2012年11月17日

悪人列伝−忠義の人だった「悪役」石田三成

悪人、と言うよりは、悪役な立場に置かれたのが、石田三成でしょう。
彼は、近江の土豪石田氏の出身と言われる人物。
織田政権下でのし上がった羽柴秀吉が、近江長浜城主となった頃に仕えたと言われています。
真偽定かならないものの有名な逸話に、鷹狩に出た秀吉があるお寺に寄ったところ、寺小姓だった三成が出てきて、はじめは多めの水を、次にやや少なめにぬるいお茶を、最後に少ない熱いお茶を出し、喉の渇きを潤したため、その気遣いに感心した秀吉が彼を臣下に加えたというものがあります。創作としても、三成の性格の細やかさ、あるいは要領の良さをイメージしたのでしょう。

信長横死後、天下に乗り出した秀吉のもとで彼も出世していきます。
当初は、賤ヶ岳での武功など、武将として知名度を上げていきますが、むしろ彼の活躍は、政治面。
長期にわたって全国の検知奉行を務めた他、堺の接収、博多の復興など、政権の財政面を支える改革を行いました。後述する各種事件を担当し、朝鮮出兵の方針にも関わって、明との折衝も行なっています。関ヶ原で西軍の総指揮官となって敗北、処刑されました。

秀吉政権は、武力統一から、徳川幕府のような完成された官僚体制に向かう中途の状態であったため、政権樹立の功多き大名と武将上がりの行政官との対立が起きやすく、また行政面でも多分に個人に依存しているようなところがありました。秀吉自身はもちろん、事実上の首相であった羽柴秀長、石田三成ら五奉行などです。
そのため、三成は、あらゆる問題に奉行として当たらなければなりませんでした。当然、責任者としての立場が不平や不満の矛先になり易かったことでしょう。

石田三成には、以下のような、彼が仕組んだこと、というレッテルを貼られたものが多数あります。
・忍城水攻め
天正18年6月5日〜7月17日(1590年7月6日〜8月16日)、小田原の役の際の攻防戦。忍城は兵少数だったが唯一攻略に失敗しました。三成が水攻めのために石田堤を築いたとされ、遺構が今も残っています。しかし水攻めに反対したのは三成だったという説も。
・千利休の切腹
切腹は天正19年2月28日(1591年4月21日)。三成が利休を秀吉に讒言したとも言われています。
・蒲生騒動
文禄4年2月7日(1595年3月17日)に蒲生氏郷が40歳で死に、側近だった蒲生郷安と譜代家臣の間で起こったお家騒動。会津蒲生家は宇都宮12万石に転封となり上杉家が会津に入りました。石田三成が蒲生家の弱体化を狙い氏郷を暗殺、親しい蒲生郷安を使ってお家騒動を起こさせ減封にし、やはり親しい直江兼続のいる上杉家を会津に移した、という説があります(騒動の張本人である郷安はほとんど罪に問われていません)。しかし以前から氏郷の病状悪化は広く知られており、郷安と対立した側にもお咎めがなく、減封で浪人となった蒲生家旧臣らを抱えたのも石田三成なので陰謀説には疑問も。また蒲生家臣同士の抗争は事実上の四代目に当たる松山藩主忠知の代に無嗣断絶するまで続きました。
・豊臣秀次の失脚と切腹
文禄4年7月15日(1595年8月20日)。三成は秀次を秀吉に讒言したという説があります。彼のもとに使者として訪れたのも三成。ただ、秀次の無実を訴えた、すべて処刑された妻子の助命を秀吉に訴えたという説もあります。
・明との一方的な講和と加藤清正の謹慎
秀吉の要求を明側が受け入れないため、石田三成と小西行長は沈惟敬と交渉し、日本側と明側の双方で偽りの報告を作って交渉を進展させようとしたが、実情を知る加藤清正が邪魔であったため、讒言して謹慎処分にしたという説があります。謹慎していた清正は、慶長伏見大地震(文禄5年閏7月13日(1596年9月5日))で秀吉を助け、許されました。明との交渉は失敗。
・キリシタン二十六聖人の弾圧
処刑は慶長元年12月19日(1597年2月5日)。京で活動中のフランシスコ会キリシタンの捕縛の指揮を取ったのが石田三成です。
・朝鮮からの撤退
秀吉の死を秘匿するため、撤退計画は三成ら五奉行の手で密かに進められたことから、現地の武将らには知らされませんでした。慶長3年10月15日(1598年11月13日)に撤退命令。

これらは、三成が関わっているとみられるものが多いものの、三成の陰謀や讒言という説もあれば、逆に反対したあるいは無関係というのもあります。実際には奉行として処置に当たっただけ、というところが正しいのかもしれません。真偽は不明ですが、後世、意図して三成が関わったとして広められたものです。

