2014年05月25日

悪人列伝−「皇帝」を作った男−贏政−

中国における歴代帝国全王朝を通して、まさに最初の皇帝だった男、自ら定めた称号「秦始皇帝」を名乗ったのが、贏政です。一般には始皇帝で通るため、贏政(えいせい)という名だったという事自体、知らない人も多いでしょう。絶対権力者として、人々を苦しめたイメージがあります。

古代中国では都市国家から発展した殷(商)、その殷に代わった周も都市国家のゆるい連合体のような体制でした。周王朝の後半、春秋時代には少なくとも200の大小都市国家が存在していました。この頃周王朝は縮小衰退し、代わって比較的規模の大きい地域国が覇を競い合うようになります。戦国時代に突入すると、弱小国から次々と併呑されていき、最後に残ったのが秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七雄と呼ばれる大国と形式的に残っていた周、衛だけになります。この七雄も攻防の末に、最も西域にあり、最も異質の文化を持っていた秦の一強時代となりました。贏政はその時代に秦王となります。
それまで、どれかの国の王が他を圧倒する力を持っても、それは単に「覇者」であって、王の統一国家ではなく、連合体の指導者に過ぎませんでした。しかし贏政はほかの6カ国を滅ぼすと、中国史上初めて「統一王朝」を打ち立てました(※1)。

贏政の出自は決して良いものではありませんでした。
秦の昭襄王の次男だった安国君(のちの孝文王)の子で趙の国に人質に送られた子楚(当時の名前は「異人」)が、贏政の父です。王族とはいえ一朝有事の際にはあっけなく殺されかねない立場でした。昭襄王がしばしば趙と争ったため、ほとんど見捨てられていた子楚は冷遇され貧窮していたといいます。
その子楚を支援したのが大商人の呂不韋。彼は子楚を見て「これ奇貨なり。居くべし」(これは珍しいものを見つけた、手に入れておこう)と言い、支援します。いわゆる「奇貨居くべし」の故事です。もちろん、投資に見合う価値を作るため、呂不韋は秦まで行くと、安国君の正室華陽夫人に取り入ります。華陽夫人は子に恵まれなかったため、将来に不安を感じていたところ。呂不韋の進言に乗り、子楚を跡継ぎに決めます。子楚は名も「異人」から楚国出身の華陽夫人にあわせて「子楚」に改めました。子楚は呂不韋に対して高い地位を約束しますが、一方で呂不韋が囲っていた愛人「趙姫」を欲しがります。呂不韋はしぶしぶ女を与えました。この趙姫が産んだ子が、贏政です。
「史記」には、贏政が、子楚の子ではなく、呂不韋の子という説を取り上げてます。ただ、記録上は子楚の子である方が矛盾はないといいます(※2)。
昭襄王が趙を攻めたため、子楚は邯鄲を脱出し秦に逃げます。幼い贏政と母親は取り残され潜伏し非常に苦労しました。この時の環境が贏政の性格を形作る要因とも考えられます。昭襄王が死に、安国君が即位して孝文王となると子楚は後継者に選定されますが、孝文王はたった3日で急死。子楚が王位を継いで荘襄王となりました。これを受けて、趙は贏政を秦に送り返します。
荘襄王は3年後に死に、贏政が13歳で即位しました。少年王の後見として、呂不韋は相国となって国政を担いました。彼の目論見は成就したわけです。

ところが贏政22歳の時に大事件が起きます。贏政の母親、太后となっていた「趙姫」が愛人との間に子を二人も作っていたのが発覚したのです。実は趙姫は子楚の妻となってからも、呂不韋との関係は続いていました。趙姫に迫られ困った呂不韋は彼女にロウアイという巨根の男をあてがいます。宴会芸として一物を車輪の穴に通して回したという逸話の人物。呂不韋はロウアイを宦官と偽って宮中に入れ、旧都雍の離宮で趙姫と過ごすようになります。この事は、密告があったとも、贏政が元服の儀式で雍を訪れて発覚したとも、ロウアイが反乱を起こそうとしたとも諸説あります。贏政は激怒し、ロウアイ一族は殺され、呂不韋も地位剥奪の上、蜀の地へ流刑にされそうになったため、服毒自殺しました(※3)。贏政が呂不韋の権力と豊かな人間関係を恐れたという見方もあります(※4)。

贏政は実権を掌握すると、李斯を抜擢して法家主義でもって国内の制度を整え、内外の人材を集め、灌漑事業を進めて生産力を高め、強力な軍隊を組織します。思想的には韓の公子であった韓非のマキャベリズムな思想を尊崇し、韓非も故国と一族に失望しており、贏政に期待を寄せていました。しかし韓非は同門でもある李斯らに陥れられて自殺。贏政は韓非の故国である韓を前230年に攻め滅ぼしました。
続けて前229年、趙の国を攻めます。事前に趙の重臣郭開への買収工作を進め、有能な人材を粛清させるよう仕向けたことで、趙もあっけなく秦の前に滅亡。贏政は生まれ故郷の邯鄲に入ると、母を貶めようとした人々を探しだして生き埋めにしました。
趙が消滅したことで、韓・趙と同じ晋から分立した魏と、北方の燕も秦の脅威にさらされます。燕の太子丹は、幼いころ趙の邯鄲に人質としていたことがあり贏政とは幼なじみでしたが、秦に赴いた際に冷遇されたため恨みに思っていました。丹は贏政の暗殺計画を企て、前227年、秦からの降将樊於期の首と督亢地方を割譲すると称してその地図を荊軻に持たせて降伏の使者と偽り贏政に会見させます。荊軻は地図でくるんでいた刀で贏政を殺そうとしますが寸前で失敗。怒り狂った贏政は燕の都薊を攻め落とし住民を殺戮します。燕王と太子丹は遼東に逃れますが、丹は秦との和睦を望む父親に殺され、その燕王も捕らえられ、燕は滅亡しました。
前225年、贏政は魏の都大梁を包囲。水攻めにして3ヶ月後にこれを陥落。
前224年、ついに最大の敵、楚との攻防が始まります。贏政は若く血気にはやる李信と蒙恬に指揮させますが大敗。代わって老将軍王翦と蒙武にほぼ全軍の指揮を任せ、60万の大軍で攻撃。前223年、楚を滅ぼしました。前222年、燕の残存勢力を滅ぼしています。
最後に残った斉に対しては、趙の時と同様、買収工作を進め、前221年、大軍を発して攻め寄せます。斉は工作が功を奏して戦わずして降伏。同年、東越も服属させてついに天下統一を達成しました。

