2013年09月21日

悪人列伝−独裁者アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー
歴史上、悪人と呼ばれたものの多くは、敵対者や後世からの悪評という「作られた」面もあります。しかし時代的に近い人物においては、その行動が直接的に、悪に結び付けられることもあります。ヒトラーは、まだ歴史上というには、生々しさの残る人物といえます。

ヒトラーは、ヨーロッパ、特にドイツでは、公的にはタブーな存在となっており、極力触れないようにしています。ヒトラーの自著は発禁。ハーケンクロイツすら公的に使用すると処罰されます(※1)。
一方で、その影響が乏しい、アメリカや日本では、ヒトラーはしばしば題材、ネタ、象徴的なものとして扱われています。ヒトラーも見たという同時代のチャップリンの『独裁者』などは別格としても、小説やマンガで、第二次世界大戦でドイツが勝利したら、逆に、ヒトラーがアメリカへ移住していたら(たいてい画家や小説家になっている)、といった歴史改変ものや、ヒトラーの「クローン」ネタ、ヒトラー的な外見を独裁者の象徴として見立てるといった手法がしばしば見られます(最近アメリカの道路沿いのやかんの看板が似ているとして騒ぎになりました)。
最近はドイツでも、ヒトラーが現代にタイムスリップして「コメディアン」として人気ものになる社会風刺小説『Er ist wieder da』がベストセラーになっています。
一方で、国粋主義、その実行力とカリスマ性からヒトラーを崇拝する動きもあり、また反ユダヤ主義の象徴として、アラブ諸国を中心にヒトラー評価は根強くあります。

ヒトラーを極悪非道な独裁者として断定するのは簡単ですが、生まれ落ちた瞬間からそうだったわけではありません。なぜ一人の画家志望だった若者が、狂気の独裁者になったのか、その精神面への影響と変化、それを支持した市民の行動、時代背景や思想的流行などもふまえて、未来の歴史を考える時に、研究課題とするべきでしょう。

