2014年01月20日

超新星爆発の記録

超新星とは、質量の大きい恒星の最終段階で起こる大規模な爆発現象のことです。
古くから、人類は夜空に見える星々とは違う、突如現れる強い光を放つ星のことを観測してきましたが、1572年、ティコ・ブラーエがこの種の星の出現を観測した際に「新星」と呼びました(※1)。
1885年に観測されたアンドロメダ銀河内での大規模な爆発現象を観測したことで、「超新星」と呼ぶようになります。

新星の多くは、片方が白色矮星である連星系で起こると考えられています。もう一方の恒星から水素ガスが大量に流入し、白色矮星の表面で核融合反応を起こし、これが爆発的に吹き飛ばされる現象です。爆発するのは表面だけなので、爆発後は元の状態に戻り、ふたたび水素が蓄積していき、しばらく後に再び爆発を起こすことを繰り返します。銀河系内で年間30〜60個程度が新星となると考えられていますが、その多くが、距離が遠かったり、星間物質に遮られたり、銀河中心の向こう側で起こるために観測できるのはわずかです。

超新星は、新星とは異なる仕組みで起こります。
T型の場合は、白色矮星に連星からのガスが降り注ぎ、その質量が縮退圧のチャンドラセカール限界を超えることで支えきれなくなり収縮、その結果、中心核の炭素核融合が一気に加速して爆発。超新星となる場合です。
U型の場合で、太陽の約8倍より重い星の場合、水素の核融合反応が進むとヘリウムが増え、その収縮で高温となり膨張して赤色超巨星に進化します。中心核では6億Kという超高温となり炭素が核融合を起こしてネオンやマグネシウムからなる縮退した中心核が作られますが、陽子の電子捕獲反応によって電子の縮退圧が弱まるため、重力収縮が勝って一気に崩壊します。この時開放されるエネルギーで外層を吹き飛ばす大爆発が超新星です。
また、太陽の10倍程度よりも重い星では中心核が縮退することなく核融合が進み、酸素、ケイ素と生成し、最後に鉄の中心核ができます。鉄の中心核は重力収縮しながら温度を上げていき、約100億Kに達すると黒体輻射により生じた高エネルギーのガンマ線を吸収してヘリウムと中性子に分解する鉄の光分解現象が起こります。併せて電子の捕獲も進むため、中心核の圧力が低下し、一気に重力崩壊を起こします。この結果、放出されたエネルギーで外層部は大爆発を起こして吹き飛び超新星となります。
あとには爆縮した中心核だけが、中性子星やクォーク星、ブラックホールという形で残ります(※2)。

超新星爆発のエネルギーは、光速の20%もの速さで広がり、周囲数光年を巻き込み、さらに大量のガンマ線を放出します。仮に生命のある惑星がその十数光年ほどの範囲にあれば、降り注ぐガンマ線で壊滅的な打撃を受けます。過去、地球の歴史で起こった生命大絶滅現象の中に、このガンマ線照射が原因となっているものがあるのではないか、という説もあります(※3)。
一方で、その衝撃波は星間物質をかき混ぜ不均衡にすることで、密度の濃い部分が重力を増し、それが周辺物質を引き寄せさらに重力が増し、新たな星の誕生につながる他、超新星爆発の膨大なエネルギーによって鉄より重い重金属は生成されると考えられ、生命の誕生にも少なからず影響しています。

新星と超新星を明確に区分するようになったのは、仕組みがある程度わかってきた20世紀後半です。
しかし、その猛烈なエネルギーは、過去いくども地球上から観測され、記録に残されました。
最も古い記録は、西暦185年の超新星。中国の記録にあり、3300光年離れたところで起こりました。
有名なものでは、1006年の超新星、1054年の超新星があります。1054年の記録は、藤原定家の日記『明月記』(※4)や中国の古典にも見られ、20世紀に入り、牡牛座かに星雲がこの爆発の残骸であることが判明しました。
ティコ・ブラーエが「新星」と初めて呼んだ1572年の超新星、銀河系内で起こったもので観測されたものとしては今のところ最後である1604年の超新星(ケプラーの星)、超新星という語のきっかけとなった1885年のアンドロメダ銀河内で起こった超新星、ニュートリノ天文学のきっかけとなり、カミオカンデの観測で小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞した1987年の大マゼラン銀河での超新星などが知られています。
実際には銀河平均で40年に1個程度は超新星爆発が起こっていると考えられますが、地球との間にある星間物質によって見えなかったり、銀河中心の向こう側で起こるために見えなかったりしているものと思われます。
また超新星爆発自体は観測された記録がないのに、超新星残骸が現在観測できるものもあります(※5)。