そして、三成が悪くみなされた最大の理由が、関ヶ原での徳川家康の敵対者だったことでしょう。
三成としては、豊臣政権を酸蝕していく徳川家康の存在は目障りだったに違いありません。幼い秀頼を守るのが自分の役目と思えば、最終的には家康との対決は避けられなかったでしょう。
豊臣家を滅ぼして天下を握った徳川家からすれば、豊臣家は当然貶めなければなりません。しかし、徳川家にとって厄介だったのは、百姓から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉が、庶民に絶大な人気があったこと。下手なことは言えません。そこで秀吉よりもその周囲にいたものが良くなかった、すなわち「君側の奸」を用意しなければなりません。その格好の餌食になったのが、淀殿と石田三成だったといえます。淀殿が三成を支持し、家康と講和を望んだ北政所(ねね)は三成を嫌っていたという話になっているのもそのためでしょう。しかし実際には北政所は三成と親しく交流していたと見られます(彼女の養女には三成の娘もいます)。

三成の性格も問題があったようです。毛利家の秀吉への贈り物を断った話や、朝鮮出兵のあと加藤清正や福島正則らから命を狙われるほど険悪になったこと、関が原の前哨戦の段階でも、増田長盛や大谷吉継から諫言されたり、島津義弘の進言を無視したり、という話が伝わるように、他人との交流で反感を買っている部分があります。清正とは、もともと親しかったが、武断と文治の違いで関係がこじれたとも、朝鮮出兵で三成の讒言によって謹慎を受けたからとも言われますが、清正と険悪だった小西行長との関係から悪化したという見方もあります。三成が慰労の茶会を開こうとして加藤・福島らに「戦の苦労を知らぬものが」と拒絶された、という話が伝わっています。
一方で、三成が私利私欲に走ったというわけではなく、また、三成と親しく付き合ったものもいます。大谷吉継、直江兼続、島清興(島左近)、津軽信建らのほか、春屋宗園、沢庵宗彭とも親しく(三成の遺体を埋葬し弔った)、関ヶ原で敵となった田中吉政や対立する逸話の多い浅野長政との関係も悪くはなかったという説もあります。

茶会の回し飲みで、らい病に罹っていた大谷吉継が口を付けた茶碗を諸将が嫌がった時、躊躇なくそれを手に取り茶を飲んだという話や、島左近を臣下に加えるため、知行の半分を与えて感動させた(※1)、という話は、創作の部分もあるでしょうが、悪く言われる三成らしからぬエピソードでもあります。

さらに言えば、徳川家康との関係も、立場としては敵対者であるものの、個人的にはさほど険悪だったとは思えない部分もあります。家康側の政略もあるでしょうが、三成をかばったり、関ヶ原のあとに三成の嫡男石田重家(※2)を出家したことで許したり、そもそも家康は戦回避のために大谷吉継、島左近、石田重家らに使者を派遣して説得し、三成自身を上杉討伐で味方に付けようとしていたという話もあります。また、家康は敗者となった三成の態度も褒めています。
家康とは関係ないものの、徳川家光の側室お振の方(自証院)は三成の曾孫(※3)に当たり、その子が尾張徳川家に嫁いでいます。徳川光圀は三成を忠義者として賞賛していますが、家康自身が一番、三成のような主君に忠義を尽くす者を欲していたのかもしれません。

同時代に生きたもの、近い時代に生きた者にとっては、石田三成はそれなりに魅力のある人物だったのが、後世虚像が膨らんでいったということもあるのかもしれません。才能があっても、全く魅力のない冷淡な人間であれば、秀吉政権の奉行にはなれなかったでしょうし、関ヶ原で形だけでもあそこまでの大軍は動かせなかったでしょう。
悪人とされて徳川時代、明治、大正、昭和と経た石田三成が客観的に評価されるようになったのは、ごく最近のことです。


※1:水口4万石の領地の半分2万石を島左近に与えたとされるが、そもそも三成が水口4万石を領したという証拠は乏しい。島左近は筒井家を辞した後、羽柴秀長・秀保に仕えており、秀保の死後、浪人となっていたところを佐和山城主となっていた三成に請われた、とも言われる。島左近は最後まで三成に忠義を尽くした。なお左近の遺体は見つかっておらず、関が原後の生存説も多い。
※2:石田重家は京都妙心寺の塔頭寿聖院の住職となり、貞享3年閏3月8日(1686年4月30日)に104歳くらいで亡くなったとされる。
※3:三成の娘は蒲生家家老岡重政に嫁ぎ、重政は、蒲生家2代秀行の正室だった振姫(家康の三女)と対立して切腹。その子、岡吉右衛門(三成の孫)は、蒲生家臣だった町野幸和の娘を妻に迎え、生まれた娘が、町野が春日局の甥(斉藤利宗の三男幸宣)を養子にしていた関係からか、春日局の養女となって家光の側室となったお振の方と言われる。お振の方と徳川家光の間に生まれた千代姫(霊仙院)が尾張徳川2代光友の正室。


☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
タグ:合戦 日本史
posted by あお at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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