2012年02月25日

2月25日の出来事

2月25日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1836年
サミュエル・コルトがリボルバー式拳銃の特許を取得
リボルバー式拳銃の代表とも言えるコルト。
その特許をとったのが、サミュエル・コルト(1814〜1862)。子供の頃に乗馬用拳銃を手に入れて魅了され、さらに11歳で年季奉公に出されたグラストンベリー農場の時、科学事典「知識の大要」を読み、銃の発明家になることを夢見るようになります。
1829年、コルトはマサチューセッツ州ウェアの父親の繊維工場で働き始め、技術を手にし、いくつかの発明を行いました。1832年には、父親の指示で海上交易の知識と経験を得るため、宣教師のお供でコロ号に乗ってインドのカルカッタへ。コルトは、船の動輪を見て、リボルバー拳銃の概念を思いついたといいます。
コルトはアメリカに戻ると、父親の工場でまた働き始めます。そして父親の資金提供を受けて、2丁の拳銃を製作します。しかし一方は爆発し、一方花にも発射されないシロモノでした。銃の作り直しを繰り返し、ようやくリボルバーの特許を申請、認められました。
当初は殆ど売れませんでしたが、米墨戦争をきっかけに売れるようになり、西部開拓の流れに乗って広まり、ライバル銃器製造会社への特許使用の訴訟にも勝って、リボルバーといえばコルトとなったわけです。


1890年
ヱビスビールの誕生
ヱビスビールを生み出したのはサッポロビールの前身である日本麦酒醸造會社。ドイツ人技師カール・カイザーを招聘して醸造し、「惠比壽麦酒」という名前で売りだされました。もともと「大黒天」の名をつけようとしたものの、横浜に「大黒ビール」というのが存在したために「えびす」を採用したそうです。
発売当初から人気を博し、1890年の上野内國勸業博覧會で「最良好」を、1900年のパリ萬國博覧會で「金賞」を、1904年のセントルイス萬國博覧會でもグランプリを獲得しました。
ヱビスビールを生産していたのが、当時の東京府荏原郡三田村(現在の東京都目黒区三田)で、出荷のための専用貨物駅が1901年に誕生します。これが現在の恵比寿駅であり、渋谷区恵比寿の地名もまた、このビール工場から生まれたものです。
日本麦酒は、大阪麦酒、札幌麦酒と合併して大日本麦酒となり、70%近いシェアを獲得しました。これは政府の意向もあったと言われています。終戦後、財閥解体指令によってアサヒビールとサッポロビールに分割され、ヱビスビールはサッポロビールから発売されています。


1901年
USスチールの創業
アメリカ最大の製鉄会社がUSスチール。
創業したのは、銀行家ジョン・ピアポント・モルガン。一企業家ながら政治家を動かして金本位制を進め、資金を集めてアメリカの財政を支えたこともある人物。鉄道や海運業にも関わっていました。彼はフェデラル・スチールの創立に融資したことで、その株式を保有していました。その会社と、アンドリュー・カーネギーが保有していた製鉄会社カーネギー・スチールの合併により、1901年2月25日、ペンシルベニア州ピッツバーグにUSスチールが設立されます。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルでした。USスチールは他の中小製鉄会社を次々と買収。世界初の10億ドル企業となり、市場シェアは75%に達する勢いでしたが、初代社長のチャールズ・シュワブとジョセフ・ウォートンがベスレヘム・スチールを設立し、建設業界のシェアを奪い、造船業にも乗り出したため、USスチールのシェアは50%にまで抑えられる結果となりました。最大時には年間3500万tを生産し、従業員35万人を抱える超巨大企業となりますが、政府の圧力によって、買収計画は度々頓挫し、その後は縮小してきました。それでも世界7位規模の生産力を持っています。


1977年
超音速戦闘機F−1の量産1号機がロールアウト
第二次世界大戦終結後、初めて日本が独自開発した戦闘機が、三菱F−1。
戦後、航空自衛隊が発足すると、主力戦闘機は、アメリカのF−86セイバーを導入。1956年3月11日からノックダウン方式で国内生産するようになります。F−86Fを435機、F−86Dを122機配備し、防衛を担いました。
しかしセイバーは初飛行が1947年と古く、航続距離や兵装の点でも不十分で、次期主力戦闘機(F−X)の機種選定が課題となります。航空自衛隊ではF−104スターファイターも一部導入していましたが、大規模なセイバーの機種転換は困難な状況でした。
そこで検討されたのが、国産機の開発と、アメリカからの購入の2つでした。購入の方は、アメリカでF−104との競争に敗れたN−156Fが、日本へ売り込みが行われていたため、その練習機タイプのT−38と、戦闘機タイプのF−5を導入しようという動きが高まります。経済性で言えば、購入したほうが安上がりなので、かなり有力視されましたが、国内航空産業の技術力を高める、という名分により、国産機開発の方へと流れが変わりました。また、この時すでに開発されていた万能戦闘機F−4ファントムUの導入を視野に、国産の超音速練習機の開発が計画されていました。その超音速高等練習機T−2を実戦機として転用できる前提で開発し、その転換を行ったのが、F−1戦闘機です。そのため元々はFS−T2改と呼ばれていました。
量産1号機は1977年2月25日にロールアウトし、6月16日に初飛行。9月16日に自衛隊へ納入されます。1987年3月9日の77号機まで生産納入されて終了しました。
主力戦闘機はF−15に移り、さらにF−1に代わるF−Xの機種選定は、欧米の戦闘機の他に、時間的余裕から国産機の開発が有力視され、三菱もその気でしたが、結局、日米貿易摩擦などが影響して、F−16を基本として日米共同開発されたF−2に更新されました。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 03:35| Comment(0) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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