2012年09月05日

悪人列伝−中国史上最高の「悪役」曹操

三国志演義で劉備の最大の敵として立ちはだかるのが曹操。字を孟徳。日本の小説や漫画によく見られる「曹操孟徳」という表現はあまり使わない方法で、曹操か、曹孟徳というのが普通です(字は諱の代わりなので。ただし文章中には同時に使っている例は当時からある)。
漢の建国の功臣、曹参の後裔とされていますが、祖父の曹騰が4人の皇帝に仕えた大宦官で、当然子孫がいないのを特別に許されて養子を迎え(子孫を残し社稷を守るのは儒教では重要な問題)、同じ漢の建国の功臣夏侯嬰の後裔にあたる名門夏侯氏から迎えたのが、曹操の父親である曹嵩でした。有力な将、夏侯惇・夏侯淵はそれぞれいとこで、同じ有力な将、曹仁よりも近い親族になります。

曹操は若くして素行が悪く、評判の悪い人物でしたが、橋玄や月旦評(月一回の人物評)をしていた許劭などからは高く評価されていました。許劭が曹操を評した「治世の能臣、乱世の奸雄」は有名。
20歳で孝廉(※1)に推挙され、洛陽北部尉(帝都北門地区の警察長官)となり、有力者でも容赦なく法令に従わせたことから、敬遠されて頓丘県令に栄転、さらに議郎を歴任しました。
黄巾の乱では戦功を上げ、近衛軍である西園八校尉の一人となり(中平5年10月・西暦188年)、董卓専横では反董卓連合軍(初平元年・西暦190年)の一員となるも、彼自身は有力な地盤を持っておらず、他の軍閥から出遅れ、兵を集めるのにも苦労しています。一方で、黄巾の乱で青州黄巾賊30万を傘下に収めて力をつけ、建安元年(196年)8月に献帝を自分の拠点である許に迎え入れてからは、国家の大義を背景に勢力を拡大しました。

初期の最大の敵だった呂布との攻防(興平元年・西暦194年)や、最大勢力だった袁紹との官渡の戦い(建安5年・西暦200年)などは苦戦を強いられましたが、最終的には勝利を収め、以後も慎重に動きつつ、黒山賊を降し(建安10年・西暦205年)、袁氏を滅ぼし(建安12年・西暦207年)、烏桓や南匈奴(※2)を抑え(建安12年・西暦207年)、公孫氏を傘下に組み込み(同年9月頃)、河北から朝鮮半島北部までを支配下に置くと、荊州へ乗り出しこれをあっけなく手にします(建安13年9月・西暦208年)。
しかし、ここで呉の孫氏と対立。赤壁の戦いで大敗を喫しました(同年冬頃)。
ただ勢力としてはそれほどダメージはなかったのか、以後も長江流域に進出し、黄河沿いに長安方面にも進出して関中十軍閥を撃破し(建安16年3〜9月頃・西暦211年)、漢中へ進出して五斗米道(※3)を降し(建安20年冬・西暦215年)、蜀を窺うまでになります。蜀は劉備に先んじられ漢中も後に奪われますが(建安24年・西暦219年)、当時の漢王朝の領域の7〜8割は抑え、呉や蜀と同列に扱われていますが、国力差は大きく、圧倒的な勢力を築きました。
劉氏以外の臣下としては異例の、魏公(建安18年・西暦213年)、ついで魏王(建安21年・西暦216年)の地位に就き、漢帝国内に魏国を建国。禅譲まであと一歩のところで病没しました(建安25年1月23日(220年3月15日))。ただ皇帝になるつもりだったのか、帝位は次代に譲る気だったのか、あるいはあくまで漢の臣下の分を守るつもりだったのか、そのあたりは不明。息子の曹丕が魏王を継いで、献帝から禅譲を受け皇帝となり、同年魏を建国しました。

