2012年01月03日

1月3日の出来事

1月3日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1028年
藤原道長没(万寿4年12月4日)
道長は藤原北家の藤原兼家の五男(四男という説もある)。藤原道隆・藤原道兼の弟。しかし二人が死去し、道隆の嫡子伊周との政争に勝って実権を握りました。すでに藤原北家は他の同族や他家を抑えて絶大な権力の位置を占めていましたが、道長はさらに高い権力を目指し、天皇に娘を嫁がせ、生まれる孫を天皇にすることを画策しました。彼は、一条天皇、三条天皇、後一条天皇に娘を嫁がせました。しかも後一条天皇は一条天皇と自分の娘彰子が生んだ天皇ですから、徹底しています。一家立三后と呼ばれました。
このうち一条天皇は彼を右大臣、藤原氏長者、関白に補し、道長は最終決定権のない関白は拒絶したものの、その権力掌握を認めますが、三条天皇とは対立しており、天皇を退位に追い込んでいます。後一条天皇の時はより実権のある摂政となり、1年で息子の頼通にその地位を譲って後継体制も固めました。
後一条天皇だけでなく、後朱雀天皇、後冷泉天皇も彼の孫に当たります。
まさにこの絶対権力が、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な歌に読まれた自信に現れています。
一方で、数多い子供の一部は彼より先に亡くなっており、幸福なことばかりではありませんでした。
晩年は法成寺の建立に意を注ぎ、多くの公家や庶民らも造営に参加させました。末法思想に自らも取り付かれていたのかもしれませんし、自分の思う思想を広めたかったのかもしれません。
その死因は、記録から糖尿病(飲水病)という説もあります。贅沢な生活を送っていたのでしょうか。
彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を世襲し(武家関白を除く)、五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)が分かれ出ており、その絶対的な地位は子々孫々にまで受け継がれました。
ちなみに、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として仕えたのが紫式部で、彰子の立后を図る道長の意を受けて、天皇の感心を引くために記したのが、源氏物語であるという説もあります(彼女が盛んに攻撃した清少納言は、藤原道隆の長女である中宮定子(一条天皇の皇后)に仕えており、彰子とはライバル関係だった)。


1868年
王政復古の大号令(慶応3年12月9日)
江戸幕府は大政奉還で終わったというのが大雑把な認識で間違いはないわけですが、徳川慶喜は政権を放棄したわけではなく、むしろより強力な体制への改革を意図して大政奉還を進めたと言われます(大名を廃した将軍−郡県制など)。それに対し大政奉還を進めた側は、徳川家を含めた新体制を考える土佐藩や、緩やかな政権交代を意図する越前藩や尾張藩などの親藩、徳川家を排除したい薩長の意図が交錯しますが、少なくとも、幕府の解体は共通する必須条件でした。しかし、政権を譲られる側の天皇、公家はまったく政治経験がなく、準備も整っておらず、形式はともかく実質は徳川家が引き続き政権を担うものと考えている公家も多かったといいます。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が宮中を下がった直後、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩は待機させていた兵を繰り出し、御所の九門を封鎖。皇族も公家衆も御所への立ち入りを禁止しました。公家らは大騒ぎになりますが、混乱の中、黒幕とも言える岩倉具視らが参内し、新政府を樹立。天皇が臨席して小御所会議が行われ、三職(総裁、議定、参与)の人事を決定し、将軍、京都守護職、京都所司代、摂政、関白を廃止し、幕府の解体を決定しました。これが「王政復古の大号令」です。
12月14日に諸大名へ通達、16日に庶民に布告されました。
王政復古とは言っていますが、従来の律令体制は廃止しており、実際には、幕府の解体と改革を主導する一部公家・諸藩の体制を確立するためのものでした。会議では徳川家を含めるべきだと主張する土佐藩と、徳川家排除を進める岩倉や薩摩藩とが対立しますが、結局薩摩側の主張が推し進められました。また、松平春嶽らは徳川宗家の完全な滅亡を避けるために行動しており、徳川家の朝廷への納地は半減に許されました。より新体制を整えるため、翌慶應4年閏4月に太政官制度に移行します。