人類に影響を及ぼす可能性がある距離の星で、近い将来超新星爆発を起こす可能性が高いのは、冬の大三角の一点、オリオン座ベテルギウス。超有名な恒星ですが、赤色超巨星の段階にあり、すでに寿命の終わりの方。しかもこの十数年の観測だけでも、激しく収縮をしており、また噴き出しているガスで形状も不規則になっていることから、人類が超新星を目撃できる可能性のある星です(※6)。もしいま超新星爆発が観測された場合、距離は640光年ほど離れているので(つまり640年前に爆発したことになるわけですが)、直接の影響は殆ど無く、数日間は昼間でも輝いて見えると考えられています。問題はガンマ線バーストの影響を受けるかどうかで、現時点では地球の位置が放射される方向から外れているので、自転軸の移動などがない限り問題はないだろうというのが大方の研究者の結論のようです。

主だった超新星の記録
185年、SN 185を観測。ケンタウルス座3,300光年。最古の観測記録。
393年、SN 393を観測。さそり座。超新星残骸RX J1713.7-3946か?
1006年、SN 1006を観測。おおかみ座7,200光年。明月記にも記録されている。
1054年、SN 1054を観測。おうし座7,000光年。現在のかに星雲。明月記に記録された3つのうち最も有名なもの。
1181年、SN 1181を観測。カシオペア座26,000光年。明月記の記された時代に起こった超新星。
1572年、SN 1572をティコ・ブラーエら複数の天文学者が観測。カシオペア座12,000光年。新星と名付けられた最初の星で、通称ティコの星。
1604年、SN 1604を観測。へびつかい座20,000光年以内。通称ケプラーの星。銀河系内で記録上最後に観測された超新星。
1885年、SN 1885Aを観測。アンドロメダ銀河内254万光年。supernovaと呼ばれた最初の星。他の銀河で発見された最初の超新星でもある。
1987年、SN 1987Aを観測。大マゼラン銀河。167,800光年。ニュートリノを多数観測しニュートリノ天文学のきっかけになった。
2005年、SN 2005apを観測。かみのけ座47億光年。観測史上最大光度の超新星。
2006年、SN 2006gyを観測。ペルセウス座方向の銀河NGC 1260内。2億3800万光年。対生成を伴う対不安定型超新星爆発で観測史上最大級。


※1…中世カトリック全盛期には、天動説が絶対であり、太陽や惑星の動きを含め、神の作った宇宙は完璧・不変であるとみなされ、不意に生じる新星や超新星は大気上層部の現象だと考えられてきたが、観測技術の発達とルネサンス期の宗教観の変化によって、宇宙で起こる現象だと考えられるようになった。そのため「新星」と名付けられた。ただしティコ・ブラーエ自身は観測結果と整合しないとして地動説を否定的に捉えていたという。
※2…ブラックホールすら残らない極超新星爆発もあると言われる。
※3…約4億4000万年前のオルドビス紀−シルル紀境界での大量絶滅はその候補の一つ。6000光年以内で起こった超新星爆発のガンマ線照射が原因という説もある。
※4…藤原定家が明月記を記したのは、1180年〜1235年で、1054年の超新星は陰陽師らの残した記録を記載したものといわれる。1006年と日記と同時代の1181年の超新星爆発のことも記されている。
※5…ほ座ベラ・ジュニアは西暦1200年ころ超新星爆発の光が地球に到達しているはずだが記録にない。G1.9+0.3超新星残骸も140年位前に地球に光が到達した超新星爆発の残骸と見られるが記録にない。
※6…明日起こるかもしれないし、1万年後かもしれないスパンだが、宇宙の歴史の長さから見ると人類スケールに近い時間で超新星化する。ベテルギウスの直径は太陽の約900〜1000倍(太陽の位置から見て木星軌道くらいまでの大きさがある)、視直径は約0.047秒(太陽の視直径は約30分)で、太陽には比べられないが、全天で2番めに「見た目」の大きな恒星。宇宙望遠鏡などでは直接観測が出来るため、その変化もよく分かる。

