2011年06月28日

6月28日の出来事

6月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1193年
曾我兄弟の仇討ち
建久4年5月28日です。日本三大敵討ちの一つとして知られます。
事件の背景は、工藤祐経と伊東祐親の所領争いにありました。二人は甥と叔父の関係です。安元2年(1176年)10月、工藤祐経は叔父暗殺を企てて、祐親の子、河津祐泰を殺害してしまいます。その後、源平の争いになると、工藤祐経は源氏方に、伊東祐親は平氏方についたため、祐親は滅び、河津祐泰の二人の子ども一萬丸と箱王丸だけが残されました。二人の母親は曾我氏に再嫁し、二人も同家で育ちました。二人は苦労しましたが、兄は曾我家をついで曾我十郎祐成と名乗り、弟は祖父祐親と縁戚だった北条時政を頼り曾我五郎時致と名乗ります。兄弟は父の仇をはらすため機会を窺いました。そして、源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩を行ったとき、参加した工藤祐経を狙いました。兄弟は酔って寝ていた祐経を殺害し、兄は駆けつけた仁田忠常に討たれ、弟は源頼朝の寝所も襲おうとして捕らえられ、処刑されました。のちに『曽我物語』として有名になります。
この事件で、一時頼朝の消息が不明になったことから、弟の範頼が北条政子に「自分がおります」と言って慰めたところ、謀反を疑われ自刃させられたといいます。


1914年
サラエボ事件
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボで暗殺されました。
暗殺事件を引き起こしたのは、ガヴリロ・プリンツィプというセルビア人青年。
セルビアでは、ボスニア・ヘルツェゴビナの領有権と、スラブ人国家建設のために、オーストリア帝国への反感が強まっていました。セルビア兵士や学生らの中に、反帝国の秘密結社ツルナ・ルーカが作られ暗躍していました。暗殺犯は、彼らから支援を受けていたとも言います。
ボスニアの首都サラエボで軍事演習が行われることになり、視察も兼ねて皇太子フランツとゾフィーが訪問することになります。その訪問予定日がセルビアにとって屈辱的なコソボの戦い(ユリウス暦1389年6月15日)でオスマン帝国に敗戦した日だったことも重なり、二人は狙われました。
暗殺犯は7人おり、そのうち2人目の犯人が爆弾を投げつけ、後続の車が被害を受けています。ところがこの爆破事件の負傷者を見舞うため、皇太子夫妻が予定を変更したことから、病院へ向かう車が道を間違え、方向転換しているところに、プリンツィプが遭遇してしまったのです。とっさに彼は銃を取り出し二人を撃ちました。
二人は亡くなり、オーストリア帝国は、セルビアに無理な要求を突きつけます。セルビアは一部を呑みますが、オーストリアは認めず7月28日、宣戦布告しました。これがヨーロッパ中を巻き込む第一次世界大戦の惨禍に発展するとは誰も予想していなかったでしょう。
ちなみに皇太子妃ゾフィーは、貴賤結婚だったために冷遇されており、皇太子は彼女を慰めるために同行させたとも言われています。

1919年
ヴェルサイユ条約調印
1918年11月、ドイツが降服して第一次世界大戦は終結。1919年1月18日よりパリ講和会議が開かれます。
会議の内容は戦勝側の5大国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本)が主導して話し合われました。もっとも日本は欧州戦線にはほとんど関わっていないため、特に欧州3カ国が多くを決定しています。そしてドイツに対する莫大な賠償金の支払い、本国領土の周辺国への割譲、海外植民地の廃止、再軍備の大幅な制限を決定し、条約は調印されました。これ以降をヴェルサイユ体制と呼びます。
会議では日本に対する権益についても話し合われ、山東半島の日本の権益を認めた一方で、アメリカの権益は認めず、日本が主張して多くの賛同を得た人種差別撤廃条項はアメリカの議事進行によって妨害され認められませんでした。この結果、日米の関係がギクシャクすることになります。また、中国ではドイツに代わって出てきた日本に対する反感が高まります。
そして重い負担を強いられたドイツでは民族主義が台頭していき、やがてナチス政権へとつながりました。
のちに第二次世界大戦後の処理では、賠償金請求はせずに敗戦国の復興を急がせたのも、ヴェルサイユ体制の教訓があったからだと言われています。
ちなみにドイツは2010年に賠償金を払い終えています。


1991年
COMECON解散
コメコンというのは、ソ連が主体となって共産主義国で構成されていた経済相互援助会議のことです。
西側ではCommunist Economic CommunityからCOMECONと呼ばれていました。
アメリカが行ったヨーロッパの復興支援政策マーシャルプランに対抗する意味から、東欧地域におけるソ連優位の体制を図るもので、東欧諸国が参加していました。
しかしハンガリー動乱など、東欧でのソ連に対する反感が強まったことから、より貿易経済会議へと見直されました。
東欧以外に、モンゴル、ベトナム、キューバが加盟していました。
またアジア・アフリカの社会主義国がオブザーバーに、フィンランド、メキシコ、イラクが西側に近い中立国も協力国に名を連ねています。
しかし世界が自由主義経済へと移行していく中、東欧諸国で民衆革命が起こると、ほとんど意味がなくなり解散しました。
直後にワルシャワ条約機構もなくなり、そしてソ連そのものが崩壊することになります。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
ラベル:歴史 年表
posted by あお at 00:04| Comment(0) | 6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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