2011年12月28日

12月28日の出来事

12月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1322年
後醍醐天皇の親政(元亨元年12月28日・ユリウス暦1322年1月16日)
後醍醐天皇は大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子。当時、皇位は鎌倉幕府の裁定により持明院統と大覚寺統が交互に就くこと(両統迭立という)になっており、持明院統の花園天皇の皇太子となりました。また院政を敷いた父親の意向で、兄の後二条天皇の子である邦良親王が成人するまでの中継ぎでした。この立場と、それを認めた鎌倉幕府への不満が、のちの倒幕につながったとも言われます。
1321年、後宇多法皇は院政を停止し、後醍醐天皇が親政を始めます。邦良親王への譲位は確実なものとされていた時期に、それを推進していた法皇のこの方針は謎とされています。大覚寺統の後宇多法皇が、両統迭立によって持明院統への譲位が行われることを嫌い、あえて後醍醐天皇の皇位を延命させて、邦良親王への皇位継承を確実なものにしようとしたとも考えられます。あるいは後醍醐天皇の意思が働いたのかもしれません。
これによって、歴史は大きく変わっていくことになります。後醍醐天皇はよりにもよって倒幕を画策。これは正中の変で失敗しますが、懲りずに幕府滅亡の調伏を行うなど過激に行動したため、皇族や公家の間でも忌避されるようになり、退位の圧力が高まると、ついに挙兵。元弘の乱を引き起こして敗北し、廃位された上、逮捕後、隠岐の島へ流刑に処されました。皮肉にも、この結果、皇位は持明院統の光厳天皇へと移ります。しかし後醍醐天皇はまたも懲りずに隠岐を脱出。しかも情勢は一変。鎌倉幕府に見切りをつけた御家人の足利高氏や新田義貞が反乱。北条氏は滅ぼされ、あっけなく幕府は倒れ、建武の新政が始まることになります。


1895年
世界初の映画の商業公開
パリでリュミエール兄弟が世界初の映画であるシネマトグラフを初めて商業公開。
シネマトグラフは撮影機であり映写機でもある初期のカメラ。
1890年代にリュミエール兄弟が発明したとも、レオン・ボウリーが発明したとも言われていますが、一般的にはオーギュストとルイのリュミエール兄弟が特許を持ち、映画の商業公開にも乗り出したことで知られています。兄弟は写真機械の製造を行なっており、エジソンが1891年に発明した「キネトスコープ」をヒントに、スクリーンに映写する方法を考え、開発を行いました(キネトスコープは箱の中で映像が流れるのを覗き見るという方式)。
その最初の映画公開は、1895年9月28日にフランスのラ・シオタにある映画館ル・エデンで公開され、同年12月28日にパリで最初の商業公開が行われました。キネトスコープがひとりひとり箱を覗き込んで見なければならないのに対し、シネマトグラフは多人数で同時に見ることが可能なため、商業的に当たりました。リュミエールは世界中に人を派遣し、各地の風俗や文化を撮影して回りました。日本の映像も残されています。彼らはまもなく権利を売って映画から手を引き、今度は実用的なカラー写真の開発に成功しました。


1925年
大日本大相撲協会設立
一般に国技と称されているプロ相撲の競技を行なっている団体が、日本相撲協会。
この日本相撲協会の前身が、大日本相撲協会です。相撲は歴史が古く、古代から神事としての行事や、源頼朝や織田信長が率先して行わせたように、しばしば武将らの力比べとして行われました。しかし、今で言うところの職業相撲は、江戸時代が最初です。歴史的な権力者による上覧相撲の系統を受けつつ、幕府が認可した寺院の勧進相撲にはじまり、興行相撲へと発展。階級などの現在の相撲の原型が出来ました。明治に入ると、江戸時代に興行が行なわれていた東京と大阪でそれぞれに協会が設立されました。両者はライバル関係にあり、別々に興行を行っており、国技館もそれぞれに存在していました(※)。
そのうち、東京大角力協会が財団法人に改組し、大日本相撲協会となったわけですが、そのきっかけは、当時の皇太子(昭和天皇)が相撲を観覧。その際に奨励金を下賜したため、それをもとに「摂政宮賜杯」(現在の天皇賜杯)を作ることにしたわけですが、皇室の菊花紋章を入れた賜杯を使うためには、興行団体ではなく、正式な法人とすべきだということで、設立しました。
また、この摂政宮賜杯を東京だけで行うのは良くないということで、大阪相撲協会も統合されてひとつの団体となりました(大阪相撲が衰退していたのも理由の一つ)。
相撲はたびたび「伝統ある」という言葉が付きますが、現在の相撲は江戸時代からの興行を背景にしているため、いわゆる神事としての相撲とはやや意味が異なります。
※大阪国技館は2つあり、大正8年建設のものは後に映画館となり戦災で焼失。昭和13年の巨大な国技館は米軍が接収後に解体されました。


1986年
山陰線余部鉄橋列車転落事故
事故が起こった当時の余部鉄橋は、11基の橋脚、23連の橋桁の鋼製トレッスル橋(縦横の鋼材を組んだ三角形の橋脚を持つ橋で古い時代に多い)。長さ310.59mで、そのほとんどの高さが41.45 mもあり、鋼材の巨大な橋脚が並ぶ壮観な姿で、鉄道ファンだけでなく観光地として知られていました。この構造になったのは、海岸まで尾根がいくつも迫った場所で、尾根と尾根の間隔が狭い上に標高差が激しく、内陸側に迂回して山に長いトンネルを通すか、直線にして尾根と尾根を結ぶ長い橋を架けるかで分かれますが、橋を作ることになりました。迂回してトンネルを掘るほうが技術が大変だったためです。しかし高い場所に長い橋を架けること自体困難で、1909年12月16日に着工し、1912年1月13日に完成しました。
1986年12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ機関車に引かれた回送中の客車とお座敷列車「みやび」の車両が風速約33mに達する突風にあおられ、客車車両が台車から外れて落下。橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を押しつぶしました。回送列車で乗客はいなかったが、車掌と下敷きになった工場の従業員5名が死亡。客車内の車内販売員3名と工場の従業員3名が重傷を負いました。風速計と警報装置がついていましたが、一部故障していた上に、25m以上の風速警報が出ていたのに、列車を止めようとしなかったのが原因でした。
この鉄橋は、以前から様々な落下物があり、橋下の住民たちは、改築を望んでいました。この大事故は橋を掛け替える動きを加速させることになりました。一方で、貴重な産業文化遺産(近代土木遺産のAランク)となっていた余部鉄橋の建て替えには、反対意見も多く出ました。しかしやはり事故による多数の死傷者を出したことが大きく、老朽化の問題もあって、建て替えられることになりました。この種の問題は、他の近代文化財にもしばしば見られ、近代文化財が失われる要因の一つにもなっています。
なお、解体した鋼材は幾つかに分けて保存されることになっています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:13| Comment(0) | 12月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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