2013年01月12日

隣国同士の関係:パレスチナ2―離散したユダヤ教徒迫害の時代とイスラム帝国の中東支配

古代イスラエルが滅び、二度に渡るユダヤの反乱が失敗に終わったことが、ユダヤ人のその後の歴史に影響しました。
ローマ帝国は、ユダヤの地をペリシテ人から取ったパレスチナと改め、ユダヤ教的なものを禁止していったことから、ユダヤ人の多くは各地へ離散します。
これをディアスポラといいますが、連れ去られたり、強制移住させられたユダヤ人がいた一方で、自ら各地へと広がっていった人々も大勢いました。その移住先の多くは地中海沿岸の諸都市だったとみられます。
パレスチナの地は、その後、アラビア半島中部に興ったイスラム教が勢力を伸ばし、イスラム帝国の支配下に置かれるようになります。
同地の人々はイスラム教へと改宗が進みますが、この中には、ユダヤ教から改宗した者が多く、また文化的にも徐々にアラブと同化して行きました。
これらの人々がいわゆる「パレスチナ人」で、ペリシテ人とは関係はなく、現在宗教的にイスラエル人とは区別されてはいますが、民族的にはユダヤ人と先祖は共通しており、違いはさほどありません。

のちに、キリスト教徒は、イスラム帝国の支配から聖地を奪還するという名目で、十字軍を起こしました。
争いに消極的なイスラム側に対し、キリスト教徒は意気盛んで、十字軍参加への大規模な運動も起こります。しかしそれは、数々の悲劇を招きました。
宗教的情熱と野望の集団では、戦略もいい加減で、物資もまともに用意されず、遠征先では略奪の数々を働き、暴行虐殺の限りを尽くしたと言います。その対象は、イスラム教徒だけでなくキリスト教徒の住む都市でも起こりました。ユダヤ教徒も虐殺されています。
それでもイスラム側の組織的抵抗が乏しく、十字軍はパレスチナの地を制圧し同地に十字軍国家を建設しますが、徐々にイスラム側に滅ぼされていき、1291年までに全て消滅します。第2回〜9回の主要十字軍は、領主らの思惑と商人らの暗躍で混乱、勝利を得ることもなくなり、ついにはパレスチナの地へ辿り着く前に崩壊してしまう始末。聖戦への参加を上手いこと誘われて連れて行かれた挙句、人買いの取引で奴隷となり帰郷することのなかった若者も多数出たといいます。ハーメルンの笛吹き男の話は少年十字軍に連れて行かれた子どもたちを指しているという説もあり、またモンゴル軍の東欧遠征軍には、十字軍で中東まで連れて行かれ帰ることができなくなったキリスト教徒が多数含まれていたとも言います。非道行為の数々は教会の権威を失墜させ、十字軍は行われなくなりました。結局パレスチナの地はイスラム教のアイユーブ朝、マムルーク王朝、オスマン帝国によって支配が続くことになります。

ディアスポラで地中海沿岸を中心に各地へと離散したユダヤ人でしたが、現在のユダヤ教の形は離散してから成立したとも言われ、移住先でも独自のコミュニティを維持し続けました。ユダヤ教の一派としてローマの支配に抵抗する要素の強かった初期キリスト教は、やがて、そのローマ帝国を取り込んでいき、一体化して世界宗教へと発展していきます。
キリスト教はユダヤ教徒を迫害するようになって行きます。イエスを殺したのはユダヤ人だ、というのが大きな要素になっていました。
ユダヤ教徒には公的な地位に就くことが認められず、土地の所有が禁止され、農業も、商業も、工業も制限されました。カトリック教徒などとの婚姻にも制限が加えられるようになります。
ユダヤ人が生きていくには、カトリック教会が卑しきものとみなしていた金融関係の仕事(※1)に就くしかありませんでした。皮肉なことに、このためにユダヤ人が大きな財力を持つようになり、それがさらなる憎悪を生むことになりました。
納税義務を課すことでユダヤ人を取り込んだ例もあります。神聖ローマ帝国などでは市民権を与えない一方で、特別な保護民という扱いをして居住を認めていました。イスラム教徒が支配していたイベリア半島では、人頭税によって居住権が認められています。中でも特に1264年9月8日、人口が減少していたポーランドのボレスワフ敬虔公によって発布された「ユダヤ人の自由に関する一般契約」(カリシュの法令)は、ユダヤ人の立場を法的に保護したはじめてのもので、商業や旅行の自由を認めただけでなく、キリスト教徒による一方的な暴力行為や犯罪に対して、ユダヤ人にも相応の司法的権利を認めていました。このため、ポーランドには多数のユダヤ人が移り住むようになります。この一帯の中小都市には「シュテットル」というコミュニティが多数誕生しました。

