2012年12月11日

悪人列伝―敵役の定型:吉良上野介

赤穂浪士の討ち入りで殺されてしまう敵役、吉良上野介は名を義央(よしひさ、一般には「よしなか」)。
高家肝煎の当主です。
高家というのは、旗本の一種。旗本というのは、徳川将軍家の家臣で、領地は1万石未満だが、将軍の出席する席に参列できる資格を持つ「お目見え以上」の上級家格の家を指します。大名ではありませんが、当主は「お殿様」ですので、時代小説などでも「殿」とよく呼ばれてます。その旗本の中で、幕府の重要な公式行事の儀式などの典礼に関わる職を高家職といい、その職につける家を高家旗本と言います。
高家の家柄は、江戸幕藩体制下での大名としての実力は持たないが、権威のある家柄とされたもので、公家、清和源氏各流、足利将軍家、織田家、今川家、上杉家、武田家、大友家などの旧大名の一族などがなっています。
石高は500石から5000石くらいの間で、1000〜2000石に集中していて、大名よりかなり下ですが、位は高く、通常でも大名並みの従五位下、中には令外官としての征夷大将軍と並ぶ従四位、正四位のものもいます。
高家職についた高家を奥高家、就いていない高家を表高家といいます。奥高家の中でも特に作法などに詳しいものを高家肝煎としました。
吉良家は、幕府の当初から高家職にあった、清和源氏足利流であり、駿河今川氏と縁戚関係にありました。徳川秀忠に臣従して三河吉良に領地を得て、その領主となります。清和源氏を称した徳川家康に自家の系図を提供したとも言われています。
吉良義央は吉良家の嫡子。上野介の官職を得ています。上野国は形式上の国守は親王となるため、中世以降は、守ではなく介が実質上の最高官となります。のち従四位上左近衛権少将。
保科正之(徳川家光の異母弟)の斡旋で、米沢藩主上杉綱勝の妹三姫を妻に迎えます。綱勝が無嗣により上杉家断絶の危機に陥った際、義央の子三之助(のちの上杉綱憲)が養子に入って上杉家は減封で存続しました。逆に上杉綱憲の次男(のちの吉良義周)が吉良家のあとを継ぐことになります。
この関係で、上杉家とは非常に深い関係にありました。

元禄14年2月4日(1701年3月13日)、東山天皇からの勅使に対する饗応の準備が幕府より命ぜられます。
饗応馳走役は播磨赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊で、高家肝煎の吉良義央が指導に当たりました。
この饗応の手続で何か変更か手違いがあったらしく、現場はその対応に追われることになります。
3月14日(1701年4月21日)午前10時過ぎ、城内松之大廊下で、浅野長矩は抜刀の上、吉良義央に斬りかかりました。吉良は背中と額を斬られますが、ちょうど吉良と相談のために現場にいた大奥御台所付の旗本梶川頼照(※1)が慌てて浅野に組み付いて床に倒し、伊達村豊とともに押さえ付けました。吉良義央は品川伊氏と畠山義寧によって助けられます。
この梶川の日記が、当時を伝える史料として物語などにも影響を与えています。
ドラマでも定番の浅野の「この間の遺恨、覚えているか!」というのもこの日記に記されていました。
浅野は即日田村建顕の屋敷で切腹。
しかし吉良義央にお咎めはありませんでした。これは、殿中での抜刀がご法度であり、吉良が抜かなかったことが評価されたためで、当時の法慣習としては当然の結論と見られます。朝廷に対する面目が潰れて、母桂昌院の叙任が取り消されるのを恐れた将軍徳川綱吉が激怒して命じた、という説もあります。
赤穂藩はお取り潰し。事情としてはこの判断も無理からぬところですが、もし浅野長矩を「乱心した」と定めた場合、切腹させず配流に処して、藩は改易の上、新たに親族を立てて再興させるといった方法もありました。
そのためか、直後から、これが公平ではない、事件の背景を調べていない、という意見が各世相に広まったらしく、幕府は8月19日(1701年9月21日)になって、吉良義央に旗本松平信望が本所に持っていた屋敷への屋敷替えを命じています。本所という江戸の辺地の小さな屋敷へ移されたことで、浅野遺臣が襲うことを想定したようにも取られていますが真相は不明。8月21日(1701年9月23日)には、実弟の東条冬重、吉良よりの高家大友義孝、浅野長矩を室内ではなく庭で切腹させた大目付庄田安利も役職を取り上げられ、吉良義央は高家肝煎職を返上し、12月12日(1702年1月9日)、隠居することになりました。

