2012年02月27日

2月27日の出来事

2月27日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1593年
碧蹄館の戦い(文禄2年/万暦21年1月26日)
豊臣秀吉による朝鮮出兵の文禄の役。
その中で、朝鮮王朝の混乱もあり、日本軍は半島北部へと進軍しますが、そこへやって来たのが明軍でした。
明軍は平壌を奪還し、その勢いで次は漢城の奪還を目指します。その兵力はおよそ4万。指揮官は李如松、李朝側は高彦伯が指揮を取ります。
一方、日本軍は平壌での敗北後に混乱していましたが、各地の諸将と連絡を取り合い、その戦力を糾合することで、明軍を迎え撃ちます。その兵力もおよそ4万1千。指揮官は先鋒が宇喜多秀家、本隊が小早川隆景でした。
両軍が激突したのは、京畿道碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞)。
明軍は開城に兵力を置き、騎兵と歩兵による兵力2万を先鋒として進ませます。平壌の戦いで日本軍は惨敗していたため、精兵はすでに残っていないという判断があったようです。
先鋒の宇喜多軍が明軍先鋒と衝突し、苦戦の末、これを撃退。明軍は再び進出してきたため、小早川軍が全面に出て、明軍を支えつつ引き寄せ、周辺に潜ませていた伏兵で側背から攻撃を仕掛けました。場所がぬかるみで、明軍の騎兵は実力を発揮できず、李如松は安東常久と一騎討ちするなど大混戦となりますが、ついに壊走。日本軍にはまだ漢城内に本隊の多くを残していました。
李如松は戦意を喪失し、日本側も食糧不足に悩まされており、石田三成らが出て両者は講和交渉に入りました。


1933年
ドイツ国会議事堂放火事件
この夜、議事堂前を歩いていた通行人がガラスの割れる音を聞き、不審な人物を目撃して警官に通報します。警官が来てみるとすでに火の手が上がり、それはやがて大きな火災へと発展。ナチスの党幹部らも火災を目撃、あるいは連絡を受けて、急遽駆けつけましたが、ヒトラーなどがその時点で、これは共産党員の仕業だ、と決めつけていました。
火災現場で、オランダ共産党員のマリヌス・ファン・デア・ルッベがうずくまっているのを発見。彼を逮捕します。しかしヒトラーやゲーリングはこれを彼の単独犯行とは認めず、共産党員による組織的なものとみなしました。
ヒトラー内閣が成立したばかりで、議会には共産党を始めとする左派勢力の議席も大きく、脅威とみなされていました。
この事件を利用して、共産党への弾圧が始まり、議員を拘禁しただけでなく、突撃隊によって次々と襲撃され、殺害される事態に発展しました。臨時国会が招集されると、ナチス党、ドイツ国家人民党、中央党は、全権委任法に賛成して成立。議会の議決なしに立法を行えるヒトラー政権の権限強化が図られました。
しかし、放火はナチスの自作自演ではないのか、という疑惑が諸外国で持ち上がりました。そのため、ルッベほか4名の裁判は難航し、結局ルッべ一人のみ死刑判決が出され、処刑されました。このことはナチス党幹部や保守的なマスコミを刺激し、より政権よりの司法制度へと変えられるきっかけともなりました。
なお、ルッベが真に放火犯なのか、冤罪なのかは、今もはっきりはしていません。


