2011年12月30日

12月30日の出来事

12月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

643年
山背大兄王が滅ぼされる(皇極天皇2年11月11日)
彼は、聖徳太子(厩戸皇子)と刀自古郎女の子で、有力な皇族でした。
推古天皇が崩御した時、後継者を定めていなかったために、皇位を誰にするかで問題になります。
有力だったのは、推古天皇が死の直前に病床に呼んだという二人。すなわち用明天皇の孫で厩戸皇子の子である山背大兄王と、敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の子である田村皇子でした。それぞれを支持する動きがあり、権力を握っていた蘇我蝦夷は、田村皇子を選びました。山背大兄王が若すぎることを推古帝が言っていたため、後継に考えていたのは田村だろうと選んだとも考えられますが、山背大兄王は蘇我氏の縁戚であるのに対し、田村皇子は非蘇我系であり、有力豪族の多くは田村皇子を支持していたとも言われ、反蘇我氏勢力との対立を抑えるための措置とも考えられます。山背大兄王を支持した境部摩理勢(蘇我馬子の弟)は反発して抵抗、殺害されました。
その後、蝦夷と蘇我入鹿は、舒明天皇の次として、押坂彦人大兄皇子の娘を即位させました(皇極天皇)。絶対権力を握った入鹿や有力皇族らは、古人大兄皇子を擁立しようとします。蘇我馬子の娘の子であるため、擁立しやすかったわけです。邪魔な山背大兄王を排除することを決め、皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳らと100名の兵で斑鳩宮を襲撃。山背大兄王は家族と共に逃亡。しかし逃れられぬと悟った王は斑鳩寺に入り、一族もろとも自殺しました。蝦夷はこの事件を聞き、入鹿の所業に激怒したと言われます。
当時の皇位は必ずしもルールが定まっておらず、また、蘇我系でありながら、蘇我本宗家の支援を得られなかったため、山背大兄王と対立する皇族や豪族が多かったという説もあります。


1927年
日本初の地下鉄開業
東京地下鉄道・浅草駅〜上野駅間が開業。現在の東京地下鉄銀座線の一部にあたります。日本初の地下鉄で、アジア、オセアニアでも初でした。
国家事業ではなく、早川徳次によって建設されました。彼は満鉄や東武鉄道に関わったことから、鉄道輸送力の必要性を感じており、ロンドンで地下鉄を見て東京に地下鉄をつくる計画をたてます。しかし国家は全く理解を示さなかったため、産業界を回り支援を求めますが、かねてより知己のある後藤新平など一部の理解だけで、建設に取り組みました。当初は浅草から上野を経由して新橋までの予定でしたが、関東大震災の影響、資金不足、神田川の横断の難しさなどで新橋までの建設は遅れました(神田川側に万世橋駅という仮の駅があった)。資金を得るために上野広小路(松坂屋)、三越前(三越)、日本橋(高島屋・白木屋)、京橋(明治屋)、銀座(松屋)では各デパートが資金を出して駅を作りました。
その後、東京高速鉄道による新橋−渋谷間が建設。別の会社・別の路線でしたが、国の指導で帝都高速度交通営団に統合され、現在の銀座線となりました。このため、新橋駅には使われなくなった東京高速鉄道の駅が存在します。なお早川は新橋から品川方面へ延長するつもりだったとか。
銀座線は、線路幅が標準軌(1435mm。関東のJRや私鉄の軌間より広い)で、第三軌条集電方式(電線ではなくレールの他に給電用レールがある)を採用しており、他社路線との直通運転ができないため、独立した路線となっています(戦前に計画され1954年に部分開業した丸ノ内線も同様)。また銀座線は建設費を抑えるため、トンネルが小さく、車両も小型であり、ホームの有効長も短いために、輸送力も他の路線に比べてやや小規模です。
一番最初に作られた地下鉄であるが故に、試行錯誤の部分が大きく、現在のような大交通時代を予測出来なかったのは無理も無いでしょう。それでも2両や3両編成が主の当時としてはありえない6両編成を想定していました。
古い路線であるため、一部の駅では上下ホームの連絡通路がなく、渋谷川の谷間にある渋谷駅には3階に入線しており、その高架は建設当時のものが残っています。
新型の1000系電車は、一番最初の1000形電車を模したデザインやホーンとなっています。


