2013年02月03日

隣国同士の関係:パレスチナ3―シオニズムとユダヤ人のパレスチナ帰還の始まり―

ナチスが虐殺を起こす以前から、ユダヤ人はしばしば虐殺の対象になっていました。
ドイツ、ポーランドからウクライナ、ロシアにかけて起こっていたポグロムです。
一般庶民が手に武器や農機具などを持って組織的にユダヤ人を殺害する出来事でした。
特にロシアは支配階級と被支配階級との間の中間的な階層が乏しく、支配体制に対する不満が高まっており、帝国政府はその解消のために、ユダヤ人を見せしめにする傾向があり、特に1881年から1884年には、国家規模で反ユダヤ運動が広がり、多くのユダヤ人が襲撃されて殺されます。
ユダヤ人らは、周辺諸国へと避難しますが、その行く先々でも問題になり、各地でさらなる迫害が連鎖するという状態になったわけです。
この殺戮は、シオニズム運動を生み出します。シオニズム運動は、ナータン・ビルンバウムらが始めたもので、古代に住んでいたユダヤの地に移り、ユダヤ人国家を建設することで、迫害のない社会を築こう、というものでした。

これは、ユダヤ人自身が、民族的自覚を持つようになってきたことに関係します。
もともとユダヤ人とは、ユダヤ教という宗教的・文化的な差異で区別がされている傾向が強かったわけですが、ドイツから東方にかけて住んでいたユダヤ人がドイツ語の影響を受けたイディッシュ語を使う独自の文化を生み出していたことや、ナポレオン以降、ヨーロッパ各地で国民国家思想が生まれ、民族の自覚が次々と生まれるようになったことも影響してか、ユダヤ人も自分たちを「民族」とみなし、国家を持とうという考えが生まれていきます。民族で言えば、キリスト教徒やイスラム教徒にもユダヤ民族の血を引いている人は大勢いますが、それはユダヤ人とは呼ばれていません。
ユダヤ人国家の建設の場所は、かつて居住していたユダヤの地、すなわち、ローマ帝国以降ではパレスチナとよばれる土地でした。
シオニズム運動がさらに盛んになったのは、社会体制と経済が近代化するに連れて、それまで宗教的な制約で金融業種に就くことが多かったユダヤ財閥の力が強まったことと、ドレフュス事件が直接的に影響しています。
1894年9月、先の普仏戦争(1870〜71年)でプロイセン(後のドイツ帝国)に負けたフランスで、軍内部の機密情報がドイツに漏洩しているという情報があり、その調査で、10月15日、ユダヤ人で参謀本部付きの砲兵大尉アルフレド・ドレフュスが逮捕されます。しかしなんの証拠も無いため、調査を続けていたところ、この事件を反ユダヤ系の新聞「自由言論」が報道して、ユダヤ人に手ぬるいと軍部を批判したため、軍部は急遽軍法会議を開き、ドレフュスを有罪にし、南米ギアナのディアブル島に流刑に処しました。その処置に疑問をいだいた彼の家族の調査から、軍情報部のピカール大佐は真犯人がフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることを突き止めますが、ドレフュスの「冤罪」発覚を恐れた軍上層部は、エステルアジの罪を問わなかったため、これを知ったエミール・ゾラは弾劾状を発表し、世論はユダヤ人擁護と反ユダヤで二分する事態に発展。しかし、反ユダヤのために国を売った男をかばった、ということが、「自由言論」を始め保守派や軍部の信頼を失墜させてしまい、一方では人権という考え方が広がる結果となります。しかも、機密情報自体がドレフュスの罪を重くするための捏造だという説まで出る始末(エステルアジは借金のためにドイツのスパイとなっていたといわれる)。
政府はドレフュスを有罪のまま、特赦にして釈放しましたが、ドレフュスは無実を主張し、1906年にようやく認められました。
この事件を取材した作家でジャーナリストでもあるテーオドール・ヘルツルは、1896年、『ユダヤ人国家』を出版して、ユダヤ人国家建設についての詳細な提案をします。これが西欧でのシオニズム運動の興隆につながっていきます。ヘルツルの指導のもと、ビルンバウムの協力で1897年8月、スイスのバーゼルにおいて最初のシオニスト会議が開かれます。

東欧のシオニズム運動の指導者だったビルンバウムは、イディッシュ語という独自の文化を持つ東方ユダヤ人こそを「民族」としてみなし、これに西方のユダヤ人も取り込もうと考え、1908年8月30日から9月4日まで、チェルノヴィッツでイディッシュ語世界会議を開催します。
しかし彼の運動は逆に、言語や文化の異なる東西のユダヤ人を分裂させるようになり、結果的には、ユダヤ人は復活させたヘブライ語を中心として、イスラエル建国へとつながっていきます。

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国の領地であった中東の重要性が高まり、イギリス政府は、アラブ人とユダヤ人にそれぞれ、独立国家への道を示唆するようになります。
アラブ人の独立を認めた1915年7月14日から1916年1月30日にかけての書簡によるフサイン・マクマホン協定、オスマン帝国領分割を定めた英仏露による1916年5月16日のサイクス・ピコ協定、ユダヤ人のパレスチナ帰還と国家建設を支援するというロスチャイルド宛の1917年11月2日のバルフォア宣言、終戦を経て、1919年1月3日のファイサル・ワイツマン合意でアラブとの友好協力の下ユダヤ人入植が決められ、パレスチナの英国統治とヒジャーズ王国の独立などを含める帝国領土の再編を決定した1920年8月10日のオスマン帝国との講和条約であるセーヴル条約が締結されました。
この一連の協定や政策を主導したイギリスは、自国の利益のためにどの勢力に対してもいい顔をして約束したため、支配権が重なりあう矛盾した結果になり、中東問題をややこしくする要因となりました。

こういう状況であったため、ユダヤ人の入植が増加し始めると、パレスチナでは、それまでは比較的中立関係にあったアラブとユダヤの間で対立が生じ、しばしば暴動が発生するようになります。
なかでも1929年8月15日、エルサレムにある「嘆きの壁」(※)で、ユダヤ人青年らの自衛団であるベタルのメンバーがデモを行い、その噂に尾ひれがついて翌日にはアラブ側のデモが起き、両者はエスカレート。8月23日に、アラブ人らがユダヤ人居住区を襲撃。多数のユダヤ人が虐殺・暴行を受け、出動したイギリス植民地軍によって今度はアラブ人が虐殺される「ヘブロン虐殺事件」に発展しました。
これらの衝突は、戦後のイスラエル建国以降顕著になる土地所有権の問題よりも、英国統治下で、農業主体のアラブ人と、金融・工業主体のユダヤ人との経済政策の違いによる利権問題も絡んでいました。
一方でシオニストらはアラブ人との間で民族と宗教の問題を不問にして共存共栄する道を模索して「イフード運動」を展開しました。ヨーロッパで迫害され続ける彼らが安寧の地を建設するため、この時点で先住民だったアラブ人との和平を検討していたわけです。その運動はアラブ側の有力者にも賛同を得られていました。
しかし、これらパレスチナでの様々な動きに影響することになるのが、ナチスのホロコーストと、その結果としてのイスラエルの建国でした。

嘆きの壁:ローマ帝国以降破壊され続けた古代イスラエル神殿の西壁の遺跡でユダヤ教徒の聖地。一方で、神殿跡に立つアル=アクサー・モスクと「岩のドーム」はイスラム教の聖地でもあるため、イスラム帝国支配下では、ユダヤ教徒は聖地巡礼を行うことが難しかった。

☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:世界史 歴史
posted by あお at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 隣国関係の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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