2013年04月07日

隣国同士の関係:パレスチナ4―ホロコーストとイスラエル建国

現在のパレスチナ問題の直接的原因は、イスラエルの建国。その背景にはホロコーストがあります。

各地で殺戮を含む迫害を受けてきたユダヤ人ですが、その最大のものが、ナチスによるホロコーストでした。
ホロコーストは、ギリシャ語でお祭りのお供え物の動物を「丸焼き」にすることを指し、そこから火災による惨事や、大量虐殺などへと意味が転じていきました。

第一次大戦後の混乱期に、小政党だったドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチ)にヒトラーが入り、そのアジテーションの旨さから党代表へとのしあがります。当初はミュンヘン一揆などを起こしてヒトラーも投獄されましたが、それが逆に知名度を高め、その後はヴァイマール政府に対する社会の不満を吸収して、合法的に勢力を拡大していきます。1932年の選挙で第一党となり、翌年1月30日、ヒトラーは首相に就任。3月24日、全権委任法で独裁権力を手にしました。

ヒトラーは青年期を過ごしたウィーン時代の挫折や敗戦の経験からか、早い段階から反ユダヤ主義でしたが、ナチスはのちに、本来宗徒が基準の「ユダヤ」を血統としてユダヤ「人種」と認定し、独自の優生学的アーリア民族主義から、ユダヤ人を劣等民族とみなし、差別するようになります。ヒトラーの著書『我が闘争』でもすでに、「ユダヤ人問題の解決」がドイツ再生の大きな問題とされています。
具体的な政策としては、ヒトラー政権樹立後の1933年3月28日に、ユダヤ商店へのボイコット政策として、「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」を出し、4月7日には「職業官吏団再建法」によって、公務員から追放します。しかしユダヤ人とは何を基準とするかが問題となったため、1935年9月15日には「ドイツ人の血と名誉を守るための法」と「帝国市民法」を制定(2つでニュルンベルク法という)。ここで祖父母及び両親の何れかにユダヤ教徒がいるかどうかで民族性を定めます。しかし「血統」の範囲を広げると、かなりのドイツ人が含まれるため、後に、4人の祖父母のうち1人がユダヤ教に所属している者は、「第2級混血」としてドイツ人と認めるが、それ以上のユダヤ教徒を祖父母両親に持つ人物は、本人の宗教に関係なく完全ユダヤ人としました(同年11月24日「帝国市民法第一次施行令」)。
ニュルンベルク法では、帝国市民とドイツ国籍を区分し、ユダヤ人にはドイツ国籍は認めるが、帝国市民とはしないことを決めました。そして帝国市民でないものの権利、すなわち政治的権利、職業の自由、そして婚姻と性交渉の対象を制限しました。ただこの時点ですでにユダヤ人は公民権を奪われていたため、いわゆる差別政策の最後の法的措置だと考えられていました。また、上記法で区分上は「ユダヤ人」とされるにもかかわらず、書類の改竄などにより「アーリア人」となった人物が有力者やナチス党員にも多数いたといわれています。すでに多くのユダヤ教徒とキリスト教徒は混ざり合い共に暮らしていたからです。