1944年
日本海軍の潜水艦「伊号第四〇〇潜水艦」が竣工
潜水空母と呼ばれる日本海軍の大型潜水艦伊号第四○○(四百)級潜水艦で最初に建造されました。
長大な航続距離を誇り、攻撃機を複数搭載できる潜水艦、という発想で計画されたもので、アメリカの西海岸、パナマ運河などを攻撃できるようにするためだったと言われ、考案したのは山本五十六という説もあります。
当時としては極端なほど大きい潜水艦でした。全長は122m。大型潜水艦でも水中基準排水量が2500tから3500tくらいだったのに対し、本艦は6560tもありました。重巡洋艦クラスです。航続距離も地球一周半(37,500海里:1海里=約1853m)といわれ、世界のどこへでも出撃可能でした。
専用の攻撃機「晴嵐」を3機搭載。強力な四式一号一〇型カタパルトで発射しました。晴嵐は水上機なので正確には水上機母艦ですが、一般には潜水空母と呼ばれています(晴嵐はフロートを外して運用することができ、最大800kg爆弾も搭載できました。もちろんフロートを外した場合は帰還収容は不可能なのでパイロットだけ回収します)。晴嵐はピンを外すと主翼が回転して後ろにたたむことができ、格納筒に収めることが可能でした。
せっかくの艦でしたが、活躍の場はありませんでした。すで制海権を失い、晴嵐の工場も空襲で破壊され、細菌兵器計画は人道的にまずいと梅津美治郎が反対したため、晴嵐を使用した特攻機によるウルシー泊地攻撃に向かう途上で終戦。帰投中の8月29日に米軍に発見され降服しました。あまりにも巨大な潜水艦に米軍も驚いたといいます。
1946年6月4日、米軍によって各種実験を終えた同艦は海没処分にされました。
晴嵐2機を搭載できる四〇〇を一回り小型にした伊十三型潜水艦というのも2隻建造され、1隻が戦没しています。
なお、晴嵐は製作した愛知航空機に残されていたものが接収され、スミソニアン博物館にあります。


2001年
M−1グランプリ第1回決勝戦
島田紳助が、漫才でデビューし、ここまで上がってこれたことへの恩返しとして、さらに番組で共演した松本人志と、単純に面白いやつを決めるコンテストをしたい、というアイデアから生まれたのが、漫才日本一を決めるグランプリ、M−1でした。
主催は吉本興業、特別協賛がオートバックスセブン。朝日放送制作でテレビ朝日系列で放映。
結成10年目(11年未満)までのコンビ、グループを対象としています(出場時のコンビ名で10年目までなので、実質11年以上のコンビやグループも出場しています)。プロやアマチュアは関係ありません。
優勝者はオートバックスのCMに出演(※)出来るだけでなく、多くの番組の出演依頼が殺到するため、芸能界での登竜門的な大会となりました。1回目の優勝者は中川家、2回目はますだおかだと、ややベテランでしたが、以降は若手が上位に登場し、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、サンドウィッチマンなどがブレイクしました。優勝者だけでなく、上位に残ったコンビ・グループも名を知られるため、南海キャンディーズやオードリーがブレイクするきっかけとなっています。そのため、多くの若手が挑戦しました。
2010年の第10回で一応の終了となりました。最後の優勝者は第2回以降、毎回上位に残っていた笑い飯でした。
その後、島田紳助が暴力団との交際を理由に芸能界引退に追い込まれていますが、後継番組としてフジテレビ系列の「THE MANZAI」(80年代の漫才ブームを作った番組のリメイク)と、朝日放送の「KAMIWAZA〜神芸〜」があります。
※第9回優勝者のパンクブーブーだけは、すぐにCMが作られず、そのコンビ名からか、と言われました(オートバックスはカー用品店)。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:44| Comment(1) | 12月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
まだそこにハマってるの?って今鼻で笑ったそこの君!!ばかにしたらいけないよ!W大晦日の夜何かが始まるんだって!何が始まるんだろ?ワクワクだよね
Posted by モバゲー at 2011年12月30日 07:31
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