2012年01月29日

1月29日の出来事

1月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1940年
西成線列車脱線火災事故
大阪市此花区の当時の鉄道省西成線(現JR西日本桜島線)安治川口駅構内で午前7時少し前に起こった列車脱線転覆火災事故です。
列車は臨海の軍事工場地帯へ向かう労働者で満員でした。車両は当時比較的普及していたガソリンカー(ガソリン動車)という気動車でしたが、日中戦争が始まり、燃料の節約のため、できるだけ無駄に使わないようしばしば惰性走行を行なっていました。そのために遅れが生じて、単線区間の西成線に臨時列車や旅客列車が集中して入ることが出来ず、更に遅れが生じる状況になります。遅れると時間を戻すためにはガソリンを消費しなければならず、焦った駅員が、この列車が分岐器を通過しているさなかに、手動で分岐器を操作してしまいます。そのため列車は線路をまたいで走行し脱線。構内にあった踏切そばの電柱に激突して転覆しました。この際に、満員の車体が重みで沈んでいたため、ガソリンタンクにプロペラシャフトが接触してタンクが破損。漏れ出したガソリンに、転覆時の火花か何かが引火して車体が燃え上がりました。
転覆したため片側の窓からしか逃げ出せず、満員の車内の乗客は次々と火に飲み込まれて行き、乗員乗客の死者は189名、重軽傷者は69名という大惨事になります。しかし、軍事重要路線であることから、労働者らを総動員して復旧が行われ、その日の午後には運行を再開しています。駅員2名が禁錮2年となりましたが、そもそも列車通過中に分岐器が操作できた状態も問題でした(事故を受けて通過中の操作ができないように鎖錠される)。
同線の電化は翌年の予定でしたが前倒しされ、さらにガソリンカーの危険性が明らかだったことから、ディーゼル動車への開発が進められました。戦争による燃料不足もありますが、この事故でガソリンカーは急速に衰退しました。


1960年
カフジ油田の発見
太平洋戦争が、石油資源の獲得を大きな要因としていたように、エネルギー資源の乏しい日本は、戦前からその確保に苦慮してきました。戦後、燃料や製品の原料として、石炭から石油へシフトする中で、日本は独自の石油資源獲得に動き始めます。独自にこだわったのは、かつてアメリカに石油輸出を禁止されて苦境に陥り、戦争へ発展した苦い経験があったからです。1957年、日本輸出石油株式会社がサウジアラビアで採掘権を獲得。それに尽力した実業家、山下太郎が興した会社がアラビア石油で、クウェート沖の海底で大規模な油田を掘り当てました。これがカフジ油田であり、日本初の自主開発油田で、日の丸油田と称されました。クウェート王族が日本に開発許可を出したのは、技術支援などの他に、欧米に対する対抗意識があったとも言われます。
その後も、アラビア半島の各国と結んで日本は石油を輸入して行きました。これが日本の発展を促したと言っても間違いではないでしょう。しかしその始まりとなったカフジ油田の契約は、アラビア石油の採掘権は2000年2月に期限が切れる事態に。クウェート側がごねて、延長されずにマスコミに批判されました。
アラビアでの自主開発の成功は、一方でアラビア半島依存となり、他の地域の資源開発を遅らせ、東シナ海で中国に先手を打たれたり、中東情勢次第で石油危機に追い込まれる事態も招いています。