ナチス政権は経済のアーリア化政策で1937年後半からユダヤ資本はドイツ資本へ売却されることになります。これは当初、民間取引として行われましたが、その後強制化され、1939年9月1日以降、ユダヤ資本は禁止されました。
1938年8月17日には、ユダヤ人へユダヤ人らしい名前に改名することが強制されます。
1938年10月6日、ポーランド政府は旅券法を更新し、ドイツのポーランド系ユダヤ人のポーランド入国を制限します。これはポーランドでも反ユダヤ主義が強かったため、ドイツからのポーランド系ユダヤ人強制送還に対応したものですが、この事で両国は対立。11月7日、行き場を失ったユダヤ人の困窮を知ったフランス在住のポーランド系ユダヤ人ヘルシェル・グリュンシュパンが、事態を世界に訴えようとパリのドイツ大使館で、応対した三等書記官エルンスト・フォム・ラートを銃撃、ラートはまもなく死亡する事件が起きます。このことを知ったドイツ国内、オーストリアなどの各地で、11月9日夜から11月10日にかけてユダヤ商店やユダヤ資本への大暴動が起こります。これが「帝国水晶の夜事件」です。ナチスの指示による官製暴動だとも言われています。さらにユダヤ人らのほうが逮捕されました。
11日にはユダヤ人の武装禁止、12日にはこの暴動の始末を付けるため、ユダヤ団体に罰金を命じ、ドイツ企業にユダヤ人の解雇を、破壊された施設の修復をユダヤ人に命じる3政令を発します。15日にはユダヤ人のドイツ学校への登校を禁止。23日にユダヤ人を文化施設(劇場・映画館・音楽会・ダンス場)へ立ち入ることを禁止。免許や恩給の剥奪も行われ、ナチス幹部による「ユダヤ問題への最終解決」が盛んに言われるようになります。12月31日からは身分証明書にユダヤ人であることを示す「J」の文字が記入されました。
この時の、ユダヤ問題の解決方法は、国外追放でした。
1939年1月24日にはゲーリングが、ユダヤ人国外移送に関する組織の立ち上げを指示しています。
移送の有力候補地がマダガスカル島で、マダガスカル計画と呼ばれました。大戦勃発後の1940年6月18日にヒトラーとムソリーニの会談で取り上げられ、さらに6月25日には、講和したフランス政府によって移住計画を進めるという具体的な案が出されています。ポーランド各都市のゲットーへ送るよりもいい、とナチス幹部も乗り気でしたが、マダガスカルをめぐってのイギリスとの戦いが実施困難に追い込んでいきます。
そのため、ポーランドのゲットーは拡大されて行きました。
また前線に近い東方では、保安警察及び保安部の特別部隊アインザッツグルッペンが「敵性分子」として、ユダヤ人の殺戮作戦も実施していました。この活動には軍部や地元のユダヤ系以外の住民の協力もあったと言われています。

1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔の別荘で、ユダヤ人問題の最終的解決を話し合うヴァンゼー会議が親衛隊幹部や占領行政官らによって開かれました。ここで絶滅政策について確認したとされていますが、具体的な史料に乏しく否定する説もあります。7月19日に親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーはゲットーのユダヤ人を収容所へと強制移送することを命じます。
つづいて1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによって第二次移送が行われ、移送の実態を知ったユダヤ人たちが蜂起。これがワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ蜂起とは異なる)ですが、失敗に終わりました。移送先は主にベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの三大絶滅収容所でした。
これら絶滅収容所は占領下のポーランドに作られました。ドイツ国内の強制収容所と戦後長いこと混同されていましたが、実際には明確に区分されています。三大絶滅収容所は、1943年10月14日のソビボル収容所からの大規模脱走事件などもあり、閉鎖され隠滅されました。
代わりに拡張されたのが、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所。ここに大勢の人がヨーロッパ各地から貨車で輸送されて、ガス室へ送られ、主にツィクロンBを浴びせられて処刑されたといいます。対象者を安心・油断させるため、延命を認められたユダヤ人によるゾンダーコマンドが手助けをしました。遺体からは金歯などが抜かれ、焼却処理されました。ただし、遺体から干し首や、皮膚を貼ったランプシェード、脂肪の石鹸などを作ったという話は、証拠品がなく、ナチスの残酷さを誇張するために後で作られた嘘もかなり含まれています。
もともと歴史的にユダヤ人が多かったポーランドでの移送が一定の目処に達すると、今度は他の占領地からの移送も始まり、それまで実績のなかったハンガリーや、ユダヤ問題では消極的だったイタリア政府が連合国に降伏し、北部にナチス支持のもとサロ共和国が成立すると、イタリアからもユダヤ人が移送されるようになります。
しかし、大戦末期になると、物資も不足し、連合軍の侵攻と空襲もあって、絶滅収容所の機能は失われていきました。
劣悪な環境だった強制収容所でも状況は悪化し、食料不足もあって腸チフスなどによる病死者が相次ぎ、アンネ・フランクとその姉も亡くなっています。

収容所で作業する人間や、収容所所長、親衛隊関係者など、平凡で特に凶悪に見えない人物がどうして流れ作業のように殺人をする残酷なことを出来たのか、疑問がありました。その点については、戦後、逃亡の末に逮捕されたアドルフ・アイヒマンの心理問題として注目され、アメリカでは心理学者による一般市民を対象としたミルグラム実験と呼ばれる心理テストまで行われています(※2)。

