2012年02月26日

2月26日の出来事

2月26日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

745年
行基が大僧正になる(天平17年1月21日)
行基は、日本の奈良時代の僧。河内国大鳥郡(現大阪府堺市)に生まれ、幼くして出家。道昭のもとで学び、僧侶団を率いて各地へ赴くと、社会事業に取り組みました。その規模は非常に大きく、数多い寺院や尼院、道場は言うまでもなく、橋を架けたり、農業貯水池を掘ったり、港湾を整備したりしています。基本的に民衆のために事業を行いました。
そのため、庶民に非常な人気を得ました。庶民だけでなく、地方の豪族にも彼を支持するものが多数いました。
朝廷はそんな行基を、僧尼令に違反するとして養老元年4月23日詔を出して、弾圧しました。
これは表向きは国家仏教として管理し、寺外での民衆への布教を制限していたことがありますが、民衆の大きな支持を受ける彼とその教団を、朝廷や、従来の教団が恐れたということもあります。
しかし、行基の活動はあくまで社会事業で、中央の権力には関わらなかったことや、その民衆の支持を利用したいと考えた朝廷によって、逆に公共事業のために彼を利用することを考えつきます。行基も協力しました。おそらく逆らうよりは、朝廷に協力することでより庶民を救えると考えたのでしょう。彼は大仏建立のための勧進責任者となり、開眼供養の導師として太宰府までインドの僧、菩提遷那を出迎えに行っています。それらの功績で、738年(天平10年)には行基大徳の称号を、745年(天平17年)には日本最初の大僧正の位を贈られました。


1714年
絵島生島事件(正徳4年1月12日)
江島(絵島)は、6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母となったお喜世の方(月光院)に家宣が甲府藩主だった時代から仕えていた女性。そのため、大奥に入ると、月光院のもとで強い権力を握りました。
この日、江戸城大奥御年寄の江島は、月光院の名代として徳川家宣の墓参のため、奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣しました。その帰途、呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座に行き、芝居見物。
山村座の看板役者は生島新五郎。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開きますが、大奥の門限に遅れてしまいます。大奥七ツ口で、門番と通せ、通さぬと、押し問答をしている内に、この騒ぎが知れわたってしまい、評定所が審理することになりました。実は大奥には、家宣の正室だった天英院を中心とする勢力が、月光院の勢力と対立関係にあり、月光院が新井白石や側用人間部詮房らと親しい事から力を持っていました。そのためこの騒ぎは、天英院側にとって、絶好の機会。さらに新井や間部の権力に不満を持つ譜代大名らとの権力闘争も背景にあったとも言います。
調査の結果、本来将軍個人に仕える大奥の風紀が緩んでいたこと、江島は生島と密会していると疑われて、死罪のところ、遠島に決まります。彼女の兄で旗本の白井平右衛門は斬首、弟の豊島常慶は重追放となりました。
月光院がさらに嘆願して、江島は信濃高遠藩内藤清枚にお預けとなり、高遠城の囲い屋敷に幽閉されました。一方の生島も、三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。他の芝居小屋も営業を大幅に制限されました。芝居に誘った後藤らも遠島。50人ほどが連座されました、
大奥は天英院派が権力を握ります。彼女が推したという徳川吉宗が8代将軍となると、高遠藩主内藤頼郷が江島の赦免を願い出て認められ、幽閉処分だけは解除されました。生島も遠島を解除され江戸に戻ったといいます。
明治以降、芝居で取り上げられ、映画やドラマの題材にもなりました。


