2012年01月30日

1月30日の出来事

1月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1165年
三十三間堂が落慶(長寛2年12月17日)
三十三間堂は蓮華王院本堂が正式名称で、天台宗妙法院に属しています。ここは988年に太政大臣藤原為光が法住寺を創建しましたが、1032年に九条邸から起こった火災で延焼し焼け落ちます。1161年、この法住寺の一帯に、後白河上皇が平清盛に協力を命じて、院の御所を建設します。これを法住寺殿といいます。御所ですが、大きな伽藍を構成した大寺院でした。
長寛2年12月17日に完成。このとき本堂として作られたのが、いわゆる三十三間堂。これは清盛の父、平忠盛が鳥羽上皇に寄進した観音堂「得長寿院」に似ているため、関連があるかもしれません。
建長元年(1249年)の火災で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されました。
蓮華王院と呼ばれるのは、後白河上皇の「前世」が蓮華坊という僧侶だったから。上皇には頭痛の持病があり、それを熊野権現で祈願したところ、京の因幡堂薬師如来に祈るとよい、というので、戻って参詣したところ、上皇の前世は蓮華坊で、蓮華坊の髑髏が岩田川の底にあり、目の穴から柳が生えてきたため、風で柳が揺れると上皇の頭が痛む、というお告げがありました。そこで岩田川を調べると髑髏が出てきたので、上皇はそれを本堂の千手観音の中に納めて、熊野から切り出した柳の大木を本堂の棟木にしたところ、頭痛が治ったといういわれがあるためです。このため、三十三間堂は「頭痛山平癒寺」と庶民の間で呼ばれました。また、この棟木を切り出した切り株の上に建てられた熊野の楊枝薬師堂も同様に呼ばれています。
「三十三間堂」の名称は、母屋の柱間が33あり、また33が観音菩薩が衆生を救うときに変じる姿の数に関わる数字であるため。内部には1001体の千手観音像が置かれています。
極端に長いお堂で、その西軒下は121.7mもあることから、江戸時代には端から端へ弓を射る通し矢が行われ、中でも丸一日かけて行われる「大矢数」が有名。
もともと妙法院と後白河上皇の関係が深く、そこから法住寺とも関わりました。豊臣時代に方広寺が北に隣接して作られたことから、豊臣ゆかりの門や塀が現存しています。


1945年
ヴィルヘルム・グストロフ事件
第二次世界大戦末の1945年1月21日、ソ連軍の侵攻に伴い、ナチスは東プロイセンなどドイツの東方領土や支配域から多くの市民や兵士をドイツ本国へと避難させることを決定。避難には海上を使い、そのために多数の貨客船が動員されます。これをハンニバル作戦と呼びました。膨大な数の人々を輸送する作戦に、一隻当りの搭載人数も定員を上回る大変な数になりました。
1月30日、ヴィルヘルム・グストロフ号は少なくとも1万582人の避難民と傷病兵を乗せて、バルト沿岸のゴーテンハーフェンを出港しました。護衛は水雷艇1隻。この大型船は、一般市民向けの比較的安価な客船としてナチスが建造したもの。地中海などでのクルーズに使われた後、海軍に徴用されて病院船となり、その後は兵営として使われていました。クルーズ用で船内が広かったことからこの船も避難民輸送に使われたわけです。
しかし出港後、無灯火で進んでいた同船は、海軍の掃海艇が近づいていると知らされ、衝突防止のため灯火を付けたことから、ソ連軍の潜水艦S−13に発見され、発射された魚雷4本の内、3本が命中。1時間後に沈没しました。定員をはるかに超える避難民はボートや救命具も足りない中、大パニックに陥り、そのまま極寒の海に放り出されました。
近くにいた水雷艇や掃海艇、貨物船などが救援に駆けつけ、1200名以上を救助しますが、9343名が死亡しました。これは海難史上最大の犠牲者と言われています。
その後も避難作戦は継続され、2月10日に客船シュトイベンが撃沈(4500名死亡)、4月16日に客船ゴヤが撃沈(6666名死亡)されています(他も含め総計33000人が死亡)。一方で250万人もの人がドイツ西部へ避難しました。
グストロフとシュトイベンを撃沈したS−13の艦長アレクサンドル・マリネスコは、避難民船撃沈の正当性の問題などで必ずしも評価されず、のちに予備役に回されています。