主な経歴
1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで、税関吏アロイス・ヒトラーと妻クララの間に生まれます(※2)。
息子に将来を期待した父親との確執が大きく、父に対する反発が、大ドイツ主義への傾倒につながったという説もあります。1903年、父アロイスが病没し、その後、学校も2度中退。1907年、芸術家を志してウィーン美術アカデミーを受験するも失敗。課題の未提出が理由でしたが、この頃のウィーンは「世紀末芸術」と称される、退廃、エロチシズム、グロテスクなどが評価され、個性の乏しいヒトラーの作品は評価が低かったとされます(※3)。ヒトラーは建築物にも興味を示しますが、学歴の問題から建築家への道を断念してます(※4)。この年には母も病死。絵葉書売りで収入を得ながら、図書館に通って独学で知識を得てますが、学歴の悪さは終生コンプレックスだったようです。
第一次世界大戦が勃発すると、彼はバイエルン王国の志願兵として出兵。伝令兵として二度勲章を得ますが出世はせず、ソンムの戦いで負傷。更に化学兵器マスタードガスの影響で一時失明し終戦を迎えました。視力は回復するも、敗戦の衝撃は大きく、「内なる敵」への不満を持つようになります。1919年9月12日、ドイツ労働者党(党首はドレスクラー)に加盟。党内で影響力を伸ばし、党名をドイツ国家社会主義労働者党に変更(※5)。ムッソリーニのファシスト党に憧れ、ローマ進軍を真似て1923年11月8日ミュンヘン一揆を起こすも失敗。しかし法廷で自らの主張を展開して多くの支持者を獲得しました。刑務所での待遇は良く、『我が闘争』を執筆。1924年12月20日には釈放されます。1926年2月14日、党内左派勢力をバンベルク幹部会議で抑えこみ、ヒトラー体制が確立しました。
1928年5月20日の国会議員選挙に候補者を出すも、景気の好転が影響して12人の当選にとどまります。ヒトラーがエヴァ・ブラウンと知り合ったのはこの頃。
翌1929年、世界恐慌により政府への批判がナチスへの支持拡大に。1930年の選挙では第二党に躍進しました。
1931年9月18日、結婚も考えるほど溺愛していた姪のゲリ・ラウバル(異母姉アンゲラの娘)が自殺。彼女の行動を抑制していたヒトラーとの対立も原因と見られ、そのショックは大きかったといいます。翌年大統領選に出馬。英雄ヒンデンブルグ大統領に迫る勢いを見せたヒトラーは、知名度を飛躍させます。
7月の総選挙でナチスは第一党に躍進。反共保守派の危機感に乗り、ヒンデンブルグや、パーペン前首相の支持も得て1933年1月30日にヒトラー内閣が発足しました。2月1日に議会を解散。2月27日夜に起こった国会議事堂放火事件を機に共産主義者の弾圧を開始。3月5日の総選挙では、単独過半数にはならなかったものの、3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力を奪います。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止しました。
1934年6月30日の「長いナイフの夜」事件で最大軍事組織「突撃隊」のレーム派を一掃。同年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは総統として最高指導者となりました。彼は貴族階級より、庶民側に立つ姿勢を見せ、私生活は質素、社会事業を積極的に進め、失業率を大幅に下げ、市民の支持を得られる政策を進めましたが、一方ではユダヤ市民への迫害・追放を強めます。
1935年3月16日、ドイツ再軍備宣言。1936年3月7日には非武装地帯ラインラントへの進駐という賭けに出ました。国際社会の批判が乏しかったことに自信を得たヒトラーは、以後、拡張政策を推進することになります。1936年8月1日から8月16日までベルリン・オリンピックを開催。今も続く聖火リレーのイベントを行い、国威発揚に成功。同大会の映画を撮ったレニ・リーフェンシュタール、党大会で「光の列柱」の演出をした建築家アルベルト・シュペーア、メディアを使った宣伝を駆使したヨーゼフ・ゲッベルスなど、以後の独裁者の見本となるような政治的演出のできる優れた人材を集めます。芸術家を目指して挫折したヒトラーならではの目の付け方でした。
1938年1月26日に国防相ブロンベルク元帥を、1月28日に陸軍総司令官フリッチュ上級大将を、ともにスキャンダルを理由に罷免し、独立志向のあった軍も完全掌握。
同年3月13日、故郷オーストリアを合併。9月29日、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニとミュンヘン会談をおこない、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲に成功。さらに同国のハーハ大統領と1939年3月15日に会談してチェコを「ベーメン・メーレン保護領」として吸収、分離したスロバキア共和国を傀儡国家として事実上併合します。3月23日にはリトアニア政府からメーメル地方を割譲。英仏は動かないとにらみ、次の目標をポーランド併合と定めたヒトラーは、敵国ソ連と交渉して、8月23日に独ソ不可侵条約を結び(※6)、9月1日にポーランドに侵攻。しかし英仏はついにナチスとの対決を決定して、第二次世界大戦が勃発しました。
航空機と戦車を使った電撃戦により1ヶ月半でポーランドは滅亡。1940年4月9日には、デンマーク、ノルウェーへ侵攻。2ヶ月で両国を占領。5月10日、フランスへの侵攻作戦を開始。第一次大戦で塹壕戦を経験したヒトラーは、侵攻作戦を大きく変えて、主要侵攻ルートのベルギーではなく、アルデンヌの森林地帯を戦車中心の機甲師団で突破する戦術を取り、フランス北部を一気に制圧しました。6月21日、フランスが降伏。フランスは北部の占領地域と、南部のペタン政権に分割されます。その後、イギリス本土侵攻作戦は、航空機の損害の大きさから中止に。それでも、1940年10月28日から翌1941年5月29日にかけてバルカン半島を制圧し、9月27日には日独伊三国同盟も締結。日本人に対しては、蔑視、おそれ、称賛と複雑な感情を持っていたようです。
そして、彼の栄光が失われる独ソ戦が始まります。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦によりドイツ軍はソ連に侵攻。当初、スターリンの粛清で弱体化していたソ連に対し、快進撃を続けたことで楽観視していたヒトラーですが、激しい抵抗と焦土戦術、強力なT-34戦車、泥濘と悪路に阻まれ、モスクワ目前で冬の到来とともに補給もままならなくなり、各地で大きな損害を出します。
翌1942年、ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま、南方資源地帯カフカース方面進出のブラウ作戦を発動、6月28日からはその途上のスターリングラード攻略に乗り出しますが、これも予想以上の長期化。
ソ連側のゲリラ的な抵抗、現地司令官とヒトラーとの意見対立などで進まず、再び冬が到来。ソ連軍はドイツ軍を包囲。1943年1月31日、現地軍司令部は降伏し、参加将兵のほとんどが死亡しました。1944年1月にはレニングラードからも撤退。ドイツ軍は兵力を大幅に失い、以後、縮小に転じます。
うまく行かなくなると、陰に籠るのが独裁政権の特徴。ドイツ国内の統制は強まり、ユダヤ人収容所も絶滅収容所へと変わり、ヒトラーに失望した高級将校による暗殺計画が相次ぎ、学生の反戦運動も始まります。作戦に参加したイタリア軍の損失も大きく、ムッソリーニ政権の基盤も揺らぎました。
1944年7月20日のシュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂事件は、会議中の爆弾の炸裂により列席者が死傷したものの、ヒトラーは軽症で済み、奇跡のように宣伝されました。7000人以上も摘発され、200人以上が処刑されましたが、ヒトラーもまた、人間不信がひどくなったといいます。
1943年7月25日には、ムッソリーニの失脚とバドリオ政権の連合国への寝返り、1944年以降の連合軍進出によってドイツは孤立を深めていきます。
1945年1月には、ナチスはライン川とオーデル川に挟まれたドイツ本土と周辺部だけを支配するまでに縮小していました。3月15日のブダペスト奪還作戦失敗で、ドイツ軍の組織的作戦は終わります。
ヒトラーはもはやドイツに未来はないとみなし、3月19日、国内焦土作戦を命令。ついに自らの国民までも見捨てようとしました。シュペーアらの反対で実行されしませんでしたが、ヒトラーはすでに病状も悪化し、歩行もままならず、指導者としての意欲も失われていたようです。
4月23日、降伏交渉を検討していたゲーリング国家元帥の逮捕命令、4月28日の親衛隊指導者ヒムラーの連合国との和平交渉の情報など、政権も崩壊寸前となり、ヒトラーは29日、大統領職にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルス、外相にザイス=インクヴァルト、ナチ党担当にマルティン・ボルマンを指名し、日陰の存在だった愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、30日、官邸地下壕でエヴァとともに自殺し、遺体は焼却されました。

