2011年10月26日

10月26日の出来事

10月26日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

899年
アルフレッド大王死去
ドイツから海を渡ってきたゲルマン系アングロ・サクソン人の築いたイングランド七王国の一つで、サクソン人が興した国ウェセックスの王です。ウェセックスはブリテン島南西部にありました(ウェセックスはウェストサクソンという意味)。アルフレッドは同王だったエゼルウルフの子供で、イギリスで唯一、大王の称号を名乗った君主でもあります。幼い頃にはローマへも赴いて教皇レオ4世に謁見しています。エゼルウルフの5番目の子でしたが、王位を継いだ兄たちが次々と死に、賢人会が彼を王位に就けました。兄たちのもとで部将として活躍していた彼は、即位すると、他の王国を次々と滅ぼしたデーン人と戦い、878年には一旦敗北するも、敵の技術も取り入れて海軍を起こし、最終的にはデーン人を打ち破り、デーン王グスランを養子に迎えるという形の講和(ウェドモーアの和議)で事実上臣下に収めました。七王国で唯一残ったウェセックスは強大な国へと発展。デーン人をデーンロウ地方(ブリテン島の中部東岸)にとどめ、自らの勢力はブリテン島南東部へと広がっていき、886年にはロンドンを手中にし、戦災で荒廃したこの町を復興させました。また、軍事や技術だけでなく文芸復興に努め、法典の整備を行いました。領土も制度も文化も興隆させ、現在のイングランドの原型(※)を築いたことから、イギリスの歴史上の人物の中でも、特に人気が高い一人です。
※イングランド地方全域に初めて君臨したのはエゼルウルフの父エグバート。この時から代々一つの家が王位を継ぐようになり、エグバート、エゼルウルフ、エゼルウルフとエゼルバルドの分割統治、エゼルバルドとエセルベルトの分割統治、エセルベルト、エゼルレッド、アルフレッドとなります。

1909年
伊藤博文暗殺
事件はハルビン駅頭で起こりました。暗殺犯は安重根。両班の出身で李氏朝鮮では貴族に位置する階級でした。そのために農民反乱組織東学党と対立していました。しかし、肝心の李王朝が日本の併合への過程で崩壊していくと、ロシアのウラジオストクで抗日組織「大韓義軍」を起こして活動するようになります。彼は、ハルビンでロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満洲問題を話しあうために訪れた韓国統監の伊藤博文を射殺。ロシアの官憲に逮捕され、日本に引き渡されました。翌年3月26日に死刑執行。取り調べでは、多くの朝鮮問題を伊藤博文一人に押し付けているようなところも見られますが、皮肉なことに、当の伊藤博文は、当時の元勲の中で、日韓併合に最も消極的な人物でした。また、この事件の結果、現在の韓国では伊藤博文を絶対悪とし、安重根を抗日の英雄としてみなしていますが、実は安重根は日本人との交流もあり、伊藤暗殺の理由に、「伊藤博文が明治天皇の父親を殺した」というのも含まれています。安重根の息子、安俊生も日本と交流を持っていました。伊藤暗殺は併合強硬派による陰謀で、安重根は利用された、という説もありますが、それを除いても、伊藤博文、安重根ともに、現代の日本や、特に韓国がもつイメージとはかなり異なる人物であるのは間違いなく、現代政治・外交・ナショナリズムによって塗り替えられた部分がかなりあります。


1947年
カシミール紛争勃発
かつてインドには藩王国と呼ばれる内政国家がありました。これは古くからの封建領主や、ムガル帝国時代の総督などが、イギリスの支配下に置かれたインド帝国時代に、イギリス側と協力関係を結んで成立した自治国です。インド帝国は東は現在のバングラデシュから西はパキスタンにかけての広大な領域を持っていましたが、当然、宗教も混在しており、藩王と領民が異なる宗派ということもよくありました。そんな藩王の一つに、ジャンムー・カシミール藩王という人物がいました。インド帝国の北部、ヒマラヤとカラコルムの両山脈に囲まれた広大な地域を治める藩王国です。藩王はヒンズー教徒、領民の8割はイスラム教徒でした。1947年8月、インド帝国は瓦解して独立が決まると、多民族・多宗教国家のインドと、イスラム国家のパキスタンが分離。カシミール藩王は当初独立国家を目指しましたが、パキスタンから民兵が多数侵入してきたことから、インドへの編入と救援を求めます。これを受け27日にはインド軍が侵攻し第一次印パ戦争が勃発しました。カシミール地方は、6割ほどがインド領となり、残りの大半はパキスタン、そして中印国境紛争と、パキスタンからの割譲で、ラダック地方の一部は中国が支配しています。


1955年
ベトナム共和国(南ベトナム)が成立
ベトナム共和国の前身は、1949年に誕生したベトナム国。元首は阮朝(グエン朝)ベトナム帝国の元皇帝バオ・ダイで、フランスが植民地の体裁を変えた傀儡国家でした。これは共産主義勢力ベトナム独立同盟(いわゆるベトミン。国家としてはベトナム民主共和国)を率いたホー・チ・ミンに対抗するために作られ、反共主義者や、資本家、地主などの支持を得ていました。当然、親仏政権となります。しかしフランスがベトミンとの戦争で劣勢になると、厭戦気分が広がり、1954年7月21日、ジュネーブ協定により、フランスは撤退。北緯17度で南北は分断成立することになり、北部にはベトナム民主共和国が実効支配を取り戻し、南部は、バオ・ダイに代わって首相であったゴ・ディン・ジエムが国民投票で大統領に就任し、ベトナム共和国が誕生しました。同国は親米政権で、フランスに代わり、アメリカがベトナムの共産化を食い止めるために、軍事介入してくることになります。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:01| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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