赤穂城は事件直後の4月19日(1701年5月26日)に開城され、浅野家臣は散り散りになりました。その中でお家再興派と吉良殺害を図る強硬派が残ります。両者は徐々に対立を深めて行きました。
翌元禄15年7月18日(1702年8月11日)、浅野家再興の最後の可能性であった内匠頭弟浅野大学長広が広島の浅野本家に預けられることになり、再興の望みは消えました(※2)。再興派だった家老大石良雄(※3)は吉良邸討入を決断し、強硬派と一致します。
同年12月15日(1703年1月31日)未明、赤穂浪士四十七士は本所吉良邸を襲撃。邸内での死闘の末、吉良義央は殺害されました。遺体は浪士によって寝所に移され、落とされたその首は、泉岳寺にある浅野長矩の墓前に供えられたのち、寺に預けられて、寺から吉良家へ返され、菩提寺である万昌寺に葬られました。養子の吉良義周は薙刀で果敢に応戦して重症を負い、一命は取り留めます。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)四十七士のうち、姿を消した足軽寺坂信行以外の46人は預けられた四大名邸で切腹し、その子らも流罪の処分を受けました。一方の吉良家も正式に改易され、吉良義周は信濃諏訪藩高島へ配流となりました。
この事件は世間で大評判となります。すぐに各所で創作活動が始まり、やがて人形浄瑠璃の作品として生まれ、歌舞伎へと発展したのが、直接描くと御政道批判ともなりかねないので時代を南北朝に移した「仮名手本忠臣蔵」です。江戸庶民の代表的娯楽となりました。
明治に入ると、忠君愛国の美名のもとにさらに国家的作品となり、小説・映画・ドラマのネタに尽きません。
その中で、吉良義央は常に悪役、敵役でした。その人気は非常に悪く、墓への嫌がらせもあったとか。

殿中刃傷事件は原因が諸説あって定説はないものの、吉良義央の浅野長矩への嫌がらせが原因というのが一般的。賄賂を要求して応じなかったため、接待の手ほどきをしなかった、といったものがあります。ただ勅使饗応の責任は重く、そう軽々しくいい加減な対応はしなかったでしょうし、賄賂は現代的感覚であって、当時は指導するものに対するお礼というのは当然のしきたりであり、必要経費をそれでまかなっている面もありました。また、浅野長矩は、その前にも勅使饗応役を務め上げており、ドラマに出てくるように初めてでよくわからない、ということはなかったはずです。
浅野以外の大名に対しても意地悪をした、という話がありますが、多くは事件後に書かれているため、直接事件を描けないために仮託したか、事件の評判を受けて創作した可能性も否定できません。ただ、名門の出で、有職故実に詳しく、儀礼を指導する吉良義央が、教えを請う大名を見下して、そういう事態に発展した可能性もあるでしょう。
現在では浅野長矩の統合失調症説もあり、怨恨説を採らないものも見られます。
なお、吉良義央は、幕府の代理人として頻繁に朝廷と交渉したため、天皇からも嫌われていたそうです。
殿中で斬りつけるのですから、何かしらの深い理由があったのは間違いありませんが、史料的にはもはやわかりません。
制度やマナー、建前などでがんじがらめの武家階級における、「どうしようもならなくなった」状況が、この事件の背景にあったのではないでしょうか。

なお、領地である三河吉良では、吉良義央は名君として慕われています。黄金堤の建設など、地元に恩恵をもたらしたことや、厳しい批判の目に晒された同情もあるでしょう。なにしろ、浅野長矩を取り押さえた梶川頼照や、敵討ちに加わらなかったというだけで赤穂旧臣すら非難されているのですから、吉良は言うまでもありません。

吉良義央は、浅野長矩を殺したわけではなく、襲われた方であり、浅野長矩の切腹も幕府の裁定。刃傷事件の背景も不明で、客観的に見れば、吉良義央が仇として狙われるのはおかしな話でもあります。幕府の裁定はまともなもので、吉良側からすれば恨みを買う筋合いではないということになります。赤穂浪士の行動には「主君の遺恨を晴らす」という彼らなりの名分もたちますが、吉良義央の場合、事件の直後から、人々の感情、芝居や小説、世の倫理観などで、悪役に仕立てられた要素が大きいといえます。

