2012年02月16日

2月16日の出来事

2月16日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

901年
昌泰の変で菅原道真が大宰府へ左遷される(延喜元年1月25日)
菅原道真は、宇多天皇の信任を受けて、寛平の治を進めた人物。この背景は、人臣最初の関白となった藤原基経に煮え湯を飲まされた経験がある天皇が、基経の死後、摂政・関白を任命せず、清和天皇、陽成天皇のもとで政治を行った源能有(臣籍降下した皇族)を引き続き採用し、彼と親しい菅原道真を登用しました。一方、基経の子である藤原時平も登用し、平季長らも含めて、政治を行わせました。道真は、藤原氏に対抗する存在として天皇から重用され、相応に出世していきます。自分の娘衍子を宇多天皇の女御に入れ、娘寧子を宇多天皇の子・斉世親王の妻としました。自らが大使に任命された遣唐使の停止を建議し、遣唐使は中止となります(唐の滅亡で廃止)。
宇多天皇が醍醐天皇に譲位した際も、道真を重用するよう強く勧め、醍醐天皇は、菅原道真と藤原時平のふたりだけに官奏執奏の特権を認めました。
道真は有力貴族や寺社の勢力をそぎ、王朝に権力を戻そうと改革を進めます。しかしそれは、藤原氏を忠臣とする貴族層の反発を買います。これをみて三善清行は道真に引退することを勧めますが、道真は受け入れませんでした(三善は官僚登用試験で試験官の道真に落とされた過去があり、両者の間は微妙なものだった)。
延喜元年(901年)、道真は娘を嫁がせた斉世親王を皇太弟に立て醍醐天皇から皇位を継がせようとしていると誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷されました。その時詠んだのが、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の名句。
道真の子4人も流刑に処され、源善、源希、藤原忠平らも追放され、斉世親王は仁和寺に入って真寂と名乗りました。これを昌泰の変といいます。
権力を王家に集中させたい宇多上皇と、藤原氏のもとで安定した地位を得たい醍醐天皇の対立に道真がスケープゴートになったとも考えられます。道真はまもなく大宰府で亡くなりました。
実権を握った藤原時平は、改革を進めますが、39歳で急死。道真の祟りだと言われます。
その後、左遷されていた藤原忠平が復活。道真の進めた改革は形を変えつつ続行され、延喜・天暦の治となりました。
のち、清涼殿に落雷があり、道真の監視をしたことがある藤原清貫らが死亡。道真の怨霊だとされ、焼死した貴族らの無残な光景を見た醍醐天皇は大きな衝撃を受けてまもなく崩御しました。


1222年
日蓮の誕生(貞応元年2月16日・ユリウス暦1222年3月30日)
日蓮は日蓮宗(日蓮法華宗)の開祖。死後、皇族から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を受けています。
安房国の出身。漁師の子と言われ、安房鴨川の清澄寺に入り、のちに比叡山、三井寺、高野山などで学び、1253年6月2日(建長5年4月28日)に清澄寺で「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて立教・開宗します。この題目はインドの大乗仏教の経典を鳩摩羅什が翻訳した『妙法蓮華経』からきており、「法華経の教えに帰依をする」という意味で、これを唱えることで仏性が生まれ、真の成仏への道を進むことが出来る、というのが日蓮宗の特徴。もともと聖徳太子が『法華義疏』を記すなど、法華経は日本でも伝来当初から崇められてきた教義で、天台宗などでも唱えられていたもので、天台宗で学んだ経験のある日蓮はそこから影響を受けたとも言えます。日蓮によって法華経は仏教界の中で大きく伸びていきます。
日蓮は当時の世の中に起こる様々な問題が、法華教を軽視した結果だと考え、法華経を信奉するよう権力者に何度も意見を送り、「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と他宗派を厳しく非難したことから、たびたび、他宗派の猛攻撃を受けました。
その結果、幕府によって文永8年(1271年)9月12日に滝口の処刑場で処刑されそうになったことも(処刑直前に光(稲妻?)が走り、兵が怯えて中止になったといった話が伝わっています)。
日蓮は、1282年11月14日(弘安5年10月13日)、武蔵池上の地頭、池上宗仲邸にて入滅しました。
法華宗は多くの従来の宗教と対立しつつも信者を増やし、戦国時代に大規模に勢力を拡大。明治に入り日蓮宗と称し、教義の解釈から大きく日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ、昭和初期には、国家主義的なところが軍人や右翼に信奉され、もてはやされました。現在は勝劣派富士門流系の日蓮正宗とそこから分裂した創価学会が特に大きな勢力ですが、他にも多くの分派に分かれています。


