼られたものが多数あります。
・忍城水攻め
天正18年6月5日〜7月17日(1590年7月6日〜8月16日)、小田原の役の際の攻防戦。忍城は兵少数だったが唯一攻略に失敗しました。三成が水攻めのために石田堤を築いたとされ、遺構が今も残っています。しかし水攻めに反対したのは三成だったという説も。
・千利休の切腹
切腹は天正19年2月28日(1591年4月21日)。三成が利休を秀吉に讒言したとも言われています。
・蒲生騒動
文禄4年2月7日(1595年3月17日)に蒲生氏郷が40歳で死に、側近だった蒲生郷安と譜代家臣の間で起こったお家騒動。会津蒲生家は宇都宮12万石に転封となり上杉家が会津に入りました。石田三成が蒲生家の弱体化を狙い氏郷を暗殺、親しい蒲生郷安を使ってお家騒動を起こさせ減封にし、やはり親しい直江兼続のいる上杉家を会津に移した、という説があります(騒動の張本人である郷安はほとんど罪に問われていません)。しかし以前から氏郷の病状悪化は広く知られており、郷安と対立した側にもお咎めがなく、減封で浪人となった蒲生家旧臣らを抱えたのも石田三成なので陰謀説には疑問も。また蒲生家臣同士の抗争は事実上の四代目に当たる松山藩主忠知の代に無嗣断絶するまで続きました。
・豊臣秀次の失脚と切腹
文禄4年7月15日(1595年8月20日)。三成は秀次を秀吉に讒言したという説があります。彼のもとに使者として訪れたのも三成。ただ、秀次の無実を訴えた、すべて処刑された妻子の助命を秀吉に訴えたという説もあります。
・明との一方的な講和と加藤清正の謹慎
秀吉の要求を明側が受け入れないため、石田三成と小西行長は沈惟敬と交渉し、日本側と明側の双方で偽りの報告を作って交渉を進展させようとしたが、実情を知る加藤清正が邪魔であったため、讒言して謹慎処分にしたという説があります。謹慎していた清正は、慶長伏見大地震(文禄5年閏7月13日(1596年9月5日))で秀吉を助け、許されました。明との交渉は失敗。
・キリシタン二十六聖人の弾圧
処刑は慶長元年12月19日(1597年2月5日)。京で活動中のフランシスコ会キリシタンの捕縛の指揮を取ったのが石田三成です。
・朝鮮からの撤退
秀吉の死を秘匿するため、撤退計画は三成ら五奉行の手で密かに進められたことから、現地の武将らには知らされませんでした。慶長3年10月15日(1598年11月13日)に撤退命令。

これらは、三成が関わっているとみられるものが多いものの、三成の陰謀や讒言という説もあれば、逆に反対したあるいは無関係というのもあります。実際には奉行として処置に当たっただけ、というところが正しいのかもしれません。真偽は不明ですが、後世、意図して三成が関わったとして広められたものです。

そして、三成が悪くみなされた最大の理由が、関ヶ原での徳川家康の敵対者だったことでしょう。
三成としては、豊臣政権を酸蝕していく徳川家康の存在は目障りだったに違いありません。幼い秀頼を守るのが自分の役目と思えば、最終的には家康との対決は避けられなかったでしょう。
豊臣家を滅ぼして天下を握った徳川家からすれば、豊臣家は当然貶めなければなりません。しかし、徳川家にとって厄介だったのは、百姓から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉が、庶民に絶大な人気があったこと。下手なことは言えません。そこで秀吉よりもその周囲にいたものが良くなかった、すなわち「君側の奸」を用意しなければなりません。その格好の餌食になったのが、淀殿と石田三成だったといえます。淀殿が三成を支持し、家康と講和を望んだ北政所(ねね)は三成を嫌っていたという話になっているのもそのためでしょう。しかし実際には北政所は三成と親しく交流していたと見られます(彼女の養女には三成の娘もいます)。