曹操が悪く言われるのには、彼の行為の中に大きく2種類の「悪行」があるからでしょう。ひとつは彼を助けた呂伯奢を殺害した事件、名医華陀(※4)の処刑、徐州侵攻による民衆虐殺といった人道的な問題を起こしたこと。もうひとつは、献帝や皇后に対する厳しい対応、孔子の子孫孔融の処刑、求賢令の発令、王公の地位についたこと、といった儒教的な問題を起こしたことにあると思われます。また、曹操が宦官の孫、という点も、批判の背景にあるでしょう。
呂伯奢の事件など、曹操の行為の中には、正史(※5)『三国志』ではなく、その敵対勢力の書に記されているものも多く、正史が意図して外したのか、他の書物が悪意をもって記したのか定かではありません。徐州虐殺は正史にもあるため事実でしょうが、曹操による将兵の管理が完全ではなかったということもあるのか、曹操が比較的早くから『孫氏兵法』に注釈をつけて書物にしたのも、臣下将兵への教育に理由がありそうです。
求賢令とは、人材募集の政令ですが、この中で不道徳な言動の人物でも推挙せよ、という意味の内容がくどくどと付記されています。人材募集が趣味のようだった曹操らしく、また中国の歴史では異例の命令でもありますが、曹操が身分や言動に関係なく才能を重視したのは、自身が宦官の孫という、儒教的に見て蔑視される立場にあったことが大きかったと思われます(※6)。孔融との対立もそういう背景があったのかもしれません。
曹操は早くから劉備の敵対者、悪の親玉というふうに捉えられ、物語が生まれ、のちに三国志演義となりました。
東晋以降の異民族に領土を奪われていた時代に特に善玉劉備対悪玉曹操の構図が出来上がっていったという説もあります。
一方で、正史三国志の著者陳寿、その注釈者裴松之をはじめ、評価している人物も多く、特に近代に入り、魯迅や毛沢東などは反儒教的な思想から曹操を評価しています。日本では儒教の影響が弱く、さらに吉川英治が小説『三国志』で曹操を人間味のある準主役として扱ったことから、以降の小説やマンガ、ゲームはその傾向が強く、曹操は人気のある英雄の一人です。

曹操は、外見はさほど立派ではなかったといいます。しかし、自ら先陣に立ち、剣をふるい、敵対した人物を許し、部下の意見を採用し、屯田による開拓を進め、漢詩の元となった四言詩、五言詩を歌謡・楽辞から発展させて自ら歌い、のちに日本酒の醸造法にも影響した九醞春酒法を皇帝に上奏するといった具合に多彩な人物でした。
そんな彼だからこそ、家臣らはもとより、民衆にも相応に支持を得られ、あれだけの国家を作れたと言えます。

※1孝廉…漢朝で行われていた郷挙里選制度の科目の一つで、地方長官に命じて、毎年国や郡から孝行な者、廉正な者を推挙させた。官僚となる有力な道だったものの、権力の世襲化が進み、軍閥が強くなると、その子弟から選ばれるようになった。ほかの科目に賢良・方正・直言・文学・計吏・茂才などがある。
※2烏桓・南匈奴…北方の異民族で、この時代は長城を越えて漢の領土に入り込んで居住。烏桓の騎兵は曹操軍の強さを高めたと言われる。なお南匈奴はのちの五胡十六国のきっかけを作った部族で漢や魏王朝とは比較的友好関係にあった。
※3五斗米道…現在の道教の起源となる宗教勢力。当時漢中を支配。信者に五斗の米を寄進させ、流民のために無料の食事処を各地に置いた。当時の教祖は不老だったという張魯。
※4正史…正しい歴史という意味ではなく、国家が作らせた正統の歴史書。王朝交代後に前王朝の分が記されるのが普通。『三国志』は西晋に仕えた陳寿の編著で、西晋が魏から禅譲を受けているため、魏を正統国家としている。ただし曹操については都合の悪い内容も記されている。
※5華陀(字は元化)…正史に見られるものの、かなり伝説的な医者で、麻酔技術を持ち、開腹手術や鍼治療、投薬、健康体操に優れていたとされています。正史の記述では、医術を評価する曹操に対し、医者の地位が低く、儒者としての評価を期待した華陀は、曹操に失望し、嘘をついて曹操の元から去ろうとしたため、怒りを買って殺された。曹操は自身の優秀な子曹沖が病死した際、華陀を殺したことを悔やんだとか。華陀も元化も先生とか教化するという意味に通じるため、架空の人物という可能性もあるほか、異民族説もある。
※6「宦官の孫」…陳琳は袁紹の檄文を記し、曹操のことを「贅閹遺醜」(贅閹、すなわち、去勢された奴の余り物(養子)が遺した醜いせがれ)などと称し、曹操は「これを読むと腹が立つ」と言いつつ、その文章を賞賛しています。
posted by あお at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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