2011年06月29日

6月29日の出来事

6月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1575年
長篠の戦い
天正3年5月21日。グレゴリオ暦では7月9日。
織田・徳川連合軍と武田軍が長篠設楽原で戦い、織田・徳川連合軍が勝利しました。
昔から知られているのは、この戦いで織田方は、3千丁の鉄砲を使い、交替しながら間断なく撃ち放つ三段戦法で勝利したというもの。これには最近、多くの問題点が指摘されています。
織田方が大量の鉄砲を動員したのは事実のようで、機動性の悪い鉄砲隊を守るために、陣地を構築したことも判っています。陣地は、川、土塁、馬防柵によって、騎馬隊を遮る構造になっていました。
しかし鉄砲を三段に分けて交代で使用したというのは正確ではないようです。同時代の記録になく、江戸期になって言われるようになったことや、明治期の陸軍がそれを取り上げたことによって流布した説と考えられています。また武田軍が映画やドラマのように騎馬隊だけだったわけでもありません。
当時の記録から、武田軍は柵などで前進を阻まれ、そこを隠れていた鉄砲隊の一斉射撃で甚大な被害を出し、ふたたび突撃しても、同じように撃退されたようです。戦闘が不利になり、武田親族の武将らから撤退していったことが混乱を生み、大敗を喫しました。
武田軍を支えた主だった武将が討ち死にし、武田氏は一気に衰退していくことになります。


1725年
新井白石死去
享保10年5月19日。
新井白石は、上総久留里藩士新井正済の子で、幼い頃より頭脳明晰で知られたといいます。
藩主土屋直樹が改易されたのを機に、大老堀田正俊に仕えますが、彼は評判が悪かった上に稲葉正休に殺害されてしまいます。
堀田家が窮するようになると辞職し、浪人となって学問に励みました。彼の才能は評判が高く、豪商らから婚姻の話があったといいます。木下順庵門下に入ると、順庵の推挙で甲府藩に仕えました。藩主徳川綱豊は、その後、将軍綱吉の後継となり、家宣と名を改め、6代将軍となりました。これにより白石の立場は強化されます。
白石は旗本となりますが、基本的には無役。そこで側用人間部詮房が将軍の命令を取り次いで、白石が政策を考えるという体制ができました。彼が目指したのは財政の変更。荻原重秀が行った貨幣改鋳をもとに戻して金銀の含有率を上げ、長崎における海外貿易を制限し(海舶互市新例)、商品作物を国産化し、勘定吟味役を再設置しました。さらに朝鮮通信使の待遇を簡素化しました。いずれも儒教に基づく商業の抑制と、財政負担を軽くしようとしたものでした。これらは正徳の治と呼ばれています。
しかし、将軍の権威を背景にした政策の実施は、幕閣との間の軋轢を生み、将軍家宣の死で一気に悪化しました。
彼は引退を余儀なくされ、彼が定めた多くの政策は覆され、与えられた千駄ヶ谷の屋敷で暮らすようになります。彼の残した多くの著作物は、実はこの頃、記されたものでした。
彼の経済政策の評価は今でも賛否両論となっています。


1966年
ビートルズが初来日。
イギリス・リヴァプール出身のロックバンド、ビートルズは、同時代はもとより後世にも多大な影響を与えた世界史に名を残すグループです。
当時すでに絶頂期にあったビートルズを日本で公演させようと話は、同年3月に始まり、すぐに決定します。
しかし今でこそ、世界一流のアーチストが来る日本でも、当時はめったにない話。ましてやビートルズですから、国を上げての大騒ぎになります。
機動隊員まで動員した3万5千人の警備体制。気象条件で真夜中に羽田に着いた時からの熱狂的な騒ぎ。警察のパトカーによる先導で移動。東京ヒルトン(のちのキャピトル東京)に宿泊し外出もままならなかったとか。武道館での演奏に反発する人々がデモ行進をしたり、まさに社会的な事件でした。
公演は6月30日〜7月2日。前座では当時有名な国内の歌手やバンドが登場。観客が不平を言ったとか、時間が押したために大慌てで演奏して舞台を降りたとか、いろいろ言われています。
もともと音楽専用ではない上に、当時の音響機器では不十分で、興奮した観客の歓声もあったためか、聞こえない人も多かったといいます。
とにかく最初から終いまで、初めてづくし、異例づくしで、混乱づくしの日本公演でした。
日本独自の文化、サブカルチャーが世界で認められた今では、むしろ海外の大物アーチストが喜んで日本に来るようになり、逆に日本のアーチストやアイドルが海外で人気を博す昨今ですが、このころはまだ、慣れていなかった日本の初々しさも感じられます。もっとも、このあとのフィリピンではビートルズの行動を誤解した民衆が暴動になりかけたり、アメリカでもジョン・レノンのキリスト発言が原因で騒動になるなど、ビートルズの人気の高さ、影響力の大きさは世界的なものでした。


1995年
三豊百貨店崩壊事件
韓国ソウル市瑞草区にあった三豊百貨店は、1989年にオープンした比較的新しい百貨店でした。
しかしこの建物は、もともとオフィスビルとして建設され、親会社の三豊建設が途中で百貨店に方針を変えたために、改装され、見栄えと防火シャッターの設置のために、柱を撤去したり、補足するなどして、もろい構造になっていました。鉄筋もなかったといいます。
その上、屋上に大きな貯水タンクと冷房機、最上階のレストランに床暖房など、上部に重量が来るようにしてしまいます。
崩落前日からひび割れが生じ、徐々に大きくなっていましたが、営業は実施され、調査した建築士も補修で十分と過小評価します。そして午後5時52分、屋上から崩落していき、大勢の客を巻き込んで潰滅しました。地下にいたるまで完全に潰れ、まるでそこだけ更地にしたかのようにビルは消滅しました。
512人が死亡し、5人が行方不明、937人が負傷しました。地震でもガス爆発でもテロでもなく、何も無いのに崩れ落ちて多数の被害者を出すという前代未聞の大惨事でした。
直前の聖水大橋崩落事件などとともに、ずさんな工法が問題になったほか、災難管理法が成立するきっかけとなりました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
ラベル:年表 歴史
posted by あお at 00:04| Comment(0) | 6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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