三成の性格も問題があったようです。毛利家の秀吉への贈り物を断った話や、朝鮮出兵のあと加藤清正や福島正則らから命を狙われるほど険悪になったこと、関が原の前哨戦の段階でも、増田長盛や大谷吉継から諫言されたり、島津義弘の進言を無視したり、という話が伝わるように、他人との交流で反感を買っている部分があります。清正とは、もともと親しかったが、武断と文治の違いで関係がこじれたとも、朝鮮出兵で三成の讒言によって謹慎を受けたからとも言われますが、清正と険悪だった小西行長との関係から悪化したという見方もあります。三成が慰労の茶会を開こうとして加藤・福島らに「戦の苦労を知らぬものが」と拒絶された、という話が伝わっています。
一方で、三成が私利私欲に走ったというわけではなく、また、三成と親しく付き合ったものもいます。大谷吉継、直江兼続、島清興(島左近)、津軽信建らのほか、春屋宗園、沢庵宗彭とも親しく(三成の遺体を埋葬し弔った)、関ヶ原で敵となった田中吉政や対立する逸話の多い浅野長政との関係も悪くはなかったという説もあります。

茶会の回し飲みで、らい病に罹っていた大谷吉継が口を付けた茶碗を諸将が嫌がった時、躊躇なくそれを手に取り茶を飲んだという話や、島左近を臣下に加えるため、知行の半分を与えて感動させた(※1)、という話は、創作の部分もあるでしょうが、悪く言われる三成らしからぬエピソードでもあります。

さらに言えば、徳川家康との関係も、立場としては敵対者であるものの、個人的にはさほど険悪だったとは思えない部分もあります。家康側の政略もあるでしょうが、三成をかばったり、関ヶ原のあとに三成の嫡男石田重家(※2)を出家したことで許したり、そもそも家康は戦回避のために大谷吉継、島左近、石田重家らに使者を派遣して説得し、三成自身を上杉討伐で味方に付けようとしていたという話もあります。また、家康は敗者となった三成の態度も褒めています。
家康とは関係ないものの、徳川家光の側室お振の方(自証院)は三成の曾孫(※3)に当たり、その子が尾張徳川家に嫁いでいます。徳川光圀は三成を忠義者として賞賛していますが、家康自身が一番、三成のような主君に忠義を尽くす者を欲していたのかもしれません。

同時代に生きたもの、近い時代に生きた者にとっては、石田三成はそれなりに魅力のある人物だったのが、後世虚像が膨らんでいったということもあるのかもしれません。才能があっても、全く魅力のない冷淡な人間であれば、秀吉政権の奉行にはなれなかったでしょうし、関ヶ原で形だけでもあそこまでの大軍は動かせなかったでしょう。
悪人とされて徳川時代、明治、大正、昭和と経た石田三成が客観的に評価されるようになったのは、ごく最近のことです。


※1:水口4万石の領地の半分2万石を島左近に与えたとされるが、そもそも三成が水口4万石を領したという証拠は乏しい。島左近は筒井家を辞した後、羽柴秀長・秀保に仕えており、秀保の死後、浪人となっていたところを佐和山城主となっていた三成に請われた、とも言われる。島左近は最後まで三成に忠義を尽くした。なお左近の遺体は見つかっておらず、関が原後の生存説も多い。
※2:石田重家は京都妙心寺の塔頭寿聖院の住職となり、貞享3年閏3月8日(1686年4月30日)に104歳くらいで亡くなったとされる。
※3:三成の娘は蒲生家家老岡重政に嫁ぎ、重政は、蒲生家2代秀行の正室だった振姫(家康の三女)と対立して切腹。その子、岡吉右衛門(三成の孫)は、蒲生家臣だった町野幸和の娘を妻に迎え、生まれた娘が、町野が春日局の甥(斉藤利宗の三男幸宣)を養子にしていた関係からか、春日局の養女となって家光の側室となったお振の方と言われる。お振の方と徳川家光の間に生まれた千代姫(霊仙院)が尾張徳川2代光友の正室。


