2012年01月31日

1月31日の出来事

1月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1879年
高橋お伝の斬首
これが日本で最後の斬首刑となりました。斬首は、確実に人を殺せる処刑法として青銅器時代から行われていましたが、日本では「斬首」は一般庶民に対する処刑法であったのに対し(武家は切腹の上で「介錯」であり「斬首」は大名で松倉勝家の1例だけとされてます)、ヨーロッパでは貴族の処刑法でした。それは他の苦痛を伴う処刑法(逆さで縦に鋸挽きする、串刺しにする、四ツ裂き刑、ゆっくり火あぶりにするなど)に対し即死するため、より軽い刑罰だったわけです。しかしうまく切れずに苦痛を伴うことも多かったことから、苦痛なく処刑できる「人道的」な方法としてギヨタンによってギロチンが発明されました。
日本で最後に斬首されたとされる高橋お伝(高橋でん)は、上野国利根郡下牧村の出身。
慶応2年12月(1867年1月)に高橋浪之助と結婚しますが、その生活は長くは続かず、1872年9月17日、浪之助が癩病を発病して死去。お伝は看病しましたが助かりませんでした。その後の彼女の行動から、夫を毒殺したという風な創作が付け加えられています。その後、小川市太郎という男と恋仲になりますが、この男がろくでもない人物で、借金を抱えてしまいます。困ったお伝は、古物商の後藤吉蔵に借金を相談します。吉蔵は自分と寝れば金を貸すと言われ、迷った挙句、それを受け入れて、明治9年(1876年)8月26日浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で一晩を過ごしました。ところが翌日、吉蔵が金は貸せないと言ったことから、お伝は怒り、剃刀で吉蔵の喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走しました(寝ている間に金を盗もうとして見つかったために殺した、という話もある)。9月9日、強盗殺人容疑で逮捕され、東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で、江戸時代より代々斬首の役目を世襲した山田浅右衛門八代目の弟吉亮により、斬首刑に処されました。
仮名垣魯文をはじめ、小説、演劇、映画、テレビドラマなど明治から現代に至るまで、多くの作品にも描かれており、毒婦と呼ばれている割には、身勝手な男のために身を崩して自滅したその行いに共感や同情する所があるのでしょう。


1912年
女性専用車両の登場
女性専用車両は、現在、JRをはじめ、主に大都市圏の多くの鉄道路線で導入されています。これは痴漢犯罪の被害を軽減させるのが大きな目的です。
この女性保護のための専用車両の考えは、古くからあり、最初に導入されたのは、東京の中央線のうち中野駅〜昌平橋駅で導入された婦人専用電車でした。
朝と夕に運行され、主に女学生の身辺を保護するのが目的だったと言われ、学習院院長だった乃木希典が意見を出したという説もあります。当時はまだ、男女が同じ電車に乗ることは風紀上よくない、という感覚もありました。
女性専用車両はしばしば廃止されては復活を繰り返しており、その過程でシルバーシートも生まれています。なお、観光目的の女性専用車両もありました。
痴漢防止として導入されている近年の女性専用車両ですが、反発もあります。それは男女平等を唱えながら、この件のみ女性を特別扱いしてその車両分不便を強いる男性を差別している、というもの(台湾ではそのために廃止になっている)。また痴漢を行う人への抑止効果はない、というもの。男性に対する痴漢もあること。そして男性への痴漢冤罪が多発していることへの不満から、むしろ男性専用車両を作るべきだ、という意見まであります。ただ女性への痴漢犯罪は多いことから、その対策は当然必要でしょう。
痴漢犯罪とは別に、混雑がひどくなったことから、事業者・利用者共に廃止を求める意見もあります。
外国ではイスラム教のように宗教的に男女を分ける所では女性専用車両があります。
ちなみに、近年のこの女性専用車両は、子供や高齢者、身体障害者、その介助者は男性でも乗車できますが、女性乗客から抗議されて移動や降りる羽目になる事例が見られるといいます。


