2012年02月22日

2月22日の出来事

2月22日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

705年
武則天が退位し武周朝が終わる(神龍元年1月24日)
武則天は、唐の皇帝高宗の皇后で、中国歴代王朝で唯一の女帝。名は武照。利州都督の次女で、幼い彼女の美貌を見て、父親が将来の皇妃を期待して英才教育を施します。
14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位のひとつ)となり寵愛を受けますが、「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と噂が流れ、太宗は武照を疎遠にしていきます。彼女は処刑されるのではないか、と恐れるようになり、じぶんに興味を示していた太宗の子の李治を籠絡し、彼の寵愛を受けるようになります。
太宗が崩御すると、李治が即位。武照は本来出家するべきところを女性の道士となります。
高宗の王皇后と蕭淑妃が対立し、皇后は高宗を蕭淑妃から離すため武照の入宮を高宗に勧めます。武照は昭儀(妃の地位の一つ)となり、高宗の寵愛を受けました。しかしこの結果、王皇后も疎遠にされ、皇后の廃位と、武照の立后が図られます。もともと太宗の妃だったため、臣下らは反対しますが、立后の詔書が出されて皇后に。武照は王元皇后と蕭淑妃を残酷な方法で殺害。病弱な高宗に代わり政治に乗り出します。自分の立后に貴族らが反対したことから、親族の武氏や、関隴貴族集団の出身ではない狄仁傑・姚崇・宋mなど才能のある人物を登用。密告を奨励して臣下を監視。
対外にも積極策に転じ、百済を滅ぼし、倭を白村江で破り、高句麗を滅ぼします。
専横する武后をみて高宗は廃位を画策しますが、武后はこれを阻止。高宗の病気治療すら止めたといわれ、高宗は崩御。
子の中宗が即位すると、中宗の皇后韋氏が血縁者を登用したことを口実に、中宗を廃位し弟の睿宗を新皇帝に擁立。
皇族らの反乱を鎮圧し、彼女は女帝出現の予言書を流布させ、ついに690年(天授元年)、自ら帝位に就きました。国号を「周」とあらため(「武周」と呼ばれる)、天授と改元。睿宗は皇太子に格下げされます。仏教を重んじ、諸寺を造営。大雲経寺を全国に置きました(日本の国分寺のモデル)。皇帝と皇后をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名し、新しい漢字を創り、頻繁に年号を改元しました。
しかし社会は混乱し、唐王朝復活への機運が高まっていきます。武則天が病がちになると、鳳閣侍郎の張柬之は、武則天に重用されていた張易之・昌宗兄弟を殺害。武則天に「則天大聖皇帝」の尊称を奉って位を退かせ、中宗が復位、国号も唐に復しました。中宗は武則天の実子であることや、武周の重臣の多くは関隴貴族と関係を結んだため、大きな政変にはならず、静かに唐王朝に戻りました。


1943年
「白いバラ」運動メンバーが処刑される
この運動は、ナチス・ドイツ政権下で行われた、学生等による反政府運動。中心人物はハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルの兄妹。メンバーの多くは、東部戦線や西部戦線に出兵していた学生ら。戦場の悲惨さやポーランドユダヤ人の迫害を目の当たりにして衝撃を受け、反戦と政権批判をするようになりました。
メンバーはビラを作ってドイツ南部を中心に郵便などを使って配布しますわかり易い文章で、理解しやすいようにしていたそうです。スターリングラード攻防戦でドイツ軍が壊滅すると、さらに反戦を主張するようになります。
そして、この年の2月14日と16日にミュンヘン市内でビラをばらまいた後、残りをミュンヘン大学で撒こうとして、ナチス党員の大学職員に見つかり、拘束されました。兄妹は自分たちだけで責任を取ろうとしますが、メンバーのクリストフ・プロープストも逮捕され、2月22日に死刑判決を受けて、即日ギロチン斬首されました。他にもヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレル、とクルト・フーバー教授らが逮捕。裁判で死刑判決を受け、同じくギロチン処刑されました。ナチスは独裁体制でしたが、学生らの反政府運動は比較的盛んで、他にも多数の組織が活動していました。
戦後、ナチスに立ち向かったとして賞賛され、ショル兄妹と、フーバー教授の名は、各地で学校や公共広場、出版賞などの名前になっています。


1989年
吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日
佐賀県の脊振山地南麓の吉野ヶ里丘陵は古くから遺物が見つかることがあり、昭和に入ると弥生式土器や甕棺墓がみつかり、地元の研究者らによって発掘調査がすこしずつ行われるようになりました。しかしまったく知られておらず、注目されることもありませんでした。その吉野ヶ里に大規模な遺跡の存在を匂わせるようになったのは、ここが開発されてきた1970年代から。造成を行なおうとすると、次々と遺物が発見されます。佐賀県が調査を検討しますが、1982年、工場団地建設のための事前調査まで具体的な調査はありませんでした。そしてこの事前調査で、想像以上の大規模な遺跡が眠っていることがわかります。
佐賀県は工場団地の計画を縮小。本格的な発掘調査が行われます。そして日本で始めて、大規模な環濠集落が発見され、1989年2月22日、マスコミに大々的に公開されました。邪馬台国の跡地ではないか、と話題になり、歴史ファンが殺到します。邪馬台国九州説は大いに盛り上がりました。工場よりも遺跡の保存をすすめるべきだ、という意見が地元を中心に広まります。それを推奨したのが、弥生時代の研究者で、考古学の啓発活動を進め、遺跡の整備に奔走した考古学者の佐原真。その意見を受けて、佐賀県は工場団地開発を中止。1991年(平成3年)4月に特別史跡に指定。1992年(平成4年)、政府はここを国営歴史公園に決定します。
吉野ケ里一帯からは、環濠や墳丘墓が多数見つかり、巨大な建造物の後も見つかっています。戦で負傷したらしき人物の埋設された遺体も見つかっており、その集落の防御構造からも、戦乱の時代があったことをうかがわせます。弥生時代の「国(クニ)」の一つと考えられています。しかし古墳時代に入ると、人々はより平野部へ移り、吉野ケ里の「国」は消滅しました。


2011年
ニュージーランド・カンタベリー地震
日本と同じ火山国で地震も多いニュージーランドの、南島にあるクライストチャーチ近郊で起こったのが、カンタベリー地震。この地方も過去しばしば大きな地震が起こっていますが、この日起こったのは、クライストチャーチ近郊のリトルトン、地下わずか5kmという場所で起こったマグニチュード6.1の規模。エネルギーの規模はまずまずの大きさ。しかし震源が浅かったためか、激しい揺れに襲われ、名所だった海岸のラパヌイ岩が崩壊した他、クライストチャーチ市内の著名な大聖堂の尖塔が崩れおち、同国際空港の管制塔も倒壊。市内の数カ所のビルと多数の住宅が壊れました。中でも、カンタベリー・テレビの入っていたCTVビルは完全に潰れ、大勢の人が下敷きになりました。しかもビルには語学学校があり、語学留学のために同地に滞在していた日本人が多数いました。全体の死者は185人、そのうち地元ニュージーランド人を除くと28人が死亡した日本人の犠牲者が最も多い結果となりました。1975年に建てられた同ビルは、やや古いとはいえ、鉄筋コンクリート製。それが完全に倒壊したのは、揺れの激しさだけでなく、隣接するビルの解体工事で壁に穴が開けられていたことや、前年に起こった地震のあとにきちんと調査をしていなかったこと、そして構造的に欠陥があったからだと言われています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:05| Comment(0) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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