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2012年11月13日

カシミール問題―インドとパキスタン、そして中国

隣国問題の一つとして、現在でも激しい対立が続いている地域の一つが、カシミール地方。
ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間にあり、インドの北、パキスタンの北東、中国の西に位置して、インドとパキスタンと中国によって三分割されており、カシミールの中央から北西にあたるギルギット・バルチスタン方面とアザドをパキスタンが、中央から南東側のジャンムー・カシミールとラダック地方をインドが、北部から東部にかけてのシャクスガンとアクサイチン(ラダック東部)を中国が実効支配しています。
インドとパキスタンは、この地をめぐって対立し、お互いを敵視し、過去には三度の戦争と、多数の紛争を起こしています。またインドと中国もアクサイチンと北部のシャクスガン地域の領有権で対立しています。シャクスガンは中国とパキスタンが領有権で争った場所ですが、パキスタンが中国に「割譲」することで決着したところです。

このカシミール問題の直接のきっかけは、イギリス領インド帝国の解体でした。
第二次世界大戦が終わり、軍事遠征と損失、戦災、経済圏の変化によって国力が大きく後退したイギリスは、それ以前からすでに英連邦への移行もあり、かつての植民地が自治独立し始めていました。大戦中、国民会議急進派(※1)が日本と手を組んで独立を画策するなどしたインドでも、独立の機運が高まります。イギリスはもはや、それを抑えることはできなくなっていました。
このとき、全宗教・宗派の上に世俗的統一政府が樹立することを訴えたヒンドゥー教徒のマハトマ・ガンディーの案と、イスラム教徒のための自治政府もしくは独立国家「パキスタン」(※2)の分離を訴えたムハンマド・アリー・ジンナーの案が対立します。世俗統一国家を望むネルーもガンディーの案に近いものでした。
イギリスは、独立において、ヒンドゥースタン、パキスタン、そして内政自治国である多数の藩王国からなる連邦制とするインド連邦案を示しました。自治権を大幅に強化した修正案は、ジンナーの了承を得ますが、中央集権と統一インドの大国化を望むネルーは反対。
総選挙は、ジンナーらのムスリム連盟とネルーらのインド国民会議派で二分されました。

1946年8月16日、ジンナーらの運動が暴動に発展し、イスラム、ヒンドゥーの住民同士が衝突。多数の犠牲者を出します。
イギリス仲介の元、中間政府が起こされ、連盟と国民会議はインド独立の方策を検討しますが、イスラム教徒の多い北西諸州およびベンガルの分離が検討されるにいたり、両者は決裂。ジンナーはムスリム6州の分離独立を、インド総督ルイス・マウントバッテン卿に訴え、ついに同卿は1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割することによる独立を、同年8月15日をもって行うと声明を出します。このため、各地のヒンドゥー教徒、イスラム教徒、そしてシク教徒や仏教徒まで巻き込んで大混乱が起こり、多くの市民が犠牲になり、難民が発生しました。
1947年8月15日、ネルーはデリーでヒンドゥー教徒多数派地域の英連邦ドミニオン(※3)として独立を宣言。イスラム教徒多数派地域も英連邦ドミニオンとして独立しジンナーが総督に就任。両国は分離独立して成立しました。
統一国家を主張したガンディーは、皮肉にもイスラム教徒に妥協したということで、1948年1月30日、ヒンドゥー教徒の民族義勇団メンバーに暗殺されてしまいます(※4)。