※1:梶川頼照は、貞享元年8月28日(1684年10月7日)に江戸城内で起こった、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊暗殺事件にも遭遇している。赤穂浪士の事件後、浅野を取り押さえた行動が認められて加増されたために、世間から散々悪く言われたという。
※2:浅野長広は後に800石の旗本となってお家を再興している。
※3:大石良雄は大石内蔵助で有名。『仮名手本忠臣蔵』では大星由良助義金。家老時代は仕事をろくにしなかったため「昼行灯」と呼ばれたとか。藩改易後も、芸者遊びをしていたというが、これは幕府を欺くため、という説は人気があります。実は吉良義央とは遠い親戚でもある(昼行灯は、昼間に行灯を点けても意味が無いので、役に立たない人のこと)。


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ラベル:歴史 年表 日本史
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2012年12月08日

隣国同士の関係:パレスチナ1―古代イスラエルからイスラム国家支配まで

中東戦争の火種となっているパレスチナ問題。
2012年11月29日、パレスチナ自治区の地位をめぐり、国連総会で参加資格をオブザーバー国家として格上げする決議がなされました。独立問題は当事者同士の話し合いの結果なされるべきだとするイスラエルが反発し、税収配分をストップしたり、東エルサレムでさらに入植計画を進める、という対抗策を打ち出して混乱しています。
現在は、イスラエルが悪者扱いされる向きが強く、パレスチナ側に同情するのが一般的。
イスラエルが強力な軍事力で、パレスチナ自治区を爆撃して市民に多数の犠牲者が出たり、さらにイスラエルをアメリカが支えているところがあるため、世論の向きもパレスチナよりになっているのでしょう。
ただしパレスチナ側も、ハマスの軍事独裁的な支配体制下にあり、イスラエルの報復があることをわかっていながら、あえてロケット攻撃を加えるなどしていることから、犠牲に遭うパレスチナ市民の間では、必ずしもハマスへの支持は高くないと言われています。

パレスチナ問題はしばしば1948年5月14日の現イスラエル建国から語られて評価されますが、もともと、非常に長い歴史的背景があります。なぜ、ユダヤ人がこの地にこだわったのか、それが大きな鍵です。

パレスチナ(パレスタイン)の語源は、古代に住んでいたペリシテ文明からきているとも言われます。
ペリシテ文明とライバル関係にあったのが、のちのユダヤ民族につながる古代イスラエル民族。この民族の出自は定かではなく、地元の下層民だったとも、東方からやってきた、という説もあります。のちエジプトへ移住し、エジプトから迫害を受けるようになると、モーセに率いられて「約束の地」カナン(パレスチナ)に戻ってきたと、旧約聖書にありますが、これも他に記録がないため史実は不明です。モーセが十戒を授かったことから、ユダヤ教では重要視されています。

