2012年02月17日

2月17日の出来事

2月17日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1904年
プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の初演
蝶々夫人は、小説家ジョン・ルーサー・ロングが、長崎で暮らした経験のある姉のサラ・ジェーン・コレルから聞いた話を元に記した短編小説で、1898年にユタ大学の学生雑誌『センチュリー・マガジン』で発表されました。日本に来たアメリカ海軍士官ピンカートンと結婚した没落士族の娘、蝶々さんの一途な想いと、ピンカートンの真実を知った後に訪れる悲劇を描いています。蝶々さんのモデルは、グラバーの妻ツルではないか、という説もあり、モデルはいない、という説もあります。この作品が劇作家デーヴィッド・ベラスコの手で戯曲となり、その劇をロンドンで見たプッチーニが、オペラとして作曲して制作され、ミラノのスカラ座で初演を迎えました。当時すでにプッチーニは成功を収めていた作曲家。歌劇『トスカ』にも関わったジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカに台本をまとめさせ、日本の文化を取り入れるために資料を集め、日本の音楽が録音されたレコードも手に入れました。異国情緒のある異色のオペラの制作を意欲的に進めたわけです。その途中、交通事故で重傷を負うも、意欲は衰えませんでした。
ところが、この初演は大失敗。あまりに異国情緒過ぎて理解しにくかった、とか、長すぎた、などと言われています。プッチーニは負けじと、大幅に内容を手直しして、同年5月28日にイタリア・ブレシアで上演し、成功を収めました。
蝶々さんが歌うアリア「ある晴れた日に」は、単独の歌としても有名。


1937年
死のう団事件
通称「死のう団」と称される宗教団体は、正式には「日蓮会殉教衆青年党」。
日蓮宗の系統で、江川桜堂という人物によって興された新興宗教。江川は権力と結ぶ日蓮宗各派を批判し、日蓮宗の教義を排除して日蓮の遺文をもとにした勉強会を開いたのが発祥とされています。
一時は500人の信者を抱えるほどになりますが、日蓮会館に入り浸っていた一人の女性が江川に言い寄ったという話からその女性を愛人にしていた建設業者とトラブルになり、信者の脱会が相次ぎます。
そのような状況に危機感を感じた江川に忠実な若い信者らが、不惜身命を唱えて結盟しますが、これがやがて、国や宗教、江川のために死のう、と唱えるようになります。
1933年7月2日、江川ら28名は「殉教千里行」をはじめます。これは、鶴岡八幡宮に祈願し、全国を説法して回るというものでした。彼らは横浜の杉田梅林に集合し、江川のいる鎌倉へ向かって、太鼓を叩きながら「死のう」と叫んだりしながら行進します。当然、通報を受け、その夜、逗子で野宿しようとしたところを検挙されました。そして、厳しい取り調べを受けます。テロ行為を企んでいたのだろう、とでっち上げられ、拷問が行われ、女性も裸にされて取り調べられるという有様。メディアも血盟団事件に絡めて、要人を狙ったテロ集団のように報道され、江川は好色漢と記事に書かれました。しかし証拠もなく、結局、事件は一旦収束します。
江川らは釈放された後、検事局へ出向いて、特高の行った(特に女性への)取り調べを人権蹂躙と訴えます。
警察側もこれが問題視されることを恐れて、日蓮会に金を払って妥協を求めますが、江川はこれをかたくなに拒絶。川崎署の特高主任が責任をとって自殺、帝国議会でも取り上げられるなど政治問題になり、特高課員は不起訴になるものの、危機感を持った警察は残っている信者を監視下におきます。
この事態に、江川ら信者は会館に籠城。僅かな食料の中で、一部信者は自殺をほのめかしますが、江川はこれを抑えるも、1937年2月17日、5人の信者が、宮城(現皇居)前広場、国会議事堂敷地、首相官邸近くの外務次官邸、警視庁正面玄関ホール、内務省3階の便所で次々と切腹(ただし江川の要請もあり致命傷にはならない程度に)。他にも「死のう」と叫んでビラを巻く人が数名出ました。会館は強制捜査。江川が病身をおして出頭、特高部長は彼を諭して釈放しました。
しかし江川の病気はすでに重篤な状態で、東大病院での治療も効果なく、3月20日早朝、日蓮会館で33歳で死去。残った信者数名が後追い自殺をし、教団は滅びました。
「死のう団」はマスコミなどが呼んだ名ですが、その滑稽な名とは裏腹に、社会から浮き、権力に抹殺された小宗教の悲哀が見え隠れします。


