2012年01月27日

1月27日の出来事

1月27日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

661年
イスラム教正統カリフの終わり
正統カリフというのは、イスラム教の初期に、信者の共同体ウンマを率いた指導者のこと。
イスラム教の開祖はムハンマドですが、その死後、ムハンマドの教友だったアブー・バクル・アッ=スィッディークが選出されて、ウンマを率いました。アブーはムハンマドに幼い娘を嫁に出したため、彼の義父でもあります(年齢は彼のほうが3歳年下)。ウンマの初期の有力者であるウマル・ブン・アル=ハッターブとアブー・ウバイダ・アル=ジャッラーブが彼を推しました。アブーはムハンマドを神ではなく人であるとし、自身に忠誠を示さない信者を抑え、中東各地へと勢力を拡大させました。アブーの跡を継いだのは、ウマル・イブン・ハッターブで、彼はもともとムハンマドに敵対する親族でした。しかしその教義に動かされて、武勇を発揮して初期の布教を支えた人物。シャリーアの法整備を進め、またムハンマド死後にアブーを支持してクライシュ族がカリフとなる方向性をつけます。彼は暗殺され、ウスマーン・イブン・アッファーンが選出されました。ムハンマドの娘と結婚した人物で、クルアーン(コーラン)を完成させた人物でもあります。ササーン朝を滅亡させ、イスラム世界を拡大しました。しかし自身の出自であるクライシュ族のウマイヤ家を重んじたことから、アリー派によって暗殺されました。そして4代カリフとなったのが、そのアリー・イブン・アビー・ターリブ。ムハンマドの父方の従弟で、ムハンマドの養子となった人物。つまりムハンマドの後継者でした。しかしウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤと対立。さらにアブー・バクルの娘アーイシャがアリーに反発し、アリーはこの両者と戦う羽目になります。ムアーウィヤはアリーに和睦させることに成功して、アリーのこの態度に反発した人々は、ハワーリジュ派を形成。彼らはアリーも、ムアーウィヤも敵視して刺客を送り、アリーは暗殺され、一方のムアーウィヤは独自にカリフを宣言し、ウマイヤ朝を開いて世襲化。正統カリフは終焉を迎えました。ウマイヤ朝はアリーの支持者らを弾圧し、また世俗化してイスラム帝国を築いていきます。
スンナ派(スンニ派)は、この歴代正統カリフを理想的指導者として受け止めていますが、アリーの支持者から誕生したシーア派は、ムハンマドの後継はアリーであるため、アリーの地位を奪ったものとして他のカリフを批判の対象としています。


1142年
岳飛が殺害される(紹興11年12月29日)
日本では三国志の関羽・張飛などのほうが有名ですが、中国ではそれらに並ぶほどの尽忠報国の英雄といえば岳飛です。彼は農民の出身ですが、21歳の時に、当時南下を始めていた金王朝との戦いで、北宋の義勇軍に参加。その優れた武勇によって頭角をあらわしていき、ついには節度使となります。南宋を興した高宗から大きな支持を受け、軍閥勢力を築きます。
1140年、岳飛は、対金の北伐軍を編成。旧都開封にまで迫る勢いを見せます。しかし兵站線はここで限界に達し、金王朝を倒すことは出来ませんでした。一方、高宗も南宋の宰相となっていた秦檜も、金との外交的和平を考えるようになります。その障害となるのが、岳飛でした。1141年、秦檜は、岳飛、その養子の岳雲、岳飛の部下の張憲に罪を着せて殺害しました。秦檜は金と和平を結び(紹興の和議)、莫大な安全保障料を毎年、金に支払うことになります。更に反対派を弾圧、庶民の学問・言論を規制して、絶大な権力を握りました。
岳飛は庶民には絶大な人気がありましたが、主戦派である一方、学識があったことから権力者からは警戒され、無学の軍閥からも嫌われていたことも、彼の運命を左右したと言えます。のちに冤罪であることが証明されたため、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王と追封されました。
彼を祀った岳王廟には、岳飛・岳雲父子の墓前に、秦檜夫婦と張俊が縄で繋がれた形で正座させられている像が作られました。人々は、この像に唾を吐きかける習慣があったといいます。
岳飛の庶民的な人気以外にも、秦檜の売国奴的イメージは、秦檜を批判した朱子学の祖、朱熹の影響が大きいと考えられます。


1938年
平賀粛学事件
この頃の東京帝国大学経済学部では、個人の成長を理想とする自由主義経済学者の河合栄治郎、自由主義経済の欠点を国家の政策で補う統制経済を主張する土方成美、ウェーバーの近代資本主義を研究し日本に紹介した本位田祥男の3教授が派閥を構成し、特に河合と土方は対立しあっていました。このうち河合は独自の自由主義思想により、共産主義も、ファシズムも、批判していましたが、彼の執筆したファシズム批判の書物が、発禁処分に遭います。当時の帝大総長は、平賀譲(※)。彼は政府から河合の処分を求められますが、生真面目な性格ゆえに河合だけを処分するのは片手落ちと考え、河合と、対立する土方成美の両者を、独断で休職処分にして荒木文相に上申しました。
これに対し、3派の学者らは学問・思想への介入だと猛反発。両教授を含む13人が相次いで辞表を提出しました。
ただし、河合派三羽烏の大河内一男と安井琢磨は師と対立して辞表を撤回。一方、木村健康は辞任し、上智大学へ移ります。彼は後に一高(旧制第一高等学校。現在の東大教養)の教授となり、一高廃止を画策する軍に抵抗しました。他にも辞表を撤回した教授や助手らもいます。研究者だからといってもそれぞれの考えや立場があったわけで、辞めたから正しく残ったから悪いというものでもありません。河合栄治郎は在野で研究を続け、法廷でも戦い続けましたが1944年に心臓麻痺で急死。一方、土方成美は、中央大学に移り、教鞭をとり続けました。
※平賀譲はこの粛学事件で有名ですが、一方では帝国海軍の建艦技術者(海軍技術中将)で、多くの戦艦ほか各種軍艦を設計したことでも知られています。


1973年
ベトナム戦争終結
ベトナム戦争は、1973年1月27日にパリで行われた4者会談によって結ばれたベトナム戦争和平のためのパリ協定で終結しました。4者は、ベトナム民主共和国(いわゆる北ベトナム)、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)などによって南ベトナムを支配するために作られた南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国です。
このうち、南ベトナム共和国臨時革命政府は、北ベトナムの傀儡であり、またゲリラ的に勢力を持っていたものの、政府としての実態は乏しいものでした。そのため、南ベトナムはこれを批判していましたが、一方北ベトナム側から見れば、南ベトナム政府そのものがアメリカの傀儡であるという認識でした。そのため協議のためのテーブルの形までが問題にされたほど。4者は独立したものとして扱われ、調印により、すべての参加国は、1954年のベトナムに関するジュネーヴ協定によって承認されたベトナムの独立、主権、統一性、領土を尊重するように要請されました。アメリカはすでに撤退を開始していたので、ニクソン大統領は1月29日にベトナム戦争の終戦を宣言し、3月29日に撤退を完了しました。
南ベトナム政府はこの協定によって自国の崩壊を恐れましたが、現実的な状況を踏まえた上での調印であったため、結局、アメリカと北ベトナムの「終戦」として、戦争は継続。北ベトナム軍は1975年3月に侵攻を開始、サイゴンは大混乱に陥り、1975年4月30日に南ベトナム政府は降服して、1976年7月、ベトナムは統一されました。
なお、この協定によって、ヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト特使にはノーベル平和賞が与えられることになりました(ト特使は辞退しています)。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:02| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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