2006年
堀江メール問題事件
衆議院予算委員会で民主党の永田寿康議員が、証券取引法違反で起訴された堀江貴文社長が、社内メールで自由民主党幹事長武部勤の次男へ、選挙コンサルタント費用として3000万円の現金振り込みを指示した、と指摘して起こった事件。
民主党としてはライブドア事件に便乗して、この「メール」情報を下に政権への攻撃を強めようとしたわけです。
武部勤は当時にこれを否定。さらに小泉首相も「ガセネタ」と否定します。堀江貴文を捜査中の東京地検に問い合わせたところ、そのメールについては把握していないという返事があったからだとされています。実際東京地検も否定のコメントを出します。
そこで民主党はメールの写しを公表しますが、これが初歩的な知識でもわかるようなおかしな点だらけの珍妙なシロモノで、捏造ではないかとの疑惑が持ち上がります。
2月21日、前原誠司代表は新たな証拠を提示する旨の発言をしますが、新たな証拠は一切出てこず、肝心の永田議員も雲隠れ。鳩山由紀夫幹事長は、永田議員を辞職させずに、こういう場合の常套手段である「入院」させます(5日間入院させ、病院に1000万円を払った)。
28日、永田議員は疑惑は残っていると会見で話すも、3月2日には謝罪。同日、懲罰委員会に架けることが決定。永田議員も前原代表も辞任を否定。懲罰委員会にかけられた永田議員は、メールの仲介者がデュモンマーケティングの西澤孝社長だと明かします。その人物と複数の民主党議員が関係があり、それで永田議員が信じたのだろうと言われています。
民主党は議員辞職を拒んでいた永田を説得して、自ら辞職させ、証人喚問を回避しました。
党利党略のために姑息な手段を使ったことと、基本的な知識も持たない、あるいはそれを調査しようともしない未熟ぶりがあからさまになった事件でした。


2006年
神戸空港が開港
神戸空港はポートアイランドの沖合を埋め立てられて作られた空港。愛称はマリンエア。市営空港で、建設費3140億。大型ジェット機就航の最低限となる2500mの滑走路を1本持っています。神戸に空港を作る発想は古く、終戦直後から見られました。関西では大阪の伊丹空港は、ジェット化が進み、都市化していく中で騒音問題が出ており、新空港建設の問題が出ると、神戸の沖合も大規模な空港建設の候補に上がります。新空港は、後に関西空港が建設された泉州沖や、淡路沖などと共に競争になる一方、当時成田問題などで盛んだった過激な反対運動を懸念して、計画は継続するも実際問題として神戸空港は進みませんでした。その後、地元市民の間では空港建設を求める動きが起こる一方で、建設への負担や競合する交通機関の多い神戸で利用率を疑問視する意見から反対も起こりました。
1995年、阪神大震災が起こり、復興に絡めて防災拠点と絡めた空港建設の話が登場。国の認可もおり、計画は急速に進み、ポートアイランドの沖合に空港島が建設されました。反対派も絡んで、リコールと選挙が繰り返される市の政局を巻き込みますが、2006年に開港。ポートライナーも延伸します。市の試算では初年度319万人を見込んでいましたが、実際には約270万人でした。見通しが甘かったのかは意見の分かれるところですが、大きな需要があることもわかります。しかし日本航空の撤退などで、不要不急の空港の代表のような見られ方をされた時期もあります。一方でローコストキャリアの航空会社は、利用料の高い大規模ハブ空港を避けてローカル空港を使うことにメリットを見出しています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:17| Comment(1) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ここではあなたが物語の主人公です。あなた視点で物語は進行していきます。実際に体験してもらうんです!
Posted by どきんちゃんメール at 2012年02月16日 15:15
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