2011年12月31日

12月31日の出来事

12月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1225年
ベトナム陳朝の始まり(天彰有道2年12月1日)
ベトナムにはもともと南越国というのがありましたが、中国に滅ぼされ、以降は事実上安南都護府の支配下にありました。939年、五代十国の混乱を受けて、呉権によって呉王朝が誕生します。これが最初に中国から独立した王朝と言われています。しかし事実上の宗主国は中国南部の王朝、南漢でした。呉王朝は短命に終わり、群雄割拠の十二使君の乱を経て、966年に丁部領が大瞿越国を興し、丁王朝が始まります。独自の都を築き、元号を制定するなどした最初の王朝でした。しかしこれも短命に終わり、980年、丁朝の有力者だった黎桓が国権を掌握して前黎朝を樹立しました。一旦は現在のベトナム全土を抑えますが、これも暴政を敷き、1009年にあっけなく滅びます。前黎朝を倒した李公蘊によって李朝が誕生。大越国となります。李朝は中国風の文化・体制を敷き、王は中国の冊封を受け、仏教を興隆させ、長期に渡る政権を樹立した最初の王朝でした。この7代皇帝高宗と、8代恵宗は暗愚な人物で、重税を敷き、国民の反感を招きます。圧政、政治の腐敗、天災によって人々は疲弊。各地で反乱が起こっていました。その内乱を鎮圧したのが陳嗣慶、陳守度ら陳氏。陳守度は恵宗に自分の娘を嫁がせ、外戚の地位に付きました。彼は権力を一手にすると恵宗を廃位に追い込みます(のち自殺させ、他の李氏も次々と殺害)。そして恵宗の次女の仏金(李昭皇)を皇帝に擁立しました。彼女がベトナムの歴史で唯一の女帝です。陳守度は彼女を甥の太宗と結婚させ、1225年、強制的に太宗へ禅譲させて、李朝は滅亡、陳王朝が誕生しました。外戚から帝位を奪ったためか、陳朝の皇族は代々、異例の「いとこ婚」を繰り返しています。
この皇位簒奪によって陳朝は歴史的に否定的に批判されますが、度重なるモンゴル侵攻にかろうじて耐えられたのも陳朝でした。


1703年
元禄大地震(元禄16年11月23日)
房総半島南端を震源とするマグニチュード8.1の巨大地震です。半島南端の先に浮かんでいた野島はこの地殻変動で隆起し、半島とつながって現在の野島岬となりました。
揺れは相模南部の相模湾沿いで非常に大きく、特に小田原城下は壊滅。小田原城天守も焼失しました。
江戸の揺れはさほどではありませんでしたが、それでも江戸城門や藩邸の建物が多数倒壊しています。
揺れのあと、相模湾と関東から東北南部にかけて、大きな津波が襲いました。熱海や鎌倉、九十九里浜などでは大きな被害を出し、堀や水路が多かった江戸も海水がさかのぼり、千川上水ともつながっていた駒込の六義園(柳沢吉保邸)に達し、塩害で庭園の松が全て枯れたそうです。
死者およそ2300人。
この地震災害を受けて、宝永に改元されますが、皮肉にもその宝永4年に、宝永大震災と富士の噴火というさらなる大災害が起こることになりました。
歴史的に見ても、記録が明らかなものでは、慶長年間、元禄・宝永年間、安政年間、昭和20年前後は、巨大地震が集中して連発した時代です。大きな地震のあとには続けて地震や噴火が起こる可能性が高いため、今後も注意が必要です。