1972年
フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)の累計生産台数がフォード・モデルTの生産記録を抜き世界一に
ドイツを代表する国民車フォルクスワーゲンは、フェルディナンド・ポルシェによって開発された四輪自動車。
彼は高性能の大衆車を考えていましたが、現実には難しい問題でした。しかし、ナチス・ドイツの権力化過程で、1933年、ヒトラーが打ち出した国民車構想がポルシェと結びつきます。車好きのヒトラーは、ダイムラー・ベンツの出身で、アウトウニオン(現アウディの前身であるメーカー)にも関わっていた設計者ポルシェに、非常に厳しい条件を課して、研究開発を依頼しました。それは、メンテナンスをほとんど必要としない頑丈な車で、巡航速度が時速100km以上、7リットルの燃料で100kmを走り、空冷エンジンを搭載し、流線型をしたデザインの車を、1000マルク以下で売るというもの。
当時の車の概念をはるかに超える条件でしたが、ポルシェは自動車大国アメリカに行ってフォードに会い、生産方法を熱心に学び、技術開発にも努めます。しかし予算は限られ、トラブルも多く、なかなか進みませんでした。1938年、ようやく完成。
丸みを帯びたデザインはポルシェ自身がデザインしたもののほか、チェコのタトラ社の設計者でポルシェの知人だったレドヴィンカのデザインしたT97などの影響を受けているとも言います。当時、流線型やアーチ型の丸みのある表現主義的なデザインは急速に登場したものでしたが、それでも当時の自動車とは全く比べ物にならない斬新的なものでした(タトラは後にナチスによって生産中止に追い込まれた)。
ところが、ヒトラーは戦争を開始。その影響で生産工場まで完成したタイプ1の生産はできませんでした。
戦争で工場も破壊され、ナチス敗北で、タイプ1は日の目を見ないところでした。戦後、連合軍がドイツの財産を接収し始めますが、米英ソの生産関係者はタイプ1を見ても、その価値を理解できず、手を付けませんでした。
そんな中、進駐していたイギリス軍の将校アイヴァン・ハーストは、この車の価値に気づき、工場の再建に協力。ドイツ人労働者をして生産を進めます。そして連合軍にも導入させ、1946年には生産1万台を突破。斬新なデザインと、異常なほど頑丈で、見た目以上のパワフルな性能に、各国で評判となり、その後、欧米諸国や南米に大量に輸出され、莫大な外貨を獲得してドイツの復興に大きな助けとなりました。ヒトラーによって生み出され、ヒトラーの滅んだ後に、まさに「国民車」となったわけです。
その独特の形状が世界中であだ名を付けられ、特にカブトムシを意味する言葉が多く、その代表的な「ビートル」が一般的な名称となりました。フォルクスワーゲンも、後継車ニュービートル以降は正式にビートルと名乗っています。
1972年2月17日、累計生産1500万7034台に到達し、フォード・モデルTの1500万7033台を追い抜き、世界一となりました。
2003年7月30日、メキシコ工場でタイプ1の最終車両が完成し、四輪自動車としては世界最多の総生産台数2152万9464台で終了。
なお輸送車両として最もたくさん生産されているのは、ホンダのスーパーカブです。


1977年
沖縄で唯一の降雪
この日、沖縄県の久米島にある測候所で、みぞれを観測しました。みぞれは雪と雨が混ざった中間のような状態ですが、気象観測上では「雪」に分類されます。そのため、この観測は、近代気象観測が始まって以降、沖縄における唯一の降雪の記録となっています。もちろん、公式記録というのは、気象台や測候所での観測を基本としており、またこの年が異常なほどの極端な寒波だったわけではないため、沖縄でもこれ以外の降雪の存在は考えられます。最近でも、雪が降っているのを目撃した、という情報はしばしば新聞などにもたらされるそうで、気象条件や湿度、時間帯、場所によっては、5度くらいでも雨にならず雪になることがあるので、沖縄県内でも地上付近まで到達することもあるでしょう。本土でも、鹿児島や伊豆諸島では雪が時折降りますが、それより北に位置する宮崎平野や紀伊半島南端、房総半島や東京ではめったに雪は降りません。
葛飾北斎の作品に『琉球八景』というのがあります。その中の一つ現在の那覇市漫湖の奥武山公園付近を描いたと見られる「龍洞松濤」がなぜか雪景になっています。北斎は想像して描いたものと考えられるため、実際には降っていないというのが定説ですが、江戸中期は現在よりも平均気温が低いため、雪景というのは大げさにしても、雪が降ることは相応にあったかもしれません。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:01| Comment(0) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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