1948年
ガンディー暗殺
マハトマ・ガンディーは本名をモハンダス・カラムチャンド・ガンディーといい、ポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーの子。マハトマは「偉大なる魂」という意味で、詩人タゴールに贈られた尊称。子供の頃は非常に素行の悪い人物でした。その後、留学先のロンドンで法律を学び、弁護士となります。南アフリカへ渡り弁護士として開業しますが、南アフリカは人種差別の強い国。彼も差別され、それに反発してインド系移民の権利擁護運動をするようになります。第一次世界大戦で、イギリスはインド人の協力を求め、代償によりインドの自治を認めますが、勝利したイギリスは自治どころかインドの支配を強化。さらに抗議するヒンドゥー教徒をイスラム教徒の兵を使い武力で弾圧しました(アムリットサル事件)。イギリスは信用出来ないと思ったガンディーは独立のためのインド国民会議に参加。
ヒンドゥー教やキリスト教の影響で非所有の思想を持ち、非暴力・不服従によって、イギリスに抵抗。塩税に対して塩の行進を行なうなど、その活動は人を引きつけ、後世の多くの社会運動家のモデルとなりました。ガンディーはイギリス製品の不買とインドの伝統的綿製品を着用するアピールで糸車を回しました(インド国旗の中央のチャクラ(輪)はこの糸車が元です)。
しかし弾圧を受ける民衆はしばしば暴動に走り、第二次世界大戦では日本の協力で独立戦争を図ろうとするチャンドラ・ボースらの勢力もありました。ガンディーは日本の覇権主義を批判しますが、日本と共に戦ったインド人兵士が戦後、処罰されそうになったことで、ガンディーは彼らを助けるためにも独立を人々に指示しました。第二次世界大戦でイギリスは勝利するも、インドを支配する力はもはやなく、独立を達成します。しかしイスラム教のパキスタンは分離。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は対立し、ガンディーは絶食して抵抗しますが、イスラムを容認しているとしてヒンドゥー教徒のナートゥーラーム・ゴードセーらに、ガンディーを経済的に支えていたビルラー財閥の邸宅で暗殺されました。
ガンディーは非暴力・不服従で抵抗し、その意味では正しい人物ですが、カースト制度の階級は容認しており(カースト外に置かれた最下級の不可触民制度には反対)、近代技術を一方的に否定し、また親族に禁欲を強いるなど、必ずしも万人に受け入れられる思想だったわけではありません。ただ他人には優しい人だったといいます。
ちなみに実際に独立を達成した初代首相ネルーの子孫は代々政治家となり「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれますが、このガンディーはマハトマ・ガンディーではなく、ネルーの娘インディラ(のち首相)と結婚したフィローズ・ガーンディーの姓から来ています。


1972年
北アイルランド「血の日曜日事件」(ボグサイドの虐殺)
長年アイルランド島を支配してきた大英帝国から独立したアイルランド。しかしその北部にある北アイルランド(アルスター地方)だけは、英国領として残りました。イギリスはプロテスタント系の英国教会ですが、アイルランドはカトリック。両者は宗教的にも対立関係にあります。そして北アイルランドのイギリスからの分離を訴える市民は、イギリスの強圧的な支配に抗議してしばしばデモ(北アイルランドでは非合法)を行なっていました。イギリスの公判無しで監禁を認める政策に反発した市民が、ロンドンデリーで集会を開くために集まったところ、イギリス陸軍は落下傘連隊を投入。デモ隊の一部が軍のバリケードへ接近して投石したところ、軍は鎮圧用のゴム弾や催涙ガスで応戦、さらに参加者を逮捕するために進軍。そのさなかにボグサイド地区で逃げ惑う市民に発砲し、27名が撃たれ14名が死亡しました。
軍は裁判で無罪を主張しましたが、のちにブレア政権下で再調査を行ったところ、兵士らの虚偽報告や、当時現場の副指揮官だったマイク・ジャクソン元参謀総長も無実の人々を撃ったことを認めたといいます。
この事件は結果的にアイルランド統一を訴えるIRA(アイルランド共和軍)の過激化を招き、多数の爆弾テロを引き起こしました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:27| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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