1942年
ガダルカナル島からの撤退決定
太平洋戦争は、輸入に頼ってきた日本軍の南方資源獲得が主な目的でした。
マレーへの進出に始まり、蘭領インドシナの各地へと進出を果たし、フィリピンからアメリカ軍を追い出すことに成功します。
しかし、日本軍の作戦はそこまでで、それ以降の具体的な方針は曖昧なままでした。連合軍の反撃への警戒やさらなる資源の獲得といった追加の作戦が計画されました。資源と市場獲得を求める企業の要請もあったと言われています。
その中で、アメリカ軍とオーストラリア軍の分断を意図し、FS作戦をたて、フィジー諸島、サモア諸島ラインへ進出を図ります。オーストラリア北東、ニューギニアの東にあるソロモン諸島にも進出。ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失ったこと、珊瑚海海戦で勝利したものの航空戦力の損害が大きく、ポートモレスビーの攻略にも失敗したことから、南方の制空権を確保するため、42年8月までにガダルカナル島に航空基地を建設しました。しかし、米軍の反撃時期を翌年と誤り、兵力増員を行いませんでした。実は米軍は日本のFS作戦とほぼ同時期に反撃作戦を開始。8月7日には奇襲攻撃で日本軍は混乱に陥ります。日本軍は兵力だけでなく、物資も乏しく、補給作戦を企図するも、輸送艦が次々と撃沈され、深刻な食糧不足に陥りました。速度が早く対潜兵装を備えた駆逐艦による鼠輸送と呼ばれる補給作戦を行い、軍中央はトラック諸島などにいた部隊を逐次投入。投入された部隊は、漸次攻撃に出ますが、武器・食料の携帯は乏しく、小規模の部隊の逐次攻撃では大きな戦果は無理というもの。ジャングル戦で兵士の病気も広がり、各部隊は大敗。南太平洋海戦では辛勝するも、航空兵力の損害が大きく、輸送体制は改善しないまま、現地の飢餓状態は悪化しました。同僚の遺体を食べるといった悲惨な状態の中、死者は2万に達します。3分の2は病死と餓死でした。現地からの悲痛な連絡、大規模な兵力と物資の投入を求める動きも、当初から反対だった東条英機らはこれを蹴り、駆逐艦による輸送では限界もあって、ついに御前会議でガダルカナル島からの撤退が決定しました。撤退とは言えないため、転進という言葉を使っています。退却困難な傷病兵の多くは味方によって殺害され、米軍も日本兵捕虜を殺害するなど、太平洋戦争中最も悲惨な戦いの一つとなりました。
翌年2月7日に撤退作戦を完了しましたが、残された人も多くいました。

1953年
紅白歌合戦が初の公開放送
年末の風物詩であるNHKの紅白歌合戦の原点は、終戦直後の1945年大晦日に行われた『紅白音楽試合』というラジオ音楽番組。剣道の紅白試合から命名され、歌合戦とするとGHQが反対したために歌試合となりました。大晦日22時20分から元日の0時まで放送されています。『汽車ポッポの歌』が『兵隊さんの汽車』から歌詞を変えて童謡になったきっかけの番組でした。
評判が良かったことから、1951年正月に「紅白歌合戦」と改めて放送されることになります。1953年の第3回では、テレビで実験放送されました。この1953年は、正月と、大晦日にも第4回が放送されることになりました。
どうしてそうなったかというと、人気が出てきて規模が大きくなったことから、大きな会場で収録することにしたものの、当時それが可能だった日本劇場が、正月はすべて公演の予定が入っていて、大晦日しか空いてなかったため。
そこで、その年2回目となる大晦日放送になりましたが、これが以後も継続され、NHKホールが完成し、そちらに移ったあとも大晦日放送が継続しました。この1953年大晦日放送から、公開放送となります。
1963年12月31日には最高視聴率81.4%を記録。現在は40%を切る付近となり視聴率が落ちたとしばしば言われますが、それでも同日同時間帯の民放の特番に比べて圧倒的な視聴率を持っています(民放の番組がファミリー向けじゃないのもありますが)。
海外でも放送され、多くのアーチストにとって紅白は一種のステータスです。
なお、労働基準法による制限で、中学生以下は第1部に出演します。アイドルグループが前半に多いのはそのため。
引退や休業のため紅白をラストステージにする歌手もいます。また、生放送ならではのハプニングも数多く起こりました。
選曲をめぐってNHKと歌手側が対立し出場しなくなった人や、そもそもNHKなんて、と出場しなかったのが年齢を経て出場するようになった歌手もいます。そういったエピソードの数々も紅白の歴史を飾っていると言えます。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:39| Comment(0) | 12月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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