イスラエルの名前が文献に登場する紀元前1200年頃、東地中海沿岸の大国が軒並み滅亡や衰退し(※1)、その間に挟まれていたこの地は小王国が次々と誕生しました。
統一イスラエルのダビデ王、ソロモン王の時代には大きく拡大します。エルサレム神殿も建設されました。その後、イスラエル12部族のうち10部族がイスラエル王国を、2部族がユダ王国を興して分裂。
紀元前721年アッシリアがイスラエルに侵攻してこれを滅ぼし(失われた十部族と呼ばれる)、さらにアッシリアを滅ぼした新興勢力である新バビロニア帝国の王ネブカドネザルの、紀元前597年、紀元前586年の侵攻でユダ王国も崩壊しました。多数のユダヤ人が連れ去られています。
新バビロニアがアケメネス朝ペルシアによって崩壊すると、ユダヤ人の一部はエルサレムに戻り、ペルシアによってエルサレム神殿も復活しますが、紀元前333年に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって征服され、さらに大王の死後はプトレマイオス朝エジプトとアレクサンドロスの将軍だったセレウコスとの衝突する場所にされてしまいます。紀元前198年にセレウコス帝国が支配。この時代をギリシャ文明の影響下にあったことから、ヘレニズム支配時代と呼ばれます。
紀元前167年に異教徒支配に反発した反乱「マカバイ戦争」が起こり、紀元前142年頃には事実上の独立を果たしました。これがハスモン朝です。
この頃から勢力を伸ばしてきたのがローマ。ローマに接近したハスモン朝でしたが、ローマの勢力が強まる中でサロメ・アレクサンドラ女王の子供同士が分裂して内戦状態となり弱体化。
紀元前75年からの第三次ミトリダテス戦争でポントスに勝利したローマは勢いのままに紀元前64年にはシリア方面へ進出。紀元前37年、ハスモン朝はローマの軍事力で滅び、ローマに従属したヘロデがヘロデ朝を興します。
ヘロデはイエス・キリスト誕生に関わる、新王誕生を恐れて幼児を虐殺するエピソードで有名ですが、史実は不明。猜疑心の強い人物だったとも言われています。彼の死後、その子らが跡を継ぐも住民の評判は悪く、紀元前6年、ローマは王位を廃して直轄領としました。これがユダヤ属州です。39年までは、ヘロデの子ヘロデ・アンティパスが支配を認められていましたが、総督支配が強まり、住民の不満が高まります。イエスも30年頃に総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されました。
このあたりの事情はローマとの関係をめぐるユダヤ教各派の対立にも原因があります。
41年から44年まで、トランスヨルダンの統治者だったヘロデ・アグリッパ1世が、48年にはアグリッパ2世がユダヤ王を認められるも、実権はローマの総督や長官に移り、アグリッパ2世の死で形骸化していたヘロデ朝も滅びました。
その後、多神教のローマと、一神教のユダヤ人との対立は高まり、ローマでは一神教の文化を否定的に見るようになりました。そして、総督が神殿の宝物を資金源に領土整備を行おうとしたことに反発して、66年、第1次ユダヤ戦争が勃発。68年、皇帝ネロが自殺すると、ローマは大混乱に陥り、戦争は膠着しますが、ウェスパシアヌスが皇帝としてローマを統一。エルサレムへ侵攻し、エルサレム神殿は破壊されました。74年、マサダ要塞にこもっていた反乱軍も全滅し、戦争は終結。この戦争でエルサレムは軍事支配下に置かれ、より厳しい統治が行われるようになります。115年、各地のユダヤ人が反乱する「キトス戦争」も起こりましたが、情勢は変わらず、後に、ハドリアヌス帝によるローマ化政策に反発した人々は、指導者シメオン・バル・コシェバ(バル・コクバ)とラビ・アキバに率いられて反乱を起こしました。132年から135年にかけての、バル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)です。
一時期は独立状態まで行った反乱でしたが、135年、エルサレムは陥落し、バル・コクバは戦死。ラビ・アキバは処刑され、反乱は終わりました。
これらの反乱、統治の難しさは、すべてユダヤ教にあると考えたハドリアヌス帝は、ユダヤ教的なものを一切排除する政策に乗り出し、ユダヤ属州をシリア・パレスチナと改名。エルサレムをアエリア・カピトリナとしました。作物が実らぬよう、パレスチナの地に塩をまいた、という伝承もありますが、これは定かではありません。
すでに、過去幾度かの国外への強制的なものも含む移住でユダヤ人は各地に広がっていましたが、この戦争の結果、ユダヤ人はさらに多くが離散していきました。いわゆるディアスポラです。この際に、それまでのユダヤ各宗派は衰退し、現在のユダヤ教の基本が形成されました。
シリア・パレスチナの地は、その後、東ローマ(ビザンツ)、サーサーン朝ペルシアの支配下に置かれます。

アラビア半島の中西部ヒジャーズ地方で誕生したムハンマドは、610年頃、ジブリール(大天使ガブリエル)によって啓示を受けたとして、宗教を興します。これがイスラム教です。彼は、一族に教えを広めていくと、イスラム共同体を作り、周辺の部族との対立を繰り返していましたが、その中にはユダヤ教の諸部族もいました。ムハンマドの死後、正統カリフ時代が始まり、アラビア半島全土へと拡大します。第2代カリフのウマル・イブン=ハッターブはサーサーン朝ペルシアとビザンツ帝国の対立の間隙を縫って各地へと進出。636年、ビザンツに勝利しエルサレムも征服しました。
この時、彼は人頭税(ジズヤ)を払うことを条件に、キリスト教徒とともにユダヤ教徒も保護し、一定の権利を認めました。この代にイスラム国家の基礎ができ、以後、パレスチナの地はキリスト教国家とイスラム教国家の争奪戦に舞台を移していくことになります。

※1:紀元前1200年ころの青銅器文明が滅んだとされる東地中海全域での異変は、大規模な気候変動や、火山噴火などの自然災害、ヒッタイト帝国の滅亡による地域の混乱など諸説あるが原因は不明。

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posted by あお at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 隣国関係の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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