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2014年01月13日

桜島の歴史

今年は桜島の大正大噴火から100年になります。
100年前の噴火の体験を語る人ももういないでしょうが、ここ数年、桜島は再び活動が活発になってきていることもあり、火山噴火への備えとして、地域ぐるみの取り組みも行われるようになっています。

大正大噴火は、1914年に起こっていますが、突然大爆発したわけではありませんでした。人々が観測した前兆現象は1913年6月29日の地震から始まりました。以後、弱い地震が頻発し、火山ガスの発生、海水温や地熱の上昇などの現象が続き、島民も当然その異常に気づいて、当時の鹿児島測候所に問い合わせています。
しかし測候所の返事は、噴火はない、というもの。
現代の予知技術でも、噴火の正確な予知は難しいので、当時はなおさらでしょうが、島民の多くは信用せず、独自に島を離れて避難するようになります。
1914年1月に入ると、地震や地鳴り、白煙が上がるようになり、1月12日午前10時過ぎに大きな噴火が2箇所から始まりました。
同日午後6時28分には桜島沖合の鹿児島湾海底地下を震源とするマグニチュード7の大きな地震も発生。鹿児島市周辺は震度6に達し、各地で土砂崩れが起きて29人が死亡しています。このため鹿児島側でも流言が飛び交いパニック状態となって、避難する市民が相次ぎました。この地震では津波も発生しています。噴火に伴う地中の圧力低下が、それまで溜まっていた歪を一気に解放して起こしたものと考えられています。
13日には噴火はさらに強まり、火砕流が麓の小池、赤生原、武の集落を襲い焼失。大量の噴出物は島内と大隅半島にも降り注ぎ、特に量の多かった黒神集落には、今でも半分埋まった黒神神社の鳥居が残されています。同日溶岩の流出もはじまり、西側と南東側へと移動。
15日には溶岩は海岸に到達。大隅半島との間の瀬戸海峡を埋め始め、29日にはついにこれを埋め尽くし、桜島は地続きとなりました。溶岩の移動は翌年まで小規模に継続したと言われています。
死者は58人で、火山ガスや海へ避難して溺死した者などもいます。当時の島内人口2万1368人と家屋の被害に比べれば人的被害は少ないですが、これは測候所の発表を鵜呑みにしなかった住民の自主避難の結果でもあり、災害時の対応の教訓とも言えます。
大量の火山礫(※1)と火山灰は南九州の広範囲の農地を覆い、甚大な被害をもたらしました。また溶岩と噴出物に覆われた結果、桜島の住民の半数が島外へ移住していきました。防災などの意味も含めた交通の便のため、1934年(昭和9年)11月19日から村営定期船が運行され、今の桜島フェリーになっています。

桜島は姶良カルデラの一角にあります。火山島としてもかなり大きな島ですが、歴史は比較的浅い火山です。
姶良カルデラ(鹿児島湾北部の直径20kmほどのクレーター)は複数のカルデラからなり、2万9千年前頃に大爆発を起こしました。特に妻屋火砕流・入戸火砕流を発生させた二度の爆発は規模が大きく、薩摩大隅両半島の半分と宮崎県・熊本県の南部は、シラス台地と呼ばれる厚さ最大150mに達する噴出物の層が広がっています(※2)。姶良Tn火山灰(※3)と呼ばれる降灰は東北にまで達しました。この層を境に植生が変化するほどの規模で、特に桜島や大隅半島などでは植物の遷移の参考にもなっています。このあと2万2千年前ころに桜島が海上に姿を少しずつ現し始め、大きくなっていきました。
現代で姶良大噴火規模の噴火が起きた場合、国家級の大災害になるのは言うまでもありません。といってここまで来ると事前の準備で出来る事には限界があるでしょう。予知の正確さを進め、多数の市民を影響外へと避難させる人命保護優先の対策を考えるしか無いのが現状です。