独立はしたものの、問題が残っていました。
イギリス領インド帝国には、ムガール帝国時代からの、内政自治国である多数の「藩王国」が存在していました。
そのほとんどが、分離独立の際に、インド側に帰属しますが、中南部のハイデラバード一帯を領土とする最大の藩王国ニザーム王国と、北方山岳地帯のカシミール王国は、帰属が決まりません。というのも、ヒンドゥー教徒地帯にあるニザームは藩王がイスラム教徒で国民はヒンドゥー教徒が多数派。イスラム教徒地帯にあるカシミールは藩王がヒンドゥー教徒で国民はイスラム教徒が多数派だったわけです。ニザーム藩王ミール・オスマーン・アリー・ハーンはパキスタン側につこうとし、カシミール藩王ハリ・シンは独立を望みます。
結局、ニザームは1948年9月13日に、インド側に軍事力で併合されますが、一方のカシミールはパキスタン側の民兵が出て併合に動いたために、カシミール藩王の要請でインド軍が出動。1947年10月21日、第一次印パ戦争が勃発しました。1948年12月31日に両国は停戦。カシミール藩王国は分割。さらに、同地域の北東地方は、チベット仏教徒の暮らす地域で(※5)、中共政府が進出。インド、パキスタン両国と対立します。中共政府は、1962年10月20日からおよそひと月にわたってアクサイチン一帯に軍事侵攻して、インドと国境紛争に突入します。が、これは実際には、中国がインドの油断に漬け込んでに攻め込んだ侵略に近いもの。チベットやシッキム、ブータン、そしてアクサイチンを含めた南アジア、南西アジア方面での「国境拡大した上での国境線確定」が目的だったようです。
パキスタンはこれを機に民兵を動員して実効支配地域を広げようとしましたが、1965年8月、インドは反撃に出て、パンジャブ方面を攻撃。第二次印パ戦争が勃発しました。国連の仲介などで9月23日に停戦。国連が軍事監視団を起きます。翌年2月25日に撤退は完了しました。中国とパキスタンの対立は、パキスタンの譲歩で和睦し、現在は対インドで事実上の同盟関係にあります。これは、インドを支援したソビエトが中共と対立したという背景もありました。

イスラム教徒の住む地域が独立したパキスタンですが、当初の領土は、旧インド帝国北西地方だけでなく、全く反対側のベンガル地方(東パキスタン)も持っていました。ところが、パキスタン政府は、同じイスラム教ながら、言語も文化も環境も大きく異るこの地域を冷遇したため、分離独立運動が起きます。独立志向の強いアワミ連盟が選挙で勝利すると、パキスタン政府は軍事介入を見せたため、1971年3月26日、東パキスタンの独立戦争が勃発しました。インドはこれを支持。第三次印パ戦争に発展します。インドの軍事力により、パキスタンは敗北。12月16日、東パキスタンは、バングラデシュとして独立を果たしました。

インドと、パキスタン・中国は、領土をめぐって現在も対立関係にあり、そのため、先に核保有国となった中国に続き、インドが核開発。パキスタンも核開発を推進し、現在はいずれも核保有国となっています。中国は核弾頭搭載可能な長距離弾道ミサイルを、インドとパキスタンは核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイルを保有し、お互いに照準を定めているとされ、一歩間違えれば、国境紛争が地域核戦争に発展し、甚大な被害と、深刻な汚染を引き起こす地域戦争が起こることもありえます。インドは中国との兼ね合いから、日本やオーストラリアに接近しており、パキスタンもイスラム原理主義勢力の影響が強く、他のイスラム教国と影響しあう状態。これにアメリカやロシアも巻きんで、アジア・太平洋・インド洋地域全体の問題に波及する可能性は十分にあります。
一方で、国境というのは貿易経済の拠点ともなるわけで、対立しつつも、直接の紛争地域を外れると、相互に人や物の行き来が存在します。