ヒトラーの思想・行動は、父や一族との不和、母の死、芸術家になれなかったこと、憧れたドイツ帝国の敗北、といった彼にとっての失望・挫折を、当時ヨーロッパに根強く広がっていた反ユダヤ主義などと結びつけて転嫁し、さらに得意な弁舌や政治構想力に代えて解消しようと図った結果かもしれません。ヒトラーもまた、生き方に悩んだ一人の弱い人間だったのでしょうが、その結果、多くの人が犠牲になったわけです。どこかの段階で彼を導く人がいれば、あるいは、彼がもっと別の生き方や得意分野に気づけば、彼自身の歴史は変わったかもしれません。が、結局は、似たような別の独裁者が誕生し、同じことを繰り返したでしょう。当時、似たような思想の政治家は他にも大勢おり、なにより「ヒトラー」と「ナチス」に力を与えたのは、この時代の市民だったわけですから。

※1:卍(まんじ):日本や台湾などでは寺院を表す記号でもあるまんじ。ヒンズー教でも使われています(スワスチカ)。向きが逆のハーケンクロイツと誤解したヨーロッパ人の批判を受けて、日本でも表示をやめようという論議もたまに出ますが、卍と起源が同じハーケンクロイツ自体は、古くからアジア・ヨーロッパに伝わるシンボルや文様の一つで、幸運を意味し、ナチズムとは本来関係ありません。
※2:ヒトラーにはユダヤ人説もあります。ヒトラーの父親アロイスの父親が不明であることも要因のひとつ。
※3:ヒトラーの絵画作品は今でも時々オークションに掛けられることがあります。ディズニーのキャラクターを描いたものもあるとか。
※4:のちに独裁者となった彼は、退廃芸術展を開いて、これらの作品を「頭がおかしい人間の作品」などと公開で誹謗しました。一方でベルリンに古典主義的な巨大建築物を並べた「世界の首都ゲルマニア計画」の建設にも意欲を示しています。
※5:ナチスは、もともと、ドイツ国家社会主義労働者党に対する蔑称。
※6:ドイツと「防共協定」を結んでいた日本は、ドイツとソ連との不可侵条約に驚愕し、密かに進めていた日独同盟の交渉を中止。平沼騏一郎首相は8月28日に「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明を発表して総辞職しています。

☆この内容、および、より詳細なデータは総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
posted by あお at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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