大正噴火以外の桜島の有史以降の噴火は主に以下のものがあります。
1471年10月25日(文明3年9月12日)に大噴火。死者多数。
1475年9月15日(文明7年8月15日)には桜島南西部で噴火(文明溶岩が流出)。
1476年9月29日(文明8年9月12日)に大噴火、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成。
1779年11月8日(安永8年10月1日)桜島各所で噴火。火砕流と降灰を伴い、翌9日には溶岩の流出が始まり、翌10日(10月3日)には海岸に到達(安永溶岩)。
1780年8月6日(安永9年7月6日)桜島北東海上で海底噴火。
1781年4月11日(安永10年3月18日)に同じ場所で海底噴火と津波が発生。
一連の噴火の死者153人。
1946年(昭和21年)1月に噴火が始まり、3月9日に火口から溶岩が流出し、4月5日に黒神集落を埋め海岸に到達。5月21日には別の溶岩流が有村集落に達し、海岸に至る。死者1名、噴出物総量は約1億立方m。
1955年(昭和30年)10月に南岳山頂火口で爆発噴火。死者1名、負傷者11名を出した。南岳山頂付近は立ち入り禁止となる。
1972年(昭和47年)10月2日午後10時19分に南岳山頂で爆発噴火。翌1973年7月24日に活動火山対策特別措置法が制定される。
1974年(昭和49年)6月17日、第1古里川の砂防工事現場で土石流が発生し作業員2名が死亡し1名が行方不明。同年8月9日、野尻川の砂防工事現場において土石流が発生し作業員ら5名が死亡。
1986年(昭和61年)11月23日、桜島古里地区のホテルに直径約2m、重量約5トンの噴石が直撃、宿泊客と従業員の合わせて6名が負傷。
1987年から2005年ころまでは収まっていましたが、2006年ころから再び活発化。現在は大正大噴火時に匹敵するマグマがたまっていると考えられています。

※1:火山礫はボラと呼ばれる。有史以降の桜島、霧島、御池の噴火で噴出したもので、宮崎・鹿児島両県に広がり、農作業の邪魔者扱いされているが、園芸では日向軽石、日向土とも呼ばれて蘭などの栽培で重用されている。
※2:他に33万年前の加久藤カルデラ噴火、11万年前の阿多カルデラ、5500年前の池田カルデラの噴出物も含まれている。
※3:Tnは丹沢のこと。丹沢で見つかったため、当初はその付近の火山の噴火だと思われて、後に姶良カルデラのものと判明しこの名前になった。関東地方でも10cmもの厚さに灰が積もった。

