2012年01月22日

1月22日の出来事

1月22日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

646年
改新の詔が発布される(大化2年1月1日)
「大化の改新」といえば、以前は教科書なんかで、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を殺害したクーデター事件を指していました。しかし実際には、入鹿殺害事件による蘇我本宗家の滅亡は、乙巳の変であり、大化の改新というのは、その後に起こった政治改革のことを指します。その改革の方針を示したのが、改新の詔で、即位した孝徳天皇のもとで発布されました。大きく4条に分かれ、第1条は、天皇家、王族、豪族らの土地・人民の私的所有制度の廃止と公有化。実際には公地公民制度へのシフトはうまくいきませんでした。第2条は、首都と地方行政組織の制定。いわゆる五畿七道の原型です。都を置き、畿内+令制国と、その下の郡(評[こおり]という説もある)を設置し、その境界を定めるというもの。そして各地を結ぶ連絡網である道路と駅伝制度が整備されることになります。第3条は、戸籍制度と農地の所有制度の制定。農地の方は大宝令における班田収授の制度に連なるもの。戸籍はのちに庚午年籍という戸籍ができますが、それ以前にも戸籍調査簿があった可能性はあります。第4条は、税制。田地面積に応じて賦課される租税を検討したもので、これも後に田租という形で成立しました。いずれも、豪族による連合制から、天皇を中心とした体制を作るためのもの。中国の制度を取り入れた律令制度の前身とも言える内容でした。


1901年
ヴィクトリア女王が死去
イギリス帝国の黄金期と呼ばれた時代の国王だったのが、ヴィクトリア女王。彼女の時代を指してヴィクトリア朝と呼ばれています。
英国王ジョージ4世の弟のケント公爵エドワード・オーガスタスとベルギー王レオポルド1世の姉ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公女ヴィクトリアの娘。洗礼式に参列したロシア皇帝より貰ったことから、フルネームはロシア風のアレクサンドリナ・ヴィクトリア。
ジョージ4世、ウィリアム4世はそれぞれ子を残さずに死去したため、彼女が王位を継承しました。レオポルド1世の斡旋で、従姉弟のザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと結婚。アルバートは女王を支え、公私の助言者ともなり、議会から「王配」(プリンス・コンソート)の称号を認められた唯一の人物。彼は有能な経済家でもあり、でたらめな王室の財政状況を整理し、枢密院に属して政府の政策に助言し、ロンドン万博の中心人物として成功させていますが、無駄遣いに厳しいことから国民の評判は悪かったとか。このアルバートとは仲が良く、子供もたくさんもうけています。
アルバートの出身家から来ているサクス=コバーグ=ゴータ王朝はヴィクトリア以降に呼ばれるようになり、敵国の王朝名を避けて第一次大戦後はウィンザー王朝と改名しました。これが現在の英国王室。ヴィクトリア以前のイギリス王朝でドイツ系(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)のハノーヴァー朝の血筋も継承しています(女子の王位継承を認めていないためにヴィクトリア即位でドイツのハノーファー家の王位は別人が継ぎ、イギリスとドイツは同君連合ではなくなったことから王朝名も変更されている)。
産業革命以来のイギリスは、工業化が進み、世界中に植民地を広げた時代であり、経済は頂点に達し、文化の爛熟期を迎えていました。ヴィクトリアはまさにその帝国に君臨した女帝であり、一方で議会を尊重し、政治は信任した内閣と議会に委ねていました。植民地となった各地にヴィクトリアの地名を残し、インド帝国の「インド女帝」という称号も持っています。
自身の両親がそうだったように、自らの子女と欧州各国の王族との婚姻関係を結び、現在でも英国王室は欧米各国にものすごい数の王位継承者を持っています。この縁戚関係から彼女は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれています。同時に彼女の血友病の遺伝も各王家に伝えられることとなりました。在位64年という長命で崩御。時代の主導権は徐々にアメリカへ移ることになります。


1905年
ロシア血の日曜日事件(グレゴリオ暦1月22日、ロシアのユリウス暦で1月9日)
当時ロシアは、皇帝や貴族とその政府、それに対する人民との格差が極端で、また農奴制などと称される如く、農民らの搾取はひどく、労働者は低賃金に苦しみ、軍の一般兵は貴族出身の士官らの奴隷のように扱われている状態。そういうこともあって日露戦争では陸軍・海軍とも、思わぬ損害を出しており、遠い極東での戦費負担も重くのしかかってきていました。
その状況の改善を望んだ多くの労働者らは、デモを組んで冬宮にいる皇帝ニコライ2世に政治改革を要求します。人権の拡大、憲法制定、終戦と言った内容でした。といってもこの時点では、まだ皇帝なら世の中を良くしてくれるのではないか、という期待の幻想が人民の中にはありました。ロシア皇帝は、モスクワ大公時代の端緒からロシア正教会によって支持され、ローマ帝国の後継として、ロシア正教に入っている多くの人民の崇拝対象だったからです。
この労働運動を指揮したのが、組合組織を形成したロシア正教のゲオルギー・アポロノヴィチ・ガポン神父。彼は人民の権利拡大を求めて活動していました。
ところが労働者のデモ隊の数が6万人とも言われる膨大なものになり、市中心部への侵入阻止が困難になった軍隊はついに発砲。少なくとも千人以上が死亡したと言われます(最大4千人とも)。この事件は、人民にとって、結局のところ皇帝は何のためにもならない、という現実を見せつける結果となり、以後、共産主義諸勢力によるロシア革命へ加速することになりました。
ちなみにガポン神父は、実は皇帝側のスパイだったのではないか、という説もあります。


1916年
初の国産飛行船「雄飛号」が所沢−大阪間でテスト飛行
第一次世界大戦ではロンドン空襲にも使われた飛行船。日本はドイツから輸入したバルセヴァール飛行船のテスト飛行を行い、その結果(※)、臨時軍用気球研究会が同船をもとに国産飛行船につながる研究開発を行います。そして完成したのがこの雄飛号でした。骨格のない「軟式飛行船」で、内部に2個の空気房をもつ気嚢を搭載して浮上します。下に吊籠があり、そこに操縦席と推進機関がありました。乗員は12名。重量は8トン。
1915年2月から4月にかけて完成し、4月21日に命名式を行いました。以後、短距離の飛行試験を繰り返し、12月2日の大正天皇即位式記念の大正大礼観兵式にも参加しています。
1916年1月22日、雄飛は、所沢から大阪までの試験飛行を行ないます。益田済少佐、岩本周平技師が搭乗。途中、豊橋に着陸し、所沢−豊橋間は約4時間、豊橋−大阪城東練兵所までは、5時間10分、その他も含めて、合計11時間34分の旅でした。しかし機関不調により、帰りの飛行は中止。機体を分解し陸送されました。この飛行を記念して、1月22日は「飛行船の日」となっています。結構なお金をかけ、専用の格納庫まで作られた雄飛号でしたが、東北での複数回の飛行テストの後、7月に研究は終了。解体されました。
※バルセヴァール飛行船は、1913年3月28日、大勢の招待客や見物客が見守る中、所沢−青山練兵場間の飛行に成功しますが、着陸時に風で流され市電の電線と電柱に衝突し墜落。大破しました。当日にはこの飛行に従った陸軍機が帰還時に所沢で墜落。日本最初の死亡航空機事故も起こっています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:17| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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