2011年12月27日

12月27日の出来事

12月27日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

694年
藤原京に遷都(持統天皇8年12月6日)
持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に移り、事実上の遷都となりました。
藤原京は、日本史上最初の都城。唐の都市を真似て条坊制が布かれた設計となっています。
676年ころから計画が始まり、694年に飛鳥浄御原宮から遷都しましたが、完成したのはさらに10年後の704年。
名称は正式には「新益京」(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)といい、藤原宮が置かれていました。藤原宮の宮殿建築は瓦を葺き、中国風だったと言われます。
平城京や平安京に比べると地味なイメージがありますが、実は大きさで言えば、その両京を凌ぐ日本史上最大の都城です。5.3キロ(10里)四方で少なくとも25平方キロあり、内部に大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を含んでいました。従来の認識よりはるかに巨大だったことから、「大藤原京」と呼ばれています。
しかし首都だったのは710年に平城京に遷都するまでのたった16年間でした。
特徴的なのは宮殿である藤原宮が都の中央にあること。平城京や平安京は宮殿は都の北辺にあります。
これは藤原京が周礼に基づいて設計されたのに対し、平城京や平安京は、中国北朝(隋や唐)の様式を採用した為です。唐に則天武后(武則天)が即位し、周礼に基づいた国(武周)を興した影響と言われています。
藤原宮の周囲には塀が張り巡らされていましたが、都全体を囲む城壁はなかったようです。


1922年
世界初の航空母艦「鳳翔」が竣工
世界初というのは、航空母艦として計画され、設計された艦として、完成したのが世界初ということになります。というのは、商船などを改装した改造空母はそれより前から存在していることと、水上機母艦という艦種がすでに存在している為です。ちなみに起工したのはイギリスのハーミーズが先で、改造空母まで含めると、イギリスのフューリアスが世界初の空母ということになります。水上機母艦ではフランスのフードルが世界初。日本では若宮という水上機母艦が最初となります。
建造は浅野造船鶴見造船所、艤装は横須賀海軍工廠。艦名は当初「竜飛」でしたが、「鳳翔」に改められました。
完成時には小型の艦橋と煙突が右舷にあり、いわゆるアイランド式と呼ばれるもので、現在まで続く空母の基本構造です。煙突は3本で、横に倒すことが出来ました。のち、艦橋は撤去されており、煙突も倒した状態で固定しています。これは艦体が小さく、航空運用上の障害になったため。煙突が横に倒れている構造は、その後の日本の大型空母でも採用されています。
小型であったのは、建造時の航空機が、まだ複葉の小型機の時代だったため。逆に言えば、そんな時代に空母を作ったところは先進的だったとも言えます。しかし、のちに登場した比較的大型の艦上戦闘機や艦上爆撃機では小さすぎました。常用15機、補用6機とすくなく、そのため、太平洋戦争中は、ほとんど活躍の場がなく、ミッドウェー海戦後、練習空母として内地にいました。
皮肉にもそのため、終戦時に生き残りました。最初の空母が最後まで生き延びたわけです。
終戦後、輸送艦として外地の兵士を日本に運ぶ復員船として南方との間を9往復し、4万人の兵士と民間人を輸送しました。1947年5月1日に解体終了。解体した日立造船桜島造船所は、最後に完成した空母「葛城」の解体も行なっています。
なお、完成時には、空母がほとんど存在しなかった時代。パイロットの離発着の技術も乏しいわけで、1923年には着艦に賞金を付けて募集し、2月22日イギリス人のジョルダンが成功して、1万5千円を獲得。日本人は3月5日に吉良俊一大尉が成功。完成してから着艦できるか試みるなど、いかにも「初めて」らしい話です。


1923年
虎ノ門事件
摂政皇太子が自動車で移動中に虎ノ門で難波大助に狙撃された事件です。
難波大助の父親、難波作之進はのちに衆議院議員となった人物であり、彼の実家は山口県の名家でした。
父親は皇室を崇拝していましたが、中学5年の時に、故郷に帰還した田中義一大将を出迎えるために沿道に並ばされたことがきっかけで、世の中のあり方に疑問をもつようになります。彼は上京した後、都市部貧民層の暮らしを目の当たりにし、社会主義運動の弾圧に憤慨するようになりました。労働運動で改善しようと考えるも、関東大震災で起こった甘粕事件や亀戸事件などの非道な事件を目の当たりにし、革命への衝撃を与えるために、皇族殺害を考えます。対象は皇太子でした。後の供述から、皇室に対する憎悪はなく、皇太子に対しても恨みはなかったといいます。皇室の存在も否定はしていません。横暴だった父親への反感が、父の崇拝する皇室を狙う動機になったとも言います。彼は、父親の手ほどきで覚えた銃を使うことを決め、かつて伊藤博文が持っていたというステッキ銃を使い、第48帝国議会の開院式に向かっていた皇太子の乗る自動車を虎ノ門で撃ちました。車の窓が割れ、入江侍従長が負傷するも、皇太子は無事でした。彼は逃走を図ろうとしますが、周囲の群衆の怒りを招き、暴行を受けます。警察が彼を救出しなければならないほどでした。
大審院は、大逆罪が死刑しかないことから、皇室の温情を見せるためにも、難波に反省させた後に死刑を言い渡し、皇太子の恩赦で死一等を減刑するという方針にしますが、難波は皇室に対する恨みは見せなかったものの、自らの主張を改めませんでした。そのため死刑は執行されました。難波の父は閉門蟄居して絶食し自殺。
山本権兵衛内閣総理大臣は辞表を提出し、皇太子が慰留したものの、総辞職。湯浅倉平警視総監、警備担当の正力松太郎警視庁警務部長が懲戒免官。出身の山口県知事が減給になり、出身小学校の校長が辞職するなど、各地に波紋が広がりました。
死亡した難波作之進の地盤は、松岡洋右に受け継がれ、岸信介、佐藤栄作にも受け継がれており、この事件は、直接的な結果だけでなく、その後の昭和史にも間接的に大きな意味を持つことになります。


1946年
第1次吉田内閣が傾斜生産方式を決定
傾斜生産方式とは、特定の分野に集中して物資を充当するなどして、その発展を促し、その結果として全体的な経済回復を図るもの。物資が不足しているときなどに行われるやり方です。
吉田内閣が行ったのは、石炭と鉄鋼を重点に化学肥料、電力などに特化した傾斜生産方式でした。戦争の荒廃とインフレにより、物資が不足していたため、全体的な復興を図るよりも、日本国内で産出する石炭や生産を行える化学肥料、復興に重要な鉄鋼や電力を優先したわけです。そうすることで他の分野への経済的効果も狙っていました。発案は吉田茂のブレーンだった有沢広巳。GHQがこれを認めたのは、戦争賠償で日本の産業施設を接収するよりも、ソ連などの共産主義勢力に対抗するために日本の復興を急いだほうが良いという判断があったためとも言われています。
この政策のために、復興金融金庫を創設し、傾斜生産分野の企業に融資。食糧や衣類、嗜好品も優先的に配給され、炭鉱などでは従業員の住宅が優先的に建設されました。
吉田内閣に続き、社会党政権の片山内閣、社会党を含む連立の芦田内閣も継続して行っています。
なお、芦田内閣を崩壊に追い込んだ昭和電工事件は、この復興金融金庫の優先的な融資を求めて起こった汚職事件です。
石炭の採掘量が回復し、鉱工業生産も順調に増えて、一定の目標達成と復興効果をもたらしましたが、過剰な資金投入で通貨供給量が増え、インフレを引き起こしました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:12| Comment(0) | 12月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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