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2014年01月03日

悪人列伝−近代文明を否定した男、ポル・ポト

第二次世界大戦後は、世界規模の多国間戦争がなくなる一方で、植民地時代が終わりを告げて、地域独立の時代となりました。しかし独立を達成しても、政治経験が乏しく、経済基盤が弱く、教育水準が低い中、自然とカリスマ性の高い人物や軍事力を持つ人物に権力が集中していきます。そして大小様々な独裁者が生まれました。その多くは、強力な政治体制のもとで近代化を推し進め、開発独裁と呼ばれました。しかし、全く逆のことをした人物がいます。
近代文明を否定した男。カンボジアの共産主義独裁者ポル・ポトです。
人口がそこそこあったとはいえ、決し大国ではなかった東南アジアの一国で100万人以上の市民を死に追いやり、クメール文明を崩壊させた人物です。多くの犠牲者もさることながら、その「原始共産主義」という異様な政策で歴史に名を残しました。
ポル・ポトは本名サロット・サル。
現コンポントム州の自作農の家に生まれます。当時カンボジアは農業国で輸出もしており、自作農は比較的裕福でした。王族とも交流する家柄だったといいます。
伝統に従い寺院で修行した後、カトリック系学校や高校で教育を受け、1949年、パリに留学します。そこで彼は共産主義運動に参加しました。
フランス共産党の中にあったクメール語の一派に加わり、のちの政権下で要職についた人々と出会っています。「クメール・ルージュ(赤いクメール)」の原点でした。彼ら若者たちは実際の政治としての共産主義というより思想的に論じ合うグループとして存在し、ポル・ポトはその中で目立たない存在だったといいます。試験に落ち、奨学金を打ち切られて帰国したポル・ポトは、教師となり、左翼運動を始めます。
クメール・イサラク連合に加わり、独立闘争を始めますが、エリート共産主義者に対するコンプレックスがあったようです。彼は何事も自身で決めるようになります。
この頃、ベトナムでのフランス植民地に対する抵抗が強まり、やがて独立戦争へ発展していきます。1954年、フランスが撤退すると、ベトナムは南北に分裂。インドシナ半島各地の共産主義者がベトミン(越盟・ベトナム独立同盟)に関わって北ベトナムへ向かったため、カンボジアのクメール人民革命党は指導体制が混乱し、ポル・ポト派はそこに入り込みます。
政治体制の変化が、ポル・ポトの権力への道を拓いていきます。
1949年に独立したカンボジアは、国王シハヌークのもとで左翼運動を弾圧し、権力基盤を固めようとしました。しかし、ベトナム内戦は、アメリカの介入を招いて、ベトナム戦争へと拡大すると、アメリカの支持を受けるロン・ノル将軍らの右派勢力が台頭していきます。1963年2月に起こったシェムリアップ暴動で、シハヌークは左翼反政府勢力の取り締まりに乗り出しますが、右派も警戒し、左派の徹底弾圧は出来ず、妥協を図らざるを得なくなります。この弾圧で都市部の共産主義者は地方に逃れ、農村地帯を活動の拠点にします。ポル・ポトも森林地帯に身を潜めました。
1970年、シハヌークががん治療のために中国へ向かった留守に、ロン・ノルはクーデターを起こして議会に国王退位を認めさせ、権力の座に付きました。これは泥沼化するベトナム戦争で、東南アジア全体が共産化することを懸念したアメリカの介入もありました。アメリカ軍は連日、カンボジアの農村地帯も空爆し、この結果、カンボジアでは数十万の犠牲者と田園地帯の荒廃を招きました。それまで豊かだった自作農民らは都市へと流れ、プノンペンは100万人を超える国内難民で溢れかえります。人々の不満はアメリカと、アメリカの支持を受けるロン・ノル政権に向きました。ただ、ロン・ノル政権は、クメール人以外にも、チャム人やモンタニャールなどの少数民族の権利を認めたため、その強い支持を受けていました。
一方、農村地帯で活動していた、ポル・ポト率いるクメール・ルージュは農民の支持を得て攻勢をかけます。
アメリカはロン・ノル政権を支持していましたが、ベトナム戦争の敗北、そして中共との国交樹立によって、彼らを見捨てました。地位を追われていたシハヌークやクメール・ルージュが中共と関係が深かったからです。シハヌークはこれを機にロン・ノル政権に対抗するため、ポル・ポトに接近します。本来両者は水と油でしたが、利点があると見て手を組んだわけです。もっともポル・ポトの方が一枚も二枚も上手でした。実行する気のない約束をいくつも交わしてシハヌークとその勢力を引き入れます。
1975年4月1日、クメール・ルージュは、プノンペンへの攻勢を開始。17日、プノンペンは陥落し、ロン・ノルはアメリカへ亡命しますが、政権幹部は脱出できず、のちにことごとく処刑されました。
当初、市民はクメール・ルージュを歓迎しました。
プノンペンを制圧したクメール・ルージュは、シハヌークを形だけ祭り上げて民主カンプチア政府を樹立。すぐに米軍の爆撃があるから避難するよう市民に命じ、短期間でプノンペン市はほとんど無人となります。
ところが、数日で戻れると思っていた市民は予想外の状況に置かれます。
政権は知識層の市民を優遇すると称して呼び出し、彼らを何処かへ連れ去ると、一人も帰ってきませんでした。メガネをかけている、といっただけでも連行されて殺害されました。僧侶も弾圧され、仏教経典は焼かれ、寺院は破壊されました。そして多くの市民を農村地帯へ送り、農作業に従事させます。
ポル・ポトが目指したのは、非常に単純で完全な均等配分による原始共産制。毛沢東主義を取り入れ余計なものを排除したものでした。
そのために、通貨は廃止され、私有財産は没収され、家族制度すら解体され、子供は親から引き離されて集団生活に入れられ洗脳。大人たちも集団で管理され、婚姻までも決められ、大規模な土木工事も機械を使わず彼らを動員して手作業で行われました。
その中には従来からのポル・ポト派の構成員が密告者として入り込み、少しでも問題ありとされれば、強制収容所へ送られ処刑されました。
無計画で非科学的で非効率な農業生産体制は破綻し、都市も農村も一層荒廃。飢餓が広がり、大量処刑も加わり大人の数が激減。国民の大半が14歳以下となり、軍隊まで子供が動かす事態になります。洗脳された子供は、親を含む大人たちを憎悪しリンチや殺害も多く行われたといいます。
ポル・ポト自身はしばしば外遊もしていますが、民主カンプチアの内情は世界には伝わらず、ユーゴスラビアなど一部の関係者が訪問出来てわずかに実情に触れるだけでした。
犠牲者の総数は、元々の統計が乏しいために不明ですが、100万人から200万人の間というのが多くの見方です。
ポル・ポト政権以前から、ベトナムとは国境地帯に両民族が入り混じり、利害が絡んで対立することが多かったわけですが、ポル・ポトは反ベトナムを強く主張し、国交は断絶。ベトナム領内を攻撃し、住民虐殺まで行いました。ベトナム側でも、ポル・ポト政権への反乱工作を進めます。
ポル・ポト自身の疑心暗鬼も高まったのか、1978年5月、自国東部地区の軍と住民がベトナムと通じて反乱を企図したとして総攻撃。政権を支えているはずの将兵まで大量に殺害します。有力幹部も含む多くの人がベトナムへ逃れ、これを機に、ベトナム政府はカンボジア侵攻を計画。亡命したヘン・サムリンを代表にカンプチア救国民族統一戦線を作らせ、その支援という形で、1978年12月25日、越境してカンボジアに侵攻しました。
中国の支援を受けていたものの、人材を失い、多くが子どもというカンボジア軍はあっけなく壊滅。プノンペンは陥落し、1979年1月7日、ヘン・サムリン政権が樹立しました。ベトナム軍が見たのは、至る所にある収容所と、膨大な白骨、そして腐敗している大量の人間の死体でした。
ソ連に近いベトナム軍の侵攻に親ポル・ポト派の中国はもちろん、反共のアメリカまでがポル・ポト政権を支持・支援しました。これはソ連、中共、アメリカという三者の微妙な関係も背景にありました。
2月17日には、中共軍がベトナムへ侵攻。中越戦争が勃発します。中共軍は60万に達する兵力、対するベトナム軍守備隊は3万の民兵でしたが、ベトナム戦争での実戦経験が豊富で、ソ連、中国、アメリカの鹵獲兵器まであり、更に文化大革命後の混乱もあって、中共軍はベトナム北部の占領に成功するも大損害を出し撤兵に追い込まれました。
一方、ポル・ポトらはタイ近くのジャングルに潜み、タイにルビーなどの資源を売って資金を稼ぎ、中国などから武器を購入してはゲリラ攻勢をかけますが、政権奪回はもはや不可能でした。ベトナムによる支配はタイにまで影響及ぼし、軍事衝突まで起こっています。
シハヌークは再びポル・ポトと手を結び、右派のソン・サン派と反ベトナム三者連合を結成。しかし三者は利害を巡って対立を繰り返し、結局、ドイモイ政策でより自由化したベトナムが1989年に撤退。1991年7月、反ベトナム三派とヘン・サムリン政権は合意にいたり、カンボジア最高国民評議会が成立。同年10月パリ和平協定でカンボジア内戦は終結。1993年、国連主導のもと国民議会総選挙が行われ、立憲君主制カンボジア王国が成立しました。シハヌークが元首に返り咲く一方、ポル・ポト派は選挙に参加せず、襲撃するなど妨害。日本人警察官やボランティアを含む多数ののUNTAC要員が殺傷されました。ポル・ポト派は孤立。和平に動いた元国防担当のソン・センがポル・ポトに粛清され一族もろとも殺害されると、そのポル・ポトもまもなくタ・モク派のクーデターで軟禁され、1998年4月15日、ジャングルの奥地で死亡しました。毒殺だったとも言われています。