シンドラーのリストのようなユダヤ人を労働力として使うことで救った話や、難民にビザを発給した杉原千畝とそれに協力した満洲や日本の外交官ら、ユダヤ難民の滞在を認めて逮捕されたスイスのザンクト・ガレン警察署長パウル・グリュニンガーなど、ユダヤ人保護や救援を行った人物は無名の市民も含め大勢いましたが、それらの活動は、戦後長いこと知られて来ませんでした。それら多くの人々は、現在、「諸国民の中の正義の人賞」で顕彰されています。

最終的にナチスによってどれだけのユダヤ人が殺害されたかは不明です。比較的よく言われているのが600万人説。
根強い反ユダヤ主義、イスラエルと対立するイスラム諸国や、イスラエルの政策に対する欧米の批判層、ドイツの保守層やネオナチ、ユダヤ陰謀論の好きなオカルティスト、その他様々な思想立場の人間が、ホロコーストに対して否定的な見解を示していますが、虐殺を認める説でも、犠牲者の数は数十万人から1100万人程度まで開きがあります。ナチスの公文書にないこと、関連する予算がないこと、数年でそれだけの人数を殺せるのか、その方法、膨大な数の遺体を処理できるのか、収容所施設の構造の疑問点、あるいは、戦前・戦後の全世界のユダヤ人の人口から疑問を呈する説もあります。
さらにこの数字には、ユダヤ人だけでなく、同じように収容所送りになったロマ人やスラブ人、捕虜、身体障害者、同性愛者、反政府活動家、無政府主義者、共産主義者なども含まれているとみられ、正確な数字はわかっていません。逆にユダヤ人だけが目立ってしまい、それら他の人々のことが注目されていない、という問題もあります。
また、ナチスの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判(1945年11月20日〜1946年10月1日)が、近代の裁判制度・国際法・国際的慣習からみてかなり疑問のある(※3)戦勝国による恣意的に行われたもののため情報の信頼性が欠如してしまったことも影響しています。
この問題が微妙であるため、虐殺は誇張だと全否定する意見が出たり、それに対する言論封殺が起こるなど、冷静に判断する状況にない様相もあります。
ただ、大規模なユダヤ人への迫害が、終戦直後の国際情勢も絡んで、イスラエル建国へとつながり、現在まで続く中東問題になったのは言うまでもありません。

※1…ファシズムはイタリアやドイツだけにあったのではなく、当時、時期は前後するも、オーストリアのドルフース政権、ポーランドのピウスツキ政権、スペインのフランコ政権、ポルトガルのサラザール政権、ハンガリーのゲンベシュ政権、ギリシャのメタクサス政権、ブラジルのヴァルガス政権、アルゼンチンのウリブル政権やペロン政権などファシスト政権は各国で成立している。また、アメリカやイギリスにもファシスト政党は一定の勢力を誇り、フランスでも複数の団体があった。一部のファシスト政権や政党には戦後まで続いているのもある。これらの政権・政党は、おおむね反共では一致していたが、国情の違いから、反ユダヤ主義は強いものもあれば弱いものもあり、親ナチスもあれば、反ナチスもあった。

※2…ミルグラム実験は、アイヒマン裁判が始まった直後の1961年7月から始まった実験で、閉鎖環境で、権威のある人間に、責任を問わないことを条件に命令されると、他者の命を奪いかねないことでも実行してしまうかどうかを多数の市民を対象に実施したテスト。実際にはテストで危険な目に遭う被験者は苦痛を演じるサクラで、苦痛を与える装置も見せかけだけのものだったが、テスト対象者はそのことを知らず、しかも多くが「生命に危険なレベル」の命令にも従って実行している。公表後、実験の正確性や残酷性が問題となった。

※3…戦争犯罪を名目にして個人を裁くことや、法の不遡及・控訴が認められていない、弁護時間の偏りなど、法制度的に不備な裁判だった。裁判中、被告に対する暴力による自白強要や、証拠のない荒唐無稽な非道行為まで取り上げられている。また、ナチスと直接は関係のないカチンの森事件(ソ連軍によるポーランド兵虐殺事件)やイェドヴァブネ事件(ポーランド市民によるユダヤ人虐殺事件)もナチスの犯行と認定された。これらの多くは現代ではかなり訂正されるようになっている。

☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:世界史
posted by あお at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 隣国関係の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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