2012年12月08日

隣国同士の関係:パレスチナ1―古代イスラエルからイスラム国家支配まで

中東戦争の火種となっているパレスチナ問題。
2012年11月29日、パレスチナ自治区の地位をめぐり、国連総会で参加資格をオブザーバー国家として格上げする決議がなされました。独立問題は当事者同士の話し合いの結果なされるべきだとするイスラエルが反発し、税収配分をストップしたり、東エルサレムでさらに入植計画を進める、という対抗策を打ち出して混乱しています。
現在は、イスラエルが悪者扱いされる向きが強く、パレスチナ側に同情するのが一般的。
イスラエルが強力な軍事力で、パレスチナ自治区を爆撃して市民に多数の犠牲者が出たり、さらにイスラエルをアメリカが支えているところがあるため、世論の向きもパレスチナよりになっているのでしょう。
ただしパレスチナ側も、ハマスの軍事独裁的な支配体制下にあり、イスラエルの報復があることをわかっていながら、あえてロケット攻撃を加えるなどしていることから、犠牲に遭うパレスチナ市民の間では、必ずしもハマスへの支持は高くないと言われています。

パレスチナ問題はしばしば1948年5月14日の現イスラエル建国から語られて評価されますが、もともと、非常に長い歴史的背景があります。なぜ、ユダヤ人がこの地にこだわったのか、それが大きな鍵です。

パレスチナ(パレスタイン)の語源は、古代に住んでいたペリシテ文明からきているとも言われます。
ペリシテ文明とライバル関係にあったのが、のちのユダヤ民族につながる古代イスラエル民族。この民族の出自は定かではなく、地元の下層民だったとも、東方からやってきた、という説もあります。のちエジプトへ移住し、エジプトから迫害を受けるようになると、モーセに率いられて「約束の地」カナン(パレスチナ)に戻ってきたと、旧約聖書にありますが、これも他に記録がないため史実は不明です。モーセが十戒を授かったことから、ユダヤ教では重要視されています。

