2014年01月03日

悪人列伝−近代文明を否定した男、ポル・ポト

第二次世界大戦後は、世界規模の多国間戦争がなくなる一方で、植民地時代が終わりを告げて、地域独立の時代となりました。しかし独立を達成しても、政治経験が乏しく、経済基盤が弱く、教育水準が低い中、自然とカリスマ性の高い人物や軍事力を持つ人物に権力が集中していきます。そして大小様々な独裁者が生まれました。その多くは、強力な政治体制のもとで近代化を推し進め、開発独裁と呼ばれました。しかし、全く逆のことをした人物がいます。
近代文明を否定した男。カンボジアの共産主義独裁者ポル・ポトです。
人口がそこそこあったとはいえ、決し大国ではなかった東南アジアの一国で100万人以上の市民を死に追いやり、クメール文明を崩壊させた人物です。多くの犠牲者もさることながら、その「原始共産主義」という異様な政策で歴史に名を残しました。
ポル・ポトは本名サロット・サル。
現コンポントム州の自作農の家に生まれます。当時カンボジアは農業国で輸出もしており、自作農は比較的裕福でした。王族とも交流する家柄だったといいます。
伝統に従い寺院で修行した後、カトリック系学校や高校で教育を受け、1949年、パリに留学します。そこで彼は共産主義運動に参加しました。
フランス共産党の中にあったクメール語の一派に加わり、のちの政権下で要職についた人々と出会っています。「クメール・ルージュ(赤いクメール)」の原点でした。彼ら若者たちは実際の政治としての共産主義というより思想的に論じ合うグループとして存在し、ポル・ポトはその中で目立たない存在だったといいます。試験に落ち、奨学金を打ち切られて帰国したポル・ポトは、教師となり、左翼運動を始めます。
クメール・イサラク連合に加わり、独立闘争を始めますが、エリート共産主義者に対するコンプレックスがあったようです。彼は何事も自身で決めるようになります。
この頃、ベトナムでのフランス植民地に対する抵抗が強まり、やがて独立戦争へ発展していきます。1954年、フランスが撤退すると、ベトナムは南北に分裂。インドシナ半島各地の共産主義者がベトミン(越盟・ベトナム独立同盟)に関わって北ベトナムへ向かったため、カンボジアのクメール人民革命党は指導体制が混乱し、ポル・ポト派はそこに入り込みます。
政治体制の変化が、ポル・ポトの権力への道を拓いていきます。
1949年に独立したカンボジアは、国王シハヌークのもとで左翼運動を弾圧し、権力基盤を固めようとしました。しかし、ベトナム内戦は、アメリカの介入を招いて、ベトナム戦争へと拡大すると、アメリカの支持を受けるロン・ノル将軍らの右派勢力が台頭していきます。1963年2月に起こったシェムリアップ暴動で、シハヌークは左翼反政府勢力の取り締まりに乗り出しますが、右派も警戒し、左派の徹底弾圧は出来ず、妥協を図らざるを得なくなります。この弾圧で都市部の共産主義者は地方に逃れ、農村地帯を活動の拠点にします。ポル・ポトも森林地帯に身を潜めました。
1970年、シハヌークががん治療のために中国へ向かった留守に、ロン・ノルはクーデターを起こして議会に国王退位を認めさせ、権力の座に付きました。これは泥沼化するベトナム戦争で、東南アジア全体が共産化することを懸念したアメリカの介入もありました。アメリカ軍は連日、カンボジアの農村地帯も空爆し、この結果、カンボジアでは数十万の犠牲者と田園地帯の荒廃を招きました。それまで豊かだった自作農民らは都市へと流れ、プノンペンは100万人を超える国内難民で溢れかえります。人々の不満はアメリカと、アメリカの支持を受けるロン・ノル政権に向きました。ただ、ロン・ノル政権は、クメール人以外にも、チャム人やモンタニャールなどの少数民族の権利を認めたため、その強い支持を受けていました。
一方、農村地帯で活動していた、ポル・ポト率いるクメール・ルージュは農民の支持を得て攻勢をかけます。
アメリカはロン・ノル政権を支持していましたが、ベトナム戦争の敗北、そして中共との国交樹立によって、彼らを見捨てました。地位を追われていたシハヌークやクメール・ルージュが中共と関係が深かったからです。シハヌークはこれを機にロン・ノル政権に対抗するため、ポル・ポトに接近します。本来両者は水と油でしたが、利点があると見て手を組んだわけです。もっともポル・ポトの方が一枚も二枚も上手でした。実行する気のない約束をいくつも交わしてシハヌークとその勢力を引き入れます。
1975年4月1日、クメール・ルージュは、プノンペンへの攻勢を開始。17日、プノンペンは陥落し、ロン・ノルはアメリカへ亡命しますが、政権幹部は脱出できず、のちにことごとく処刑されました。
当初、市民はクメール・ルージュを歓迎しました。
プノンペンを制圧したクメール・ルージュは、シハヌークを形だけ祭り上げて民主カンプチア政府を樹立。すぐに米軍の爆撃があるから避難するよう市民に命じ、短期間でプノンペン市はほとんど無人となります。
ところが、数日で戻れると思っていた市民は予想外の状況に置かれます。
政権は知識層の市民を優遇すると称して呼び出し、彼らを何処かへ連れ去ると、一人も帰ってきませんでした。メガネをかけている、といっただけでも連行されて殺害されました。僧侶も弾圧され、仏教経典は焼かれ、寺院は破壊されました。そして多くの市民を農村地帯へ送り、農作業に従事させます。
ポル・ポトが目指したのは、非常に単純で完全な均等配分による原始共産制。毛沢東主義を取り入れ余計なものを排除したものでした。
そのために、通貨は廃止され、私有財産は没収され、家族制度すら解体され、子供は親から引き離されて集団生活に入れられ洗脳。大人たちも集団で管理され、婚姻までも決められ、大規模な土木工事も機械を使わず彼らを動員して手作業で行われました。
その中には従来からのポル・ポト派の構成員が密告者として入り込み、少しでも問題ありとされれば、強制収容所へ送られ処刑されました。
無計画で非科学的で非効率な農業生産体制は破綻し、都市も農村も一層荒廃。飢餓が広がり、大量処刑も加わり大人の数が激減。国民の大半が14歳以下となり、軍隊まで子供が動かす事態になります。洗脳された子供は、親を含む大人たちを憎悪しリンチや殺害も多く行われたといいます。
ポル・ポト自身はしばしば外遊もしていますが、民主カンプチアの内情は世界には伝わらず、ユーゴスラビアなど一部の関係者が訪問出来てわずかに実情に触れるだけでした。
犠牲者の総数は、元々の統計が乏しいために不明ですが、100万人から200万人の間というのが多くの見方です。
ポル・ポト政権以前から、ベトナムとは国境地帯に両民族が入り混じり、利害が絡んで対立することが多かったわけですが、ポル・ポトは反ベトナムを強く主張し、国交は断絶。ベトナム領内を攻撃し、住民虐殺まで行いました。ベトナム側でも、ポル・ポト政権への反乱工作を進めます。
ポル・ポト自身の疑心暗鬼も高まったのか、1978年5月、自国東部地区の軍と住民がベトナムと通じて反乱を企図したとして総攻撃。政権を支えているはずの将兵まで大量に殺害します。有力幹部も含む多くの人がベトナムへ逃れ、これを機に、ベトナム政府はカンボジア侵攻を計画。亡命したヘン・サムリンを代表にカンプチア救国民族統一戦線を作らせ、その支援という形で、1978年12月25日、越境してカンボジアに侵攻しました。
中国の支援を受けていたものの、人材を失い、多くが子どもというカンボジア軍はあっけなく壊滅。プノンペンは陥落し、1979年1月7日、ヘン・サムリン政権が樹立しました。ベトナム軍が見たのは、至る所にある収容所と、膨大な白骨、そして腐敗している大量の人間の死体でした。
ソ連に近いベトナム軍の侵攻に親ポル・ポト派の中国はもちろん、反共のアメリカまでがポル・ポト政権を支持・支援しました。これはソ連、中共、アメリカという三者の微妙な関係も背景にありました。
2月17日には、中共軍がベトナムへ侵攻。中越戦争が勃発します。中共軍は60万に達する兵力、対するベトナム軍守備隊は3万の民兵でしたが、ベトナム戦争での実戦経験が豊富で、ソ連、中国、アメリカの鹵獲兵器まであり、更に文化大革命後の混乱もあって、中共軍はベトナム北部の占領に成功するも大損害を出し撤兵に追い込まれました。
一方、ポル・ポトらはタイ近くのジャングルに潜み、タイにルビーなどの資源を売って資金を稼ぎ、中国などから武器を購入してはゲリラ攻勢をかけますが、政権奪回はもはや不可能でした。ベトナムによる支配はタイにまで影響及ぼし、軍事衝突まで起こっています。
シハヌークは再びポル・ポトと手を結び、右派のソン・サン派と反ベトナム三者連合を結成。しかし三者は利害を巡って対立を繰り返し、結局、ドイモイ政策でより自由化したベトナムが1989年に撤退。1991年7月、反ベトナム三派とヘン・サムリン政権は合意にいたり、カンボジア最高国民評議会が成立。同年10月パリ和平協定でカンボジア内戦は終結。1993年、国連主導のもと国民議会総選挙が行われ、立憲君主制カンボジア王国が成立しました。シハヌークが元首に返り咲く一方、ポル・ポト派は選挙に参加せず、襲撃するなど妨害。日本人警察官やボランティアを含む多数ののUNTAC要員が殺傷されました。ポル・ポト派は孤立。和平に動いた元国防担当のソン・センがポル・ポトに粛清され一族もろとも殺害されると、そのポル・ポトもまもなくタ・モク派のクーデターで軟禁され、1998年4月15日、ジャングルの奥地で死亡しました。毒殺だったとも言われています。