1977年
青酸コーラ無差別殺人事件発生
1977年1月3日午後11時半ごろ、東京都港区で東海道新幹線の列車食堂のアルバイトの男子高校生が、宿舎へ戻る途中に、品川駅近くの品川スポーツランド正面の公衆電話に置かれていた、未開封のコカ・コーラを見つけ、宿舎でそれを飲んだところ、異常を感じ吐き出すが、意識を失い、病院に運ばたが、亡くなるという事件が起こりました。
コカ・コーラには青酸化合物が入れられていました。シアンがヘモグロビンと結合して細胞の呼吸を阻害することで死に至らしめる毒物です。
4日、高校生がコーラを拾った場所から600mほど北に行った歩道で、作業員が倒れているのが発見され死亡が確認されます。
やはり青酸中毒でした。男性の側には青酸化合物の入ったコーラの瓶が落ちていました。さらに近くの商店の赤電話のところにも青酸コーラが置かれていました。同一の手法から、同一犯人と考えられたため、青酸化合物を使用する塗装業者などを捜査しますが、犯人はわかりませんでした。模倣も含めこの種の事件が起こることを人々は恐れ、子供が拾って口にしないよう教え込みました。
2月13日、大阪の藤井寺市で、出勤途中の会社員が、公衆電話に置かれたコーラの瓶を口にして、意識を失う事件が発生。コーラからは青酸反応が出ます。会社員は治療を受け、意識を取り戻しますが、何故か退院翌日に自殺してしまいます。
このため、これは東京の事件と同じなのかわかりません。
2月14日、東京駅の八重洲地下街で、会社経営者が階段にチョコレート40箱入りの紙袋を発見。不審に思って警察に届けます。警察は遺失物扱いで受理し調べませんでしたが、落とし主がでてこないため製造元に返したところ、メーカーが不審に思い調査、青酸化合物を検出します。
箱には「オコレル ミニクイ ニホンジンニ テンチュウヲ クタス」(驕れる醜い日本人に天誅を下す?と記された文章が添付されていました。大阪の事件も、チョコの事件も犯人は不明。同一の事件なのか、模倣なのかも不明です。


1977年
アップル創設
創設者のふたり、スティーブ・ジョブズと、スティーブ・ウォズニアックは、それぞれアタリと、ヒューレット・パッカードで技術者として働いていました。時代はちょうど、コンピュータの小型化が進み始めた時代。それまでコンピュータといえば、国家機関か、巨大企業で非常に専門的な技術者によって、特殊な業務にのみ使われるものでしたが、1975年にインテルがi8080をリリースすると、それを利用したアルテア8080というコンピュータ・キットが売りだされて、マニアの間で評判となります。それを知った二人は、これからは一般向けのコンピュータが売れる時代だと考え、自ら回路を設計し、コンピュータの独自作成を企図します。ジョブズが自分たちで売ることを主張したのに対し、ウォズニアックは自分の勤務する会社にこれを見せますが、相手にされなかったため、自分たちで売ることを決定。
ふたりは、車などを売って資金を得ると、ウォズニアックが独自に設計したAppleTを生産。社名もアップルとしました。アップルという名前の動機は諸説あってよくわかってません。
それまでのコンピュータと異なり、テレビにテキスト出力でき、BASICプログラムのテープによる配布もあって、技術者、マニアの間で大きな話題となりました。AppleTの売上が良かったことで、マイク・マークラから投資を得ることに成功したことで、ジョブズ、ウォズニアック、マークラは、1977年1月3日、アップルを法人化しました。これが企業としてのアップルの始まりでした。
以後、より一般向けで、グラフィックも格段に良くなり、多数のアプリケーションが開発されたAppleUの発売で成功を収め、アップルは一躍有名な会社となりました。
様々なアイデアで製品を開発し続けたスティーブ・ジョブズは、2011年10月5日に亡くなりました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:39| Comment(1) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
2012年も色々な話題を振りまくこと必須!ネットでは様々な噂が飛び交っていますがその真相を確かめるのか否かはあなた次第です。
Posted by グ リー at 2012年01月03日 20:12
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