2011年10月29日

10月29日の出来事

10月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1695年
中野犬屋敷の完成(元禄8年10月29日:グレゴリオ暦1695年12月5日)
もしかすると、日本史上最も広大だった「犬小屋」かもしれないのが、中野犬屋敷。中野御用屋舗、中野御囲とも呼ばれました。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、なかなか得られない世継ぎを欲するあまり、僧の隆光の話に乗った母親、桂昌院の「前世で犬を殺した罰だから、犬を大事にせよ」の言葉に従って生類憐れみの令を出しました。犬だけでなく生き物を殺したものは次々と罰せられますが、さらに野良犬を飼育する施設を、住民を移転させて牛込若松町や四谷大木戸などに作りました。2万坪以上もあったという犬屋敷ですが、江戸には野犬も相当いたのか(一説には10万匹)、瞬く間にいっぱいになってしまい、新たに中野に建設してそこへ移すことになります。20万両を投じ、その広さ、16万坪(最終的には30万坪=100万平方m)に達したといいます。現在のJR中野駅の東方、旧公会堂(現なかのZERO)付近から、西は高円寺駅付近までの、中央線を挟んだ南北に広がるエリアに、5つの囲い場を作り、大きな犬小屋290、日除け場295、子犬養育所459があったとか。それでも入りきれず、周辺一帯の農家にも飼育させたといいます。元禄飢饉で人が人を喰うような事態になっているさなかに、犬の食費は年間9万8千両もあったとか。あまりにも馬鹿馬鹿しい政策の一つといえるでしょう。
ただ、生類憐れみの令自体は、殺生を禁じる仏教の影響で、奈良時代ころから何度も出されています。また、横行する野犬を捕まえて、安全や衛生を保とうとした、という説や、法令が厳しかったのは江戸周辺だけで、地方では無視されていた、ともいわれています。


1890年
凌雲閣が竣工
通称、浅草十二階、と呼ばれたこの建物は、浅草に作られたウィリアム・K・バルトン設計による、日本初の高層ビルディングでした。当時、一部のオフィス街などを除いて、平屋か2階程度の建物がほとんどという時代、12階建て、高さ173尺(約52m)は極端に高い建物でした。10階までがレンガ造りで、そのうえに木造の2階建ての塔が乗っかっている構造でした。10階から上が展望室。非常に景色が良かったそうです。11月11日に開業し、当初はものすごいお客さんで賑わったとか。
しかし、いつしか人気も衰えていきます。そして関東大震災で8階から上が崩壊。展望室にいた十数名のお客さんらの内、1名を除き全員が死亡しました。再建が不可能だったことから、陸軍工兵隊によって爆破解体されます。地震の揺れもさることながら、当初設計にはなかったエレベーターが完成時に設置されたことから、強度の限界を超えてしまっていたことが原因と言われています。実は日本では1919年以来、長いこと、100尺(31m)以上のビルを建設してはいけない、という百尺規制(市街地建築物法、建築基準法)がかけられました。凌雲閣の崩壊は、それ見たことかという結果となり、百尺規制は継続し、戦前の「丸ビル」や戦後すぐの「鉄鋼ビル」など大型のオフィスビルはすべて横に大きく作られ、百尺のビルが並ぶ結果となりました(※)。1962年7月16日に規制が緩和され、はじめて作られたのが、1968年完成の日本初の超高層ビル「霞が関ビル」になるわけです。
※現在も残る戦前から戦後の高度成長期にかけてのビルや、超高層化した現在の丸ビルの張り出している「低層階部分」がおおよそ百尺にあたります。オフィス街の古いビルが皆同じ高さなのはこのため。


1918年
ドイツ革命がはじまる
第一次世界大戦の末期、ドイツ海軍のラインハルト・シェアや、後任のフランツ・フォン・ヒッパーら司令官は、最後の反撃とばかりに、イギリス海軍の主力「本国艦隊」への特攻作戦を立案。ドイツ太洋艦隊(ホーホゼーフロッテ)へ、出撃を命じます。しかし艦隊が停泊していたヴィルヘルムスハーフェン港では、命令を聞いた水兵たちが、これを拒否、反乱を起こします。艦隊は運用が出来ずに出撃を断念。さらにキール港の水兵らが労働者らと共に一大デモを起こしたため、これがのちに大戦の終結と皇帝の退位にまで発展する「ドイツ革命」のきっかけとなりました。反乱はバイエルンやミュンヘン、ベルリンでも起こり、ドイツ帝国は崩壊していきます。革命の結果、ヴァイマル共和国が成立することになります。また一方で、この革命騒動は、社会主義的な要素が強く、それがのちのちまで尾を引く事になり、ナチス設立・台頭への萌芽ともなりました。
きっかけとなった太洋艦隊ですが、休戦協定後のイギリスへの艦船の引渡しを拒み、イギリス海軍の泊地スカパ・フローで53隻が自沈するという「スカパ・フロー事件」を引き起こしています。


1969年
ARPANETによるコンピュータネットワークの形成
インターネットはいまや世界中に普及しています。スマートフォンの普及で場所が限定されなくなり、教育用の廉価端末は、途上国のネット化をすすめることになりました。フェイスブックは各地の民衆革命にも利用されています。そんなインターネットの元祖、あるいは大本となったのが、ARPANETと呼ばれるコンピュータネットワークでした。
アメリカ国防総省の国防高等研究計画局 (DARPA)が計画し主導して開発を行った複数のコンピュータをつなぐ通信システムで、その概念は、DARPAの研究部門IPTO(情報処理技術室)の部長だった情報工学研究者J・C・R・リックライダーが構想したものでした。これとは別に、空軍で研究をしていた情報工学研究者ポール・バランが、核戦争による攻撃で通信網が部分的に破壊されても、通信を維持できる方法を研究しており、さらに、イギリス国立物理学研究所のドナルド・デービスが同様の考えからデータを小分けして送信するパケット通信を研究していました。このデービスの研究とARPANETは融合し、インターネットへと発展していきます。インターネットが核戦争下の通信研究から生まれたという都市伝説(?)はこのあたりにあるようです。
最初につながったのは、UCLA、UCサンタバーバラ、スタンフォード研究所、ユタ大学、の4箇所のコンピュータでした。現在の通信規約であるTCP/IPプロトコルの導入も、国防総省による方針で、米軍の軍用ネットワークもこれに準じていました。GPS同様、インターネットも軍事技術が大きく関与していたわけです。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:53| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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