1917年
無制限潜水艦作戦
潜水艦は、アメリカ南北戦争時代頃に出現した艦種ですが、本格的に戦争に投入されたのは、技術の発達した第一次世界大戦。
ドイツはUボートと呼ばれた潜水艦による無制限潜水艦作戦を開始すると発表しました。
これは潜水艦で、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶は、軍艦だろうが商船だろうが艦種を区別せず、無制限に、無警告で攻撃するというもの。
1915年に短期間だけ、イギリスの周辺海域で実施され、大西洋航路の豪華客船ルシタニア号や客船アラビック号を撃沈しています。しかしドイツ皇帝によって一旦は中止します(ドイツはルシタニア号出港の直前、新聞に警告文を掲載しています)。しかし戦争の長期化を受けて、経済的打撃効果もあり、軍事物資の輸送を止める手立てでもある無制限潜水艦作戦を、英仏周辺海域と、地中海で実施することにしました。
アメリカ人も犠牲になったルシタニア号事件に続き、この作戦の開始によって影響を受けたアメリカ合衆国は、中立をやめて参戦を決定。戦術的には大きな成果を上げたこの作戦は、戦略的にはドイツの敗北の遠因となりました。
無制限潜水艦作戦は、戦時国際法違反に当たる行為ですが、実際には、どの国も、民間船や赤十字船に兵や兵器を運ばせたりすることが多く、いちいち臨検して調べるようなことは実際上困難で、まして潜水艦の用途から考えても、事実上、無制限の攻撃を行なっていました。それは、第二次世界大戦でも変わらず、ドイツや日本ばかりでなく、連合軍のアメリカやソ連の潜水艦も、日本やドイツの多数の民間船を沈めています(ソ連は終戦後も日本の引揚船などを撃沈しています)。


1979年
江川巨人に移籍
作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回など数々の記録を残した、まさに「怪物」と呼ばれた江川卓投手。各球団はこぞって彼の獲得に乗り出すも、当時の江川投手は、大学進学を目指していたといいます。指名した阪急に対し、江川は拒否して進学しました(当時巨人はさほど興味を示していない)。法政大学でも大活躍した江川は、卒業時に巨人行きを希望し、巨人も1位指名を目指しますが、クジ順では福岡のクラウンライターライオンズが1番目。しかし江川は拒否(恋人との交際を理由に関東を離れたくなかったため。巨人以外でも関東の球団であればOKだったという)。結局、1年待ちとなり、米国へ野球留学。その間にクラウンライターが西武に売却されたため、西武が交渉するも失敗。1978年11月21日江川は突然巨人とドラフト外入団で合意。これは交渉権を受け継いだ西武の期限がドラフト会議の前々日に切れること、ドラフト会議の対象者が中学、高校、大学生であること、社会人野球選手は最低2年間プロになれないが、江川は学生でも社会人でもなく留学していたこと、を理由に、この期限切れとドラフト会議の間のたった1日の空白期間を利用して、巨人は契約したわけです(江川は前日に急遽帰国させられ、当日朝に知ったという)。この巨人による空白の一日作戦は、波紋を広げ、他球団の抗議に遭い、ドラフト会議は大混乱。南海、近鉄、ロッテ、阪神が江川を指名。阪神が交渉権を得ます。交渉権があるのは巨人か阪神かという事態の中、巨人はリーグ脱退も示唆し、日本野球機構コミッショナーの金子鋭に判断を仰ぎますが、金子はドラフト会議こそが有効と判断し、巨人入団契約は無効、阪神が交渉権を持つと判定されました。しかしこれでは巨人が収まらないと考え、一旦阪神に入団した後、巨人へトレードするというのはどうか、とアイデアを示します。今度は阪神が反発するも、江川との交渉も難航。ようやく阪神入団を決め、その上で、即日、巨人・阪神間でのトレードが成立。それに巻き込まれたのが、当時巨人にいた小林繁投手でした。彼は唐突に阪神へのトレードを告げられたわけです。これが球界・ファンから激しい批判を受けために、結局、交換トレードではなく金銭トレードとして、阪神は小林を確保、江川は巨人へ移籍しました。
いまでこそ、穏やかな解説者として知られる江川氏も、この事件で長いことマスコミやファンから悪人のレッテルを貼られていました。のち小林と江川はお酒のCMで共演し、当時のことを語り合って大きな話題となっています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:26| Comment(0) | 1月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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