2012年01月28日

1月28日の出来事

1月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

934年
紀貫之が帰京のため土佐を出発(承平4年12月21日)
紀貫之は紀行文である「土佐日記」の作者。その内容は、翌年2月16日に帰京するまでの旅を元に執筆されています。
現存する紀行文としてはほぼ日本最初の作品と考えられますが、実はもうひとつ、土佐日記にはそれ以前にない画期的な要素があります。
それが、仮名で書かれたということ。仮名文は以前は非公式の、特に女性が使う字体でした。男性が書く日記は漢文が基本。紀貫之自身は男性ですが、男性が仮名による文章を作品に取り込んだことで、仮名文字の立場も高まり、文学を執筆しやすい土壌が生まれ、これが西暦1000年前後に急速に発達した女流文学につながったと言えます。蜻蛉日記も、枕草子も、源氏物語も、更級日記も、ある意味土佐日記があったればこそでしょう。
仮名で書いた動機については、女性に仮託したというもの、漢字で書く日記をあえて仮名で書くことにした実験的な動機というもの、すでに和歌は仮名で書くことが一般的で、しかも初の勅撰和歌集『古今和歌集』の仮名序を記した歌人の貫之が書くのは自然な流れだったとも考えられます。
土佐日記には冗談や洒落を交えたような文体も見られ、諧謔表現を用いた日本最初の文学とも言われます。


1549年
長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐ(天文17年12月30日)
現在、上杉家といえば、越後、会津、米沢の大名として変遷し現在まで続く上杉景勝の系統を指しますが、この上杉家を興したのが上杉謙信であり、それ以前の上杉家と、越後守護代長尾家の両系統を立場的に統合したところに始まります。
上杉家は藤原北家勧修寺流の系統で、征夷大将軍となった宗尊親王に従い関東に下向して武士となります。室町幕府を興した足利家と姻戚関係を結んだことから急速に力をつけ、複数の分家が覇を競い合います。一時期は関東や越後に大きな勢力を築いた上杉でしたが、北条が台頭することで勢力を失っていき、残存して追い詰められた山内上杉家の上杉憲政は越後守護代として勢力を拡大した長尾景虎に家督を譲り、長尾家と上杉家が一つになったわけです。
上杉謙信は、越後守護代3家のひとつ三条長尾家の出身で、長尾為景の四男。為景は越後の内乱を武力で抑えていき、ついには越後守護と関東管領の上杉氏を倒し、守護を傀儡化して事実上の越後の支配者となります。為景の跡を継いだのが、謙信の兄の長尾晴景でした。晴景は穏健な方法で越後の混乱を収拾していきますが、越後守護上杉定実が伊達氏から養子を取ろうとして起こった内乱を収められず、さらに彼を侮った豪族らの謀反が起こります。それを撃退したのが若干15歳で初陣を迎えた景虎でした。さらに上杉家の重臣、黒田秀忠の謀反も上杉定実の命で景虎が滅ぼし、越後国人の間で、晴景より景虎を推す勢力が広がります。兄弟は対立しますが、定実が調停して、晴景は隠居、景虎が19歳で家督を受け継いで、越後守護代となりました。
晴景側についた長尾政景(上田長尾氏で景虎の姉の夫)は景虎と争い、降服してのち重臣となりますが、不慮の死を遂げます。その子で景虎が引き取ったのが、のちの上杉景勝です。


1956年
万国著作権条約
著作権というのは、著作物、すなわち、小説や漫画、絵画、彫刻、音楽、映画などの作者に、その著作物から利益を得られる排他的優先権を認めるものです。日本など多くの国は、世界で最初の著作権保護条約である、ベルヌ条約(1886年成立)を批准しています。このベルヌ条約は、無方式主義。すなわち、著作物を製作した時点で、登録しなくても、公表しなくても、自動的に作者に著作権が認められます。それに対し、特許のように専門機関に先に出願した方に権利を認めるのを方式主義といいます。この方式主義の著作権登録優先制度はアメリカや途上国の多くが採用していました。しかしこれでは日本などで製作された著作物は、アメリカなどの方式主義では著作権が守られない可能性があります。そこで、万国著作権条約を結び、無方式主義の国の著作物は、(C)を付けるなどして公表すれば、方式主義の国でもその法制度に準じて保護されるというもの。
しかし、無方式主義のベルヌ条約はもっとも最初にできたもっとも強力な著作権法であり、また両方の条約に批准した場合、ベルヌ条約が優先され、しかもベルヌ条約を脱退して万国著作権条約を批准した場合、ベルヌ条約締結国から制裁が課せられることから、ベルヌ条約を採用する国が相次ぎ、ついには最大の方式主義国家だったアメリカも、1989年にベルヌ条約に加盟しました。その結果、現在ではほとんどの国が無方式主義であるため、万国著作権条約の意義はあまり意味を持ちません。当然、(C)を付ける意味もないわけで、書籍などに(C)とあるのは、法的な力はなく、一種の警告でしかありません。


1986年
スペースシャトルチャレンジャー号爆発事故
アメリカが開発した初の往還宇宙船スペースシャトルは、初就航以来数多くのプロジェクトを成功させましたが、この事故によって、長期間にわたって中断することになりました。乗員7名は全員死亡。宇宙授業プロジェクトのために選ばれた女性教師クリスタ・マコーリフ、初の日系人宇宙飛行士エリソン・オニヅカも含まれています。
チャレンジャーは、発射時の衝撃で、右側の固体燃料補助ロケットの密閉用リングが壊れ、密閉が壊れて高温の燃焼ガスが吹き出し、その影響で接続部が破損。補助ロケットが脱落、外部燃料タンクが破壊されて爆燃を起こしながら分解しました。打ち上げの約72秒後に起こったため、人々の見ている目の前で木っ端微塵になったわけです。相当なショックだったでしょう。映像にも記録されており、事故原因の研究に使われました。爆発は乗員にも異常として認識されていた可能性が崩壊直前の音声で記録されています。爆発でシャトルは破壊されましたが、コックピット部分は破壊されておらず、乗員は爆発時点では即死せずに、生存者を載せたまま海上へ落下したと見られます。実際、電力系統のスイッチを触った痕跡もあり、何かしらの努力を行おうとしたようです。しかしシャトルのオービターには脱出装置がなく、助かる道はありませんでした。コックピットは時速333km(200G以上)の力で海面に衝突しました。
事故原因は、度重なるトラブルで発射が延期され、その間に寒波でゴム製の密閉リングがもろくなって壊れたもので、これは補助ロケットメーカーのサイオコールの技術者や契約会社ロックウェルの技術者から発射前に指摘されていた問題でした。発射前には膨大な氷がこびりついていたといいます。両者の幹部も、NASAも、現場の意見を無視したために起こった大事故でした。
事故を受けて、緊急脱出の研究も進められましたが、それでも2003年にコロンビア号の分解事故で乗員が全員死亡する事故が起こっています。
スペースシャトルは、32ヶ月間の中断の後、1988年9月29日にSTS−26のディスカバリー号が打ち上げられて再開しましたが、この長期停滞は、宇宙ステーションなどの建設にも影響し、日本人宇宙飛行士の計画にも大きな遅れを生じることになります。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 02:40| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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