イスラエルの名前が文献に登場する紀元前1200年頃、東地中海沿岸の大国が軒並み滅亡や衰退し(※1)、その間に挟まれていたこの地は小王国が次々と誕生しました。
統一イスラエルのダビデ王、ソロモン王の時代には大きく拡大します。エルサレム神殿も建設されました。その後、イスラエル12部族のうち10部族がイスラエル王国を、2部族がユダ王国を興して分裂。
紀元前721年アッシリアがイスラエルに侵攻してこれを滅ぼし(失われた十部族と呼ばれる)、さらにアッシリアを滅ぼした新興勢力である新バビロニア帝国の王ネブカドネザルの、紀元前597年、紀元前586年の侵攻でユダ王国も崩壊しました。多数のユダヤ人が連れ去られています。
新バビロニアがアケメネス朝ペルシアによって崩壊すると、ユダヤ人の一部はエルサレムに戻り、ペルシアによってエルサレム神殿も復活しますが、紀元前333年に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって征服され、さらに大王の死後はプトレマイオス朝エジプトとアレクサンドロスの将軍だったセレウコスとの衝突する場所にされてしまいます。紀元前198年にセレウコス帝国が支配。この時代をギリシャ文明の影響下にあったことから、ヘレニズム支配時代と呼ばれます。
紀元前167年に異教徒支配に反発した反乱「マカバイ戦争」が起こり、紀元前142年頃には事実上の独立を果たしました。これがハスモン朝です。
この頃から勢力を伸ばしてきたのがローマ。ローマに接近したハスモン朝でしたが、ローマの勢力が強まる中でサロメ・アレクサンドラ女王の子供同士が分裂して内戦状態となり弱体化。
紀元前75年からの第三次ミトリダテス戦争でポントスに勝利したローマは勢いのままに紀元前64年にはシリア方面へ進出。紀元前37年、ハスモン朝はローマの軍事力で滅び、ローマに従属したヘロデがヘロデ朝を興します。
ヘロデはイエス・キリスト誕生に関わる、新王誕生を恐れて幼児を虐殺するエピソードで有名ですが、史実は不明。猜疑心の強い人物だったとも言われています。彼の死後、その子らが跡を継ぐも住民の評判は悪く、紀元前6年、ローマは王位を廃して直轄領としました。これがユダヤ属州です。39年までは、ヘロデの子ヘロデ・アンティパスが支配を認められていましたが、総督支配が強まり、住民の不満が高まります。イエスも30年頃に総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されました。
このあたりの事情はローマとの関係をめぐるユダヤ教各派の対立にも原因があります。
41年から44年まで、トランスヨルダンの統治者だったヘロデ・アグリッパ1世が、48年にはアグリッパ2世がユダヤ王を認められるも、実権はローマの総督や長官に移り、アグリッパ2世の死で形骸化していたヘロデ朝も滅びました。
その後、多神教のローマと、一神教のユダヤ人との対立は高まり、ローマでは一神教の文化を否定的に見るようになりました。そして、総督が神殿の宝物を資金源に領土整備を行おうとしたことに反発して、66年、第1次ユダヤ戦争が勃発。68年、皇帝ネロが自殺すると、ローマは大混乱に陥り、戦争は膠着しますが、ウェスパシアヌスが皇帝としてローマを統一。エルサレムへ侵攻し、エルサレム神殿は破壊されました。74年、マサダ要塞にこもっていた反乱軍も全滅し、戦争は終結。この戦争でエルサレムは軍事支配下に置かれ、より厳しい統治が行われるようになります。115年、各地のユダヤ人が反乱する「キトス戦争」も起こりましたが、情勢は変わらず、後に、ハドリアヌス帝によるローマ化政策に反発した人々は、指導者シメオン・バル・コシェバ(バル・コクバ)とラビ・アキバに率いられて反乱を起こしました。132年から135年にかけての、バル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)です。
一時期は独立状態まで行った反乱でしたが、135年、エルサレムは陥落し、バル・コクバは戦死。ラビ・アキバは処刑され、反乱は終わりました。
これらの反乱、統治の難しさは、すべてユダヤ教にあると考えたハドリアヌス帝は、ユダヤ教的なものを一切排除する政策に乗り出し、ユダヤ属州をシリア・パレスチナと改名。エルサレムをアエリア・カピトリナとしました。作物が実らぬよう、パレスチナの地に塩をまいた、という伝承もありますが、これは定かではありません。
すでに、過去幾度かの国外への強制的なものも含む移住でユダヤ人は各地に広がっていましたが、この戦争の結果、ユダヤ人はさらに多くが離散していきました。いわゆるディアスポラです。この際に、それまでのユダヤ各宗派は衰退し、現在のユダヤ教の基本が形成されました。
シリア・パレスチナの地は、その後、東ローマ(ビザンツ)、サーサーン朝ペルシアの支配下に置かれます。

アラビア半島の中西部ヒジャーズ地方で誕生したムハンマドは、610年頃、ジブリール(大天使ガブリエル)によって啓示を受けたとして、宗教を興します。これがイスラム教です。彼は、一族に教えを広めていくと、イスラム共同体を作り、周辺の部族との対立を繰り返していましたが、その中にはユダヤ教の諸部族もいました。ムハンマドの死後、正統カリフ時代が始まり、アラビア半島全土へと拡大します。第2代カリフのウマル・イブン=ハッターブはサーサーン朝ペルシアとビザンツ帝国の対立の間隙を縫って各地へと進出。636年、ビザンツに勝利しエルサレムも征服しました。
この時、彼は人頭税(ジズヤ)を払うことを条件に、キリスト教徒とともにユダヤ教徒も保護し、一定の権利を認めました。この代にイスラム国家の基礎ができ、以後、パレスチナの地はキリスト教国家とイスラム教国家の争奪戦に舞台を移していくことになります。

※1:紀元前1200年ころの青銅器文明が滅んだとされる東地中海全域での異変は、大規模な気候変動や、火山噴火などの自然災害、ヒッタイト帝国の滅亡による地域の混乱など諸説あるが原因は不明。

☆この内容は総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
posted by あお at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 隣国関係の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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