一方で、各地でユダヤ人への迫害が深刻になるのも、中世に入ってから。
ヨーロッパ全土をペスト禍が猛威を振るった時(※2)、ユダヤ教徒に感染者が少なかったことからも、彼らが毒物をばらまいた、などと言う噂が広がり、多数が殺されたといいます。ユダヤ教徒独自の清潔な文化と閉鎖的な社会が感染を抑えたという説もあります。ユダヤ人居住区ゲットーは、この頃、迫害と居住域の分離のために生まれました。
イベリア半島のイスラム勢力は、700年代初期のウマイヤ朝との戦いから始まったカトリックによるレコンキスタによって1492年にほぼ潰えて、その結果、異端審問が厳しくなり、ユダヤ人も追放されたり、改宗を余儀なくされました。
16世紀には宗教改革の運動がわき起こりますが、プロテスタントの間でもユダヤ人は差別の対象でしかなく、改革の代表者であるマルティン・ルターはユダヤ人を激しく攻撃しました。また、ユダヤ人の安住の地であったポーランド・リトアニア共和国(※3)が1795年10月24日、プロイセン、ロシア、ハプスブルク帝国によって分割されると、ユダヤ人は保護を求めてハプスブルク家に接近したために、特にロシア側で反感を買い、虐殺へと発展していきます。これはポグロムと呼ばれました。ドイツ・ポーランドから東方、ウクライナやロシアに至る広範囲で虐殺は繰り返し発生し、ナチスの政策とは別に、第二次世界大戦下でも起こっています。ポグロムは、のちのイスラエル建国の動機の一つとなりました。
ヨーロッパ中央部では、ナポレオン時代に、一時的に権利が認められるも、ナポレオン体制の短期の崩壊後、再び迫害の嵐にさらされます。しかし、ナポレオンによって生まれた領主制から国民国家への思想の変化、17世紀以降の宗教に基づかない啓蒙主義的な哲学の発達は、徐々にユダヤ人への権利を認める方向へと変化し、ユダヤ人自身も民族思想が生まれていくことになります。これは未だ続く迫害に対して、ユダヤ人国家の建設、すなわちシオニズム運動へと発展していくことになりました。

※1:カトリック教会下でも金融的な活動で力を持った騎士団などがありますが、金を貸して、利子を受け取る業種は、基本的に禁止されていました。そのためユダヤ教徒がこれを担っていました。なお現在のイスラム教もこの種の利子を取る金融活動を禁じています。
※2:中世ヨーロッパのペスト禍は、1346年から1350年の人口の3分の1から3分の2が死亡したという大惨禍と、1630年、1665年の地域的流行があります。人口の著しい減少は社会に大ダメージを与え、荘園制が崩壊し、人手のかからない羊の放牧文化が発達する原因となりました。イスラム帝国が衰退していくのも、中東やアフリカにまで広がったこのペストの影響があります。
※3:ポーランド・リトアニア共和国は、実際は王国ですが、近代法と貴族によって王権が制限され、立憲君主国となった国だったため、共和国と呼ばれています。ポーランド、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの一部にまたがる大国でした。

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ラベル:年表 歴史 世界史
posted by あお at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 隣国関係の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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