2011年10月30日

10月30日の出来事

10月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1863年
芹沢鴨ら粛清事件(文久3年9月18日)
新選組の局長だった芹沢鴨と副長助勤の平山五郎が、間借りしていた壬生の八木家で、土方歳三、沖田総司らに襲撃され暗殺された事件です。
直接の原因は、芹沢鴨が揚屋の「角屋」で大暴れをしたほか、「吉田屋」の芸妓に言い寄って断られ芸妓の髪を切るという事件を起こしたことです。これ以外にも乱暴狼藉が多かったことから、これが朝廷に伝わり、逮捕令が出るに至ります。そこで近藤らは芹沢一派の粛清を決意。この日、角屋で宴会を催した後、八木家へ戻った芹沢、平山、芹沢の家臣筋であった平間重助(当時新選組の会計係)が、愛人や芸妓らと同衾したところを襲撃しました。平山は惨殺。芹沢は気づいて応戦しようとするも間に合わず殺されました。芹沢の愛人だったお梅も殺害されています。この他に、芹沢派の副局長だった新見錦も数日前に切腹に追い込まれています(※)。
平間は別の部屋にいたため難を逃れ水戸へ逃亡。平山・平間と同衾していた芸妓も逃げのびました。
芹沢が乱暴狼藉を働いていたのは事実ですが、暗殺の背景には、尊皇攘夷の思想を持つ芹沢ら水戸派を排除しようとした、という説もあります。
※水戸派の新見錦の切腹は日付や場所、背景となった動機が諸説あり、乱暴狼藉を働いた、職務怠慢だった、薩長と尊皇攘夷を進めていたといった説もあります。


1890年
教育勅語の発布
戦前、道徳教育の基本とされたのが「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」です。明治天皇が国民に語りかけるような形式でまとめられたもので、内容は道徳的モラルを示したものです。開国と維新を経て伝統的なモラルが失われる中、西洋のキリスト教的価値観による道徳や、江戸時代までの儒教に基づく道徳は、近代化が進む日本では、そのまま導入することは問題であると考えられていました。西洋化によって日本の良き伝統が失われることは、明治天皇が懸念していたこともあり、新たに「徳育涵養」のために考えられ、まとめられて教育勅語発布につながったわけです。1910〜30年代には、学校に奉安殿と呼ばれる建物を作り、そこに御真影(天皇・皇后の写真)と共に収められ、四大節「天長節(天皇誕生日)・明治節(明治天皇誕生日)・四方節(元日)・紀元節(神武天皇即位日)」には校長が生徒を並べて読み上げていました。暗記している人も多かったと言われます。終戦後に衆議院と新たに設置された参議院の議決によって廃止されました。


1938年
『宇宙戦争』パニック事件
この日、アメリカのラジオ番組Mercury Theatre on the Airのハロウィン特別番組として、『宇宙戦争』が放送されました。原作はSFの祖、H・G・ウェルズの侵略SF小説『宇宙戦争(The War of the Worlds)』。イギリスを舞台に地球侵略を始めた火星人との戦争と混乱を描いたものですが、これをアメリカに舞台を変えて放送したわけです。ところが、リアリティを出すため、いきなり臨時ニュースで宇宙からの侵略が始まったことを伝える風なスタートをきったことから、本当の事件と勘違いした人々100万人がパニックを起こしました。フィクション・ドラマであることは、前後、途中で何度か明らかにしているのですが、信じた人が多かったわけです。演出は名優オーソン・ウェルズで、見事に意図があたった番組でした。このパニックは新聞が報道したことで有名なため、新聞が大げさに報じただけで、実際には問い合わせが殺到しただけ、という説もあります。中途半端な宇宙科学、戦争に向かう情勢への不安、新メディアのラジオ放送の影響、架空実況という実験的な手法が合わさって起こった出来事でした。
『宇宙戦争』は何度も映画化されていますが、1975年にはこのパニック事件の方をネタにした映画『アメリカを震撼させた夜(The Night That Panicked America)』も制作されています。


1961年
史上最大の水爆ツァーリ・ボンバ実験
RDS−220と呼ばれた核実験が、ソビエトの北極海に浮かぶ島ノヴァヤゼムリャ核実験場Zone C (Sukhoy Nos) で実施されました。出力は50MT。かつては情報が曖昧で、西側の状況観測から57Mtと考えられていました。プルトニウム原爆による核分裂エネルギーで重水素核融合を起こし、発生する中性子線で外殻のウランを核分裂させるという多段階式の3F爆弾で、ソ連は当初100MT級も計画したと言われていますが、深刻な放射性物質汚染を引き起こす可能性から、中性子線を抑える鉛を使用し、出力を落として実験を行いました。それでも圧倒的に史上最大の出力を誇る水素爆弾でした。その威力は第二次世界大戦で使われたすべての弾薬・爆薬の総量(2発の原爆を含む。約2MT)をはるかに超える力を一発で持っていました。
爆弾そのものが巨大すぎて、当時ソ連最大の爆撃機Tu−95に入りきらず、下にはみ出していました。重量と威力が大きすぎるため、落下傘をつけてゆっくり降下させ、その間に爆撃機は安全圏(爆心地から45km)まで退避しました。高さ60kmまで上ったキノコ雲は、1000km離れても観測できたとか。
巨大な水爆というのは、偵察技術、精密技術が乏しかった時代、核爆弾が攻撃目標から少々外れても、巨大な破壊力で付近の広範囲もろとも吹き飛ばす、という発想から来ました。しかしアピールと言う意味では効果的でしたが、爆撃機ですらまともに搭載できないこの爆弾は、実戦に使用するような意味では、あまり実用的な兵器とは言えませんでした。その後、精密技術の発達で大型水爆は減っていきます。
ツァーリ・ボンバという名は西側のコードネームで、「爆弾の皇帝」という意味。ソビエトでは「イワン」と呼ばれていましたが、現在では一般的にツァーリ・ボンバが通称となっています。


以上の項目は、総合年表サイトの年表に追加していきます。
posted by あお at 00:10| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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