西洋列強による植民地の結果が招いた紛争ですが、一方では宗教対立や、君主制、指導者らの考えの違いがもたらした結果とも言えるでしょう。

※1:ラース・ビハーリー・ボース、A.M.ナイル、スバス・チャンドラ・ボースらによる自由インド仮政府。ビハーリー・ボースは大戦末期に日本で病死し、チャンドラ・ボースは終戦時に台北から日本本土に向かおうとして搭乗した爆撃機の事故で死亡したとされる。ボース姓はコルカタなどベンガル地方に多い姓で、この二人の血縁関係はない。ナイルは戦後も日印親善に尽くした。チャンドラ・ボースはインドでも人気が高い。
※2:パキスタンは、ジンナーの同志であり、詩人でもあった政治家ムハンマド・イクバールが、ムスリムのための北西インド州分離独立を構想し、チョウドリー・ラフマト・アリーが主張した国家。一方のジンナーはもともとは独立までは望んでいなかったが、支持を得られず、方針を替えたと言われる。名前はペルシャ語で「清浄な国(パーキスターン)」から来ている(パンジャブ、アフガン、カシミール、シンド、バルチスタンの地名の合成語とも)。
※3:英連邦ドミニオンは、英国王を元首に戴く英連邦に属する国家のこと。ドミニオン(自治領)と称しているものの、事実上の独立国家で、カナダやオーストラリア、ニュージーランドなど英連邦成立時の6カ国がこう呼ばれた。
※4:ガーンディーは寛容で非暴力を実践した人物だったが、カースト制度(特にヴァルナ)を容認しており、その思想や非暴力、宗教融和で、多くの独立運動家やヒンドゥー教徒と対立した。ちなみに初代首相ジャワハルラール・ネルーの子孫はガーンディー姓を名乗っているが、ネルーの娘であるインディラ首相の夫が、フィローズ・ガーンディーだったためで、マハトマ・ガーンディーとは無関係。
※5:カシミールには、古くはチベットの吐蕃王国の影響で、チベット仏教が広まり、ラダック王国やザンスカール諸侯などの国が存在した。これらの国がカシミール諸侯と争うようになり、イギリスの仲介でジャンムー・カシミール藩王国が出来たのは1846年。


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2012年11月06日

悪人列伝―亡国の宰相:賈似道

文治の国として知られた南宋王朝。
中国の南半を支配した南宋は、いわゆる水滸伝の時代を経て、北方の金王朝とはできるだけ和平で外交を進めていましたが、その後北方から南進してきたモンゴルと手を組んで、金を滅ぼすことに成功します。しかし、金の滅亡に乗じて中原を手に入れようとしたことがモンゴルの怒りを買いモンケ・ハーンによる南宋遠征を招きました。このとき指揮官の一人だったのが、モンケの弟で後に元王朝の皇帝となるクビライでした。

南宋はその成立当初から、しばしば重臣による独裁が繰り返されており、その中でも、秦檜(※1)、史弥遠(※2)など講和政策を進める宰相が相次いだため、形の上では戦争は遠ざかり、文化は大いに興隆するも、実際は軍事力が弱体化し、民衆は抑圧され、弾圧によって人材が失われて行きました。
独裁政権の最後を担ったのが、賈似道。
姉が皇帝・理宗の寵姫だったことから取り立てられた人物で、それだけでも進士(※3)出身の文官たちに嫌われる要素が強いわけですが、この人物、有能だったために重用されます。

両淮宣撫大使に任じられて、対モンゴル戦に備え、1259年、長江を渡河したクビライ軍を鄂州で迎え撃ち勝利。賈似道は功績を認められます。しかしこの時、クビライを警戒して四川から重慶へと進出したモンゴル皇帝モンケが急死しており、後継者問題が重要になったクビライは撤退する必要性に迫られており、クビライとの間で密約があったとも噂されました。

宰相となった賈似道は、反対派を粛清。理宗が崩御し、その甥の度宗が即位すると、ますます賈似道の独裁は強まり、太師となり、将軍らを権力から遠ざけます。
軍では呂文徳、呂文煥兄弟の力が大きく、モンゴルからの亡命者張世傑も彼らによって登用されました。
しかし賈似道は最前線の襄陽を守る彼らになかなか支援を送らず、孤立無援に戦わせることになります。また文人でもある科挙出身の逸材と言われた文天祥ともそりが合わなかったのか、免官しています。

1268年に始まった襄陽・樊城の戦いは、モンゴル側の用意周到な包囲戦と、賈似道政権による支援の乏しい中で苦しめられ、呂文徳の死後も呂文煥によって支えられてきましたが、1271年、さすがに危機感をもって派遣された范文虎による援軍も大敗。1273年、モンゴル側の漢人将軍史天沢らが長距離投石機「回回砲」による砲撃で樊城を攻めて守将の張漢英は降伏。樊城から回回砲による漢水を挟んだ渡河攻撃により、襄陽城の呂文煥も為す術がなくついに降伏。南宋は最重要拠点を失った上に、呂文煥降伏の報が伝わると、有能な人材がモンゴル側に流れてしまいます。