1789年
エクリプス死す
現在の競走馬の品種はサラブレッド。競走馬はより強い馬の系統が育成され、残ることになります。そのため、競走馬の系統は、特定のいくつかの馬の子孫になっており、特にその父系の祖先は、三大始祖と呼ばれています。
三大始祖とは、ダーレーアラビアン・バイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンの3頭のアラブ系種牡馬ですが、さらに、その強さからこの系統を発展させ、サラブレッドにつながっていった3頭をサラブレッドの三大始祖とも呼びます。それが、バイアリータークの子孫ヘロド、ゴドルフィンアラビアンの子孫マッチェム、そして、ダーレーアラビアンの子孫エクリプスです。
現在のサラブレッドは、このエクリプスの父系子孫にあたります。
エクリプスは、イギリスの貴族らの間で行われていた競馬で圧倒的な強さを誇り、すでにそのデビュー戦である1769年5月3日のエプソム・ノーブルメン&ジャントルメンズプレートの際に、馬主デニス・オケリーの着順予想セリフ「Eclipse first, the rest nowhere」(エクリプスが1着、あとはなし)が見事に当たり、これは、相手を圧倒するという意味の慣用句になりました。


1936年
二・二六事件
日本陸軍の青年将校らが起こした有名なクーデター事件。
事件の背景は、経済不況における不満、陸軍内部の皇道派と統制派の対立があり、皇道派の陸軍将校らは、天皇直属の国家体制の実現を考えるようになります。これは統制派の軍首脳部が、統制経済を推進し、高度国防国家体制を成立しようと考えていたことと対立します。青年将校は、軍事クーデターによって、天皇直結の体制に障害となる元老や腐敗政治家、財閥家、官僚、軍幹部らを排除しようとしました。これを「昭和維新・尊皇討奸」と称し、この思想の背景にあったのが、国家社会主義者北一輝の『日本改造法案大綱』でした。しかし統制派は感づいてこれを警戒。その実現のために活動を始めた磯部浅一、村中孝次が逮捕され、さらに皇道派と統制派の人事対立から起こった永田鉄山暗殺(相沢事件)が、青年将校らを刺激します。青年将校らは、単に彼らだけでことを起こそうとしたわけではなく、事前に皇道派の軍幹部にも度々あって、特に山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官らは、彼らを支持するような言葉を匂わせました。川島義之陸軍大臣は理解は示すも、曖昧な言葉で彼らを抑えようとします。それが逆に不満を高める結果となりました。青年将校らは真崎らが協力すると考え、満洲派兵のまえに決起することにし、1936年(昭和11年)2月26日未明、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を動員して、帝都中枢を襲いました。
岡田啓介首相、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣、元老西園寺公望らを襲撃。斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害します。鈴木侍従長は重傷。岡田総理はたまたま居合わせた松尾伝蔵大佐が犠牲になったことで難を逃れのち邸宅を脱出、牧野伸顕は警官が応戦する間に脱出、西園寺公望は予定変更で襲撃されず自身も事件を察知して避難していました。そのあとさらに、後藤文夫内相、一木喜徳郎枢密院議長、三井財閥の三井高公、三菱財閥の岩崎小弥太なども殺害の対象となっていました。
軍部隊は永田町一帯を制圧します。事態を知った閣僚らは宮中に上がり、後継内閣を編成しない事で一致しこれを上奏。天皇もこれを受け入れます。一方、皇道派の真崎甚三郎は伏見宮とともに新内閣の成立を急ぎ、昭和維新の大詔を天皇に上奏しますが、天皇はこれを受けず、川島陸相の参内に対しても、即急に鎮圧するよう命じます。首謀者への勅使の派遣による収拾案も激怒して拒絶。天皇は側近を殺されたことに大きな衝撃を受けたようで、立憲君主の立場を理解しながら、自らの意見を押し通しました。
天皇の強硬な意思を知り、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が出されると、当初は反乱に同情的だった人々も、立場を翻し、もはや鎮圧しかないと判断。また当初から反発していた海軍も陸戦隊を上陸させ、戦艦長門の主砲を反乱軍部隊へ向けます。
士官と兵士を区別し、ラジオ放送やビラ、アドバルーンで兵士に対し、天皇の勅命が下ったので、原隊に復帰するよう訴え、指揮した士官らもこれ以上は無理と判断。以降は法廷闘争にすべく降服しました。
首謀したとして死刑判決を受けた将校15名は、7月12日に刑が執行されました。

以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:03| Comment(0) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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