共産主義体制では、しばしば知識層が弾圧を受けました。
しかしこれは必ずしも指導者が教育を受けられなかった低所得者層の出身だったからではありません。
むしろ指導者には留学経験があったり、高等教育を受けているものも多くいます。むしろその中で共産主義に関わるようになっています。
共産主義組織の指導者層は、「無知な」労働者や農民を指導する、という立場にこだわり、知識のある人物を警戒しました。自分より優れていたり、自分の知らない知識を持つものに、指導方針に異を唱えられ、それが自分たちより優れていれば、自らの組織も、権力も、何より自分自身の立ってきた思想的背景までが崩れることを恐れたのかもしれません。支配し導いていく人民は自分たちの指導を素直に受け入れる無知無能な人間でなければならないわけです。
だから、対立する思想的立場の者は言うまでもなく、一般市民の知識層、果ては同志だった者まで排除しなければならなくなります。
しかし知識のある市民こそ、社会を発展させる要素です。知識層を排除すれば、ただ命令を待つだけの何も出来ない人物ばかりになり、異論はおろか進歩的意見すら出ない社会になります。そうなれば自滅の坂道を転がり落ちるしかありません。結局は、指導者の個人的恐怖感が、国家や社会を破壊してしまうわけです。
ポル・ポトは多くの同様の例の代表的一人だったといえるでしょう。

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