バヤン率いる攻略軍が南下してくると、一連の敗戦の責任と危機的状況に、賈似道は1275年、自ら出陣しますが、その前に現れた元軍の指揮官は、呂文煥だったとも言われます。呂文煥はクビライに重用され、アジュとともにバヤンの南宋攻略で指揮することになったわけです。
水戦に敗れ、都に戻った賈似道はついに失脚。福建へ流される途中、恨みを買っていた会稽県尉の鄭虎臣に殺害されました。

南宋はその後、崩壊の一途をたどります。
復官した文天祥は和平交渉のさなかに捕らえられ、その後脱走してゲリラ戦を展開するも、再び捕らえられ、クビライの説得も受け入れず、処刑されます。張世傑は、陸秀夫とともに幼い皇帝を擁して転戦しますが、1279年、崖山の戦いで陸秀夫と幼帝は自殺。張世傑も再起を図ってベトナムへ逃走中に船が沈没してこの世をさりました。
呂文徳、文天祥、陸秀夫、張世傑らは忠臣の代表格として賞賛されます。
呂文煥は、最終的にはモンゴルに降伏し、その将軍として故国を滅ぼす事になるわけですが、文天祥が彼の行為を批判したと伝わるものの、意外にも後世、亡国の奸臣という扱いはほとんどありません。
苦しい状況の中、長期に渡って抵抗し、それがクビライにも評価されたことがあるからでしょう。彼の行為よりも、彼を追い詰めた国家に問題がある、というわけです。

それに対し、賈似道はまさに奸臣、悪臣の代表格として、南宋では秦檜と並んで嫌われています。
ただ、賈似道の政策には、中国特有の文治思想があったところも大きいかと思われます。
三国志や水滸伝など現代に伝わる様々な群雄伝では武将が大活躍しますが、実のところ、歴代王朝では武官よりも文官のほうが重んじられる傾向が強くありました。軍を率いた歴史上の人物の中には、実際には文人官僚として軍の上に立つ、形式的な将軍だったものも少なくありません。

賈似道は個人的に美術品の収集を図ったり、コオロギ相撲にこだわったりといったところもありますが、公田法の整備や通貨改革を行なって財政再建を図り、不正を働く軍人を罰して綱紀を粛清するなど、一概に自身の権力を謳歌するためだけの政策だったとも思えぬところがあります。
文治政策を推し進めた彼には彼の、理想の政治、というものがあったのかもしれません。そしてそれを推進するために権力を握り、理解しないものを一方的に排除したのでしょうか。
しかし、武力によって南宋を滅ぼそうとするモンゴルの攻勢の前には、亡国の政治としか言いようがなかったでしょう。また恨みを買えば、それはいずれ自身に返ってくるのも当然と言えます。
単なる自己の利益のためだけの悪人とはいえないでしょうが、正道を進んだわけでも、現実的だったわけでもない、時代に適さぬ人物でした。

クビライは、次々と降ってくる南宋の将軍らが、賈似道の将軍らを軽んじる政策を批判して降伏の理由にしたのを聞き、賈似道が冷遇したからといって、皇帝に忠節を尽くさないことの言い訳にはならないことを批判しました。その意味で、徹底抗戦をした呂文煥や最後まで降らなかった文天祥を評価したわけです。

ちなみに、賈似道の甥の范文虎は敗北して降伏の後に元軍の指揮官となり、弘安の役で日本を攻めた司令官の一人となりますが、他の将軍らとの連携はうまく行かず、暴風雨のさなかに撤退。責任を取らされて殺されています。

※1:秦檜は南宋で奸臣の代表的人物。北宋を滅ぼした金王朝の支援を受けて和平政策を進め、将軍岳飛らを殺し、当初強大だった南宋の軍事力を弱体化させ、金との間で屈辱的な講和条約を結んだ。一方で、和平政策そのものは、国家と民衆を疲弊させないという意味で正しい方策という見方もある。
※2:史弥遠は、南宋中期の対金強硬派を退けて和平政策を推進した宰相。1208年から1233年まで長期政権を担う。
※3進士は文官登用試験である「科挙」の科目の一つで、のちには科挙の合格者のことを指すようになりました。



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