2012年09月02日

悪人列伝−「貿易王」平清盛

2012年の大河ドラマの主人公となった、平清盛。視聴率は思わしくないようですが、テーマがマイナーだったかもしれません。しかし魅力ある人物には違いありません。
平家にあらずんば人にあらず、の絶対政権を築き、驕る平家は久しからず、で滅んだ一代の梟雄とも言える人物。
以前は、源頼朝が起こした鎌倉幕府が最初の武家政権という位置づけでしたが、最近は、その前に存在した平氏政権が最初の武家政権、という解釈が一般になりつつあります。

平氏が、有力な軍事集団だったとはいえ、権力階層だった公家の世界へと入り込むようになったのは、清盛の父、平忠盛から。忠盛は、伊勢平氏平正盛の子として生まれ、父が白河院に接近したのを受けて、彼も、白河院、次の鳥羽院という強大な院政によって、院の専門軍事組織と化していきました。院への接近は、所領の寄進という方法を使いました。名義を朝廷の実力者に譲り、利益の一部を献上する代わりに、特権と在地の実質的支配権を得るわけです。
正盛が朝廷への足がかりを築いて、その子忠盛が、同様の方法で実質の権力を得たのです。
忠盛は、宋との貿易も推進し、莫大な富を得ます。それらもふんだんに朝廷への工作に使い、鳥羽上皇勅願の得長寿院造営を担当し、千体観音を寄進したことで、内昇殿を許されるという破格の待遇を受けました(天承2年(1132年))。位としては十分の地位にありましたが、武士の立場での昇殿は過去に僅かな例しかなく、「未曾有のこと」と公家の反感を買い、暗殺されそうになったのを、竹光を使って難を逃れた、という逸話(『平家物語』)もあります。忠盛は公卿(従三位以上)となる寸前で病死しました。
忠盛が昇進できたのは、寄進だけではありません。実際に、反乱を起こした武装勢力を討伐し、盗賊を捕らえ、そして比叡山の僧兵らを武力で抑えるといった功績が認められたからでした。しかし、以前は、その功績は一定どまりであったのを考えると、経済力が物を言ったといえるでしょう。

その忠盛の子として生まれた清盛には、白河院の御落胤、という真実定かではない噂が、当時からありました。
事実、忠盛の子というだけでは説明がつかないほど、清盛は早くから出世街道を進んでいます(大治4年(1129年)正月、わずか12歳で従五位下・左兵衛佐となっている)。
噂の根源には、正盛、忠盛が仕えたこともある祇園女御という女性の存在があります。白河院の寵姫だった彼女は、清盛を猶子にし後押ししていました。一説には、清盛の母親は祗園女御の妹だとも言います。
出世街道を進むかに見えた清盛ですが、祇園闘乱事件(久安3年6月15日(1147年7月14日)祇園社とのトラブルで清盛の家人が宝殿に矢を射てしまった事件)で延暦寺と対立し、一時期異母弟平家盛(※)に後継者争いでリードされますが、弟が病死すると、平氏の後継者となります。保元の乱(保元元年7月11日(1156年7月29日))、平治の乱(平治元年12月9日(1160年1月19日))では勝者側についていますが、どちらも積極的に関わったわけではなく、むしろ巻き込まれた感があります。しかし最終的に両乱で権力の競争相手が没落し、後白河上皇と二条天皇の両者にとって唯一の有力者として残ったのが清盛でした。

清盛は、父の政策を受け継いで貿易に従事し、西国を中心に兄弟や子供をを配していき、妹や娘を天皇や上皇の后として送り、摂関家とも姻戚関係を築いて、絶対的な権力者の立場に就きました(特に妻の妹滋子が後白河上皇に嫁いだことが大きかったという)。
当時は、上皇と天皇が対立関係にあり、両者との距離を保ちつつ権力を維持するのに腐心しています。
絶対権力者の清盛に、上皇も、公家勢力も徐々に反発するようになり、反平氏勢力が結成され、後白河法皇も平家排除に乗り出します。鹿ヶ谷事件後も、病死した嫡男平重盛の領地を没収するなどしたため、清盛は朝廷における反平氏勢力の一掃に乗り出し、治承三年の政変(治承3年(1179年)11月17日)を起こしました。しかしこれが後白河の子以仁王の反感を招き、源氏勢力の反乱へと発展していきます。
反乱の中、清盛は熱病にかかり、自ら助命を決めた「頼朝」の首を、「我が墓前に供えよ」と言い残して没しました。治承5年閏2月4日(1181年3月20日)のことでした。
跡を継いだ三男宗盛は、平氏政権を支えていくほどの器量がなく、各地の反乱も抑えられず、わずか4年後の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦で滅亡しました。まさに一代の政権で終わったわけです。

平氏を倒した源氏政権は、平氏を悪く言うことで名分をもち、清盛の権力ぶりも、のちに悪く言われる要素となりました。そのため、清盛政権の評価は近年まで低いままでした。瀬戸内航路の開発や経済の活性化などは、むしろ先進的だったと言えます。また、源氏政権を支えたのが、関東の平氏諸豪族だったように、各地の平氏一族は「平家滅亡」後も残りました。

※平頼盛は、清盛の育て親である池禅尼の実子で久安5年3月15日(1149年4月24日)に病没。池禅尼が源頼朝の助命を清盛に依頼したのは、頼盛の幼い頃に似ていたから、と『平治物語』にあります。なお頼朝は、熱田神宮大宮司の娘由良御前の子で、宮中で統子内親王に仕えていたため、上皇らの助命要請によって許され伊豆流罪(永暦元年(1160年)3月11日)で済んだという説もあります。
posted by あお at 11:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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