1968年
藤田嗣治死去
藤田嗣治は洋画家。1886年(明治19年)に軍医だった藤田嗣章(のちの陸軍軍医総監)の子として生まれた彼は、子供の頃から絵が好きで、それが高じて画家としてフランスへの留学を夢見るようになります。父の関係で軍医総監でもあった森鴎外の勧めで東京美術学校(現東京芸大)に入り、卒業後は展覧会などに出品しますが、当時の画壇は、黒田清輝らのグループが力を持ち、その画風に合わない彼は相手にされませんでした。まもなく結婚するも、妻を置いてフランスへ渡り、妻とは離婚。芸術家が多く住んだパリのモンパルナスに居住。彼を支援したのはパトロンとして知られた超大富豪、バロン薩摩こと薩摩治郎八。藤田はパリで最新のキュビズムやシュールレアリズムに触れ、日本で権威を誇っていた黒田清輝らの印象派が時代遅れであることを知ります。
のちにエコール・ド・パリと呼ばれた様々な新たな画風とそれを生み出す自由奔放な暮らしを送る若き画家たちに惹かれた彼は、教え込まれた作風のすべてを捨て、透明感のある独特の画風を生み出して行きました。第一次大戦の頃は絵が売れず、貧窮しますが、終戦間近になりにわかに評価が高まるようになりました。このころフランス人と再婚。戦後の新たな時代に藤田の画風ははまり込み、人々に賞賛され、経済的にも成功。サロン・ドートンヌ(1903年に誕生した新進の展覧会)の審査員に推挙されるなど大変な人気を博しました。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章も受けています。南北アメリカでの個展も大成功をおさめるほど。私生活では2番目の妻と離婚後、3度目の結婚をしますが、これもまもなく破綻。1933年日本に帰国しますが、日本での評判はまったくありませんでした。欧米での賞賛に画壇から嫉妬を買ったと言われます。日本で終生の伴侶となる君代夫人と結婚。その後、従軍画家として中国で活動後、一旦はフランスへ戻りますが、第二次世界大戦勃発で再び帰国。戦時中は、いわゆる「戦争画」を多数描きました。彼自身、国のため、という意識もあったようで、それは日本で受け入れられない孤独感もあったのかもしれません。この戦争画にも沢山大作があります。

ところが、終戦後、この戦争画によって「戦争協力者」だとして、洋画家で日本共産党員の内田巌らに激しい糾弾をうけるはめに。ここでも藤田に対する嫉妬があったという説もあります。また、藤田のような「協力者」を攻撃することで、自分への批判をかわそうという意図もあったでしょう。戦時下で協力を拒むのは画家としては困難であり、殆どの国民が戦争に協力する中では心理的にも難しかったわけですから。他にも日名子実三(※)など同様の理由で攻撃された芸術家は多数います。
どこまでいっても日本から嫌われることに嫌気がさした藤田はフランスに渡りました。フランスでも過去の人という扱いでしたが、それでも受け入れられ、フランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと名乗りました。スイスのチューリッヒで死去。死後になって、ようやく、日本でも評価されるようになり、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈されたりしますが、藤田自身は祖国に対する孤独感から離れることが出来なかったでしょう。
※日名子実三は彫刻家、デザイナー。宮崎の八紘一宇の塔(現平和の塔)の彫刻設計や、デザインとしては日本サッカー協会のサッカーボールを抑える三本足の八咫烏が有名(発案は内野台嶺)。


2002年
悪の枢軸
この日、アメリカ合衆国のジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領が、一般教書演説で北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸(axis of evil)」と名指しで指摘し、物議をかもした出来事です。
この背景には、前年に起きた前代未聞の同時多発テロがありました。テロを主導したアルカーイダと関係の深いアフガニスタンのタリバン政権に侵攻し、対テロ戦争と呼ばれる状況下にあった中での発言で、従来よりアメリカと関係が悪く、テロ組織の背後に暗躍する支援国家という位置づけで、北朝鮮、イラン、イラクの3か国を批判したわけです。
イランはイラン革命後のアメリカ大使館選挙事件以来、イラクは湾岸戦争以来、そして北朝鮮は朝鮮戦争以来、仲が悪く、それぞれに大量破壊兵器の開発を進めていると見られていました(イランと北朝鮮は実際に進めている)。国連機関の査察を拒否するといった3カ国の対応もあったわけで、一概にブッシュ大統領の感情的発言というだけでもありません。
さらに5月には、ボルトン国務次官が、「悪の枢軸を越えて」という演説をおこない、大量破壊兵器を追求する国々としてシリア、リビア、キューバを追加指定。いずれも反米国家です。どちらの発言も、世界を動かすアメリカの不遜さや、安直さを感じさせる所があり、批判も多く出ました。そしてこれが2003年3月19日にはじまるイラク戦争へつながっていきます。
なお、北朝鮮が含まれているのは、イスラムだから敵視しているわけではないことへの調整、という見方もあります。
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、ベネズエラ、キューバ、ボリビアの反米政権による連携を「善の枢軸 (axis of good) 」と呼び、
イスラエルのオルメルト首相は、イスラエルと敵対するイラン、シリア、ヒズボラ、ハマースと、それらの協力者である北朝鮮を悪の枢軸と呼び、イスラエル外相アヴィグドール・リーバーマンも、イラン、シリア、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んでいます。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 04:37| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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