1942年
スラバヤ沖海戦
日本海軍と連合軍艦隊によって行われた海戦です。
東南アジアへの進出を図る日本軍は、マレー沖海戦やシンガポール攻略によって、同地域を徐々に支配下においていきますが、現在のインドネシアに当たるオランダ領インドシナもその目標となり、まずジャワ攻略のため、兵力を輸送することになります。護衛は第五戦隊で司令官は高木武雄少将。
それに対し、オランダ政府はすでに本国がナチスによって失われていたため、逃げる場所もなく、貴重な海外領土としてその防衛は絶対問題でした。しかし、すでに連合軍側の戦力は低下。最大の補給基地であるシンガポールも失われたため、日本軍へ応戦するには決定的に不足していました。連合軍側は、ABDA連合艦隊を結成します。Aはアメリカ、Bはイギリス、Dはオランダ、最後のAはオーストラリアで、同地域一帯の残存戦力の糾合でした。指揮官はカレル・ドールマン少将。
日本側はこまめに偵察を繰り返し、同日、支援のために移動中だった水上機母艦ラングレイを撃沈。さらにABDA艦隊を発見し、両艦隊は接触。砲雷撃戦となりました。蘭駆逐艦コルテノール、英駆逐艦エレクトラを撃沈、英重巡エクセターを大破させます。しかし、レンジ外戦法で遠距離攻撃を行ったため、魚雷も砲撃も殆ど命中しませんでした。翌日、旗艦の軽巡デ・ロイテルと、ジャワを雷撃で撃沈し、ドールマン少将も戦死しました。この戦いでABDA艦隊は武器も燃料も底を付き、戦力をほぼ喪失。3月1日、掃討戦が行われ、英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープを雷撃や砲撃で撃沈しました。日本側は駆逐艦1隻が大破したのみで、大勝利でした。ABDA艦隊の残存艦艇は脱出。同海域の制海権は日本のものとなり、上陸作戦は成功します。日本艦は漂流する連合軍将兵を救助し待遇するなど、余裕のある行動をしています。ただ、遠距離攻撃は消極的で敢闘精神が足りないと高木武雄少将や田中頼三少将らは批判を浴びました。


1976年
「サハラ・アラブ民主共和国」の独立宣言
この国は、アフリカの北西部、サハラ砂漠の西の端の海に面した地域で、西サハラ、と呼ばれています。
元々はスペイン領サハラで1884年12月26日に植民地が成立します。しかし当初から部族の反乱が相次ぎました。
隣接するモロッコは、フランスの植民地と、スペインの飛び地で成っていましたが、1956年にフランスから独立し、スペインも大部分の領有権を放棄します。西サハラはスペインが支配し続けますが、モロッコとモーリタニアは、同地の領有権を主張。地元の部族はアルジェリアの支援を受けて、ポリサリオ戦線(サギア・エル・ハムラおよびリオ・デ・オロ解放人民戦線 (Frente Popular de Liberacion de Saguia el Hamra y Rio de Oro=POLISARIO))が成立。そのゲリラ作戦にスペイン人は対抗策を講じるも同地の統治意欲を失っていきます。スペイン政府はポリサリオ戦線と協議し、国連も仲裁に乗り出して住民の意向を調査し、独立の方向へ動き出します。これにモロッコとモーリタニアは反発。特にモロッコは、1975年11月6日、市民35万人を越境させる「緑の行進」を実施。スペインは独裁者フランコがすでに病で、隣国ポルトガルが植民地戦争に嫌気のさした軍部による革命が起こったことを恐れ、鉱山の採掘権と漁業権の一定の確保により、モロッコ・モーリタニアと協議、マドリード協定が結ばれ、同地はモロッコ・モーリタニアの分割統治となりました。その際、住民との協議がなかったため、今度はポリサリオ戦線が反発。1976年2月27日にサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言しました。モーリタニアはポリサリオのゲリラ攻撃に悩まされて領有権を放棄。モロッコ単独領有となります。モロッコは壁を建設して、ポリサリオ戦線や難民キャンプと国土の大半を分断。しかしサハラ・アラブ民主共和国はアフリカ連合加盟国の地位を認められ、モロッコは抗議して、アフリカ連合を脱退。国連には加盟していないものの、76か国がサハラ・アラブ民主共和国を承認しています。一方、モロッコの領有権を認める国はひとつもありません。
モロッコとポリサリオ戦線は、国連の仲介で1991年に停戦で合意。帰属を決める住民投票の実施が決定しますが、現在まで実施されていません。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:03| Comment(0) | 2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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