共産主義体制では、しばしば知識層が弾圧を受けました。
しかしこれは必ずしも指導者が教育を受けられなかった低所得者層の出身だったからではありません。
むしろ指導者には留学経験があったり、高等教育を受けているものも多くいます。むしろその中で共産主義に関わるようになっています。
共産主義組織の指導者層は、「無知な」労働者や農民を指導する、という立場にこだわり、知識のある人物を警戒しました。自分より優れていたり、自分の知らない知識を持つものに、指導方針に異を唱えられ、それが自分たちより優れていれば、自らの組織も、権力も、何より自分自身の立ってきた思想的背景までが崩れることを恐れたのかもしれません。支配し導いていく人民は自分たちの指導を素直に受け入れる無知無能な人間でなければならないわけです。
だから、対立する思想的立場の者は言うまでもなく、一般市民の知識層、果ては同志だった者まで排除しなければならなくなります。
しかし知識のある市民こそ、社会を発展させる要素です。知識層を排除すれば、ただ命令を待つだけの何も出来ない人物ばかりになり、異論はおろか進歩的意見すら出ない社会になります。そうなれば自滅の坂道を転がり落ちるしかありません。結局は、指導者の個人的恐怖感が、国家や社会を破壊してしまうわけです。
ポル・ポトは多くの同様の例の代表的一人だったといえるでしょう。

☆この内容、および、より詳細なデータは総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:世界史 独裁者
posted by あお at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。