統一後、重臣らと諮り、皇帝の称号を新たに作り、秦始皇帝と称しました。旧王国を解体し、秦の制度だった郡県制を全土に敷き、その行政官を各地に派遣して中央集権体制を強化します。
各国でまちまちだった度量衡、通貨、車の軸幅、数の単位表記、文字・書体を統一します。これにより意思疎通、経済活動がよりスムースに行えるようになりました。
一方で、すでに建設を進めていた生前陵墓の驪山の工事、阿房宮の建設、各国が建設していた長城をつなげる事業(万里の長城)、運河「霊渠」の開削など、大規模な土木工事のために全土から人民を徴用しました。のちの漢の高祖劉邦も、小役人だった頃に労働者を連れて行く仕事をしています。人々はこれを嫌がり、逃亡者も相次ぎますが、法によってこれを厳しく取り締まります。
始皇帝は全土を数度にわたって巡察しました。そのための専用道路まで作らせています。途中、各地で刻石を彫らせて自分の事跡を誇示し、また泰山に登って天帝に報告する封禅の儀式も行いました。
この巡察の途上、博浪沙で飛来してきた重りが副車に激突する事件が起こりますが、これは、のちに劉邦の軍師となった張良による暗殺計画でした。

始皇帝はこの頃から不老不死を求めるようになっていたともいいます。そのために神仙思想を唱える怪しげな方士らの話に乗って神仙を探す金を与え(日本に来たともいう徐福が有名)、自らは水銀を飲んだりしたとか。この水銀に因る中毒が死因という説も。
始皇帝は、淳于越が郡県制を止め古い封建制に戻すよう上奏したことをきっかけに、李斯らの主張を入れて、現実的に必要な書籍を除き、政策の障害となる「古い書物」を全土で焼却処分させます(焚書※5)。また方士の廬生らの口車に乗せられて「真人」(不老不死の超人)から不老不死の秘薬を得ようとしますが、一向に現れず(※6)、盧生は始皇帝の政策を批判して逃走。始皇帝はこれを怒り学者ら460人余を生き埋めにしました。これがいわゆる坑儒であり、現在では焚書坑儒は思想弾圧の代名詞となっています(※7)。焚書坑儒を諌めた始皇帝の長男扶蘇は前線に送られました。
前210年、4回目の巡察に出た始皇帝は、途上で病に倒れ、後継者を長男の扶蘇と定め、後事を側近の宦官趙高と、宰相の李斯に委ねて亡くなりました。
その遺言は、権力を欲する趙高に握りつぶされ、そそのかされた李斯とともに扶蘇を自殺に追い込み、末子の胡亥が二世皇帝に即位します。やがて圧政に苦しむ人々が各地で蜂起、趙高はこれに対応せず、胡亥も宮中の奥で実情を知らずにいたため、劉邦と項羽の侵攻により始皇帝の作り上げた統一国家は短命のうちに崩壊しました。
始皇帝の強権的な政治は後々批判され、その名にはイメージの悪さがつきまといます。
一方で、漢の高祖劉邦は天下を得ると、皇帝を名乗り、漢も秦に倣って中央集権国家としました。以後歴代王朝はこれを踏襲していくことになったわけです。始皇帝の作ったシステムは広大な土地と膨大な人民を支配する体制として優れていたからでしょう。

※1:形式的には残っていた小国の「衛」が滅んだのは二世皇帝胡亥の時だが、実質は秦の統一国家だった。
※2:史記は歴史書であると同時に物語的要素も強く、漢臣である司馬遷の立場上秦の始皇帝を貶める意味もあったと思われる。
※3:三国時代の蜀の政治家、呂凱は、益州永昌郡「不韋県」の出身で流刑になった呂不韋一族の子孫と言われる。
※4:呂不韋は自分の抱える豊富な食客を動員し、諸子百家から自然科学までを網羅した「呂氏春秋」という書物を編纂した。これを公開し、一字一句でも追加修正できたら千金与えると布告したことから、一字千金の熟語が生まれた。
※5:焚書は、人々に必要な農学、医学、占いの書籍を除く、各国の歴史書、諸子百家の書の所有を禁じる法(挟書律)を制定し、該当書籍は提出し焼却処分にするよう命じたもの。法令に関しては秦の役人が直接指導することにしていた。儒教の経典「六経」のうち現在に伝わっていない「楽経」はこの時失われたと言われるが、存在を含め異説も多い。
※6:廬生は、真人は他の人がいると現れないと説明し、真に受けた始皇帝が宮中の奥に潜んで人目を避けたにも関わらず真人は出てこなかった。「人ではない」宦官の趙高を重用したのもこのためだと言う説もある。
※7:坑儒は儒者を穴埋めにするという意味で、刑罰を多用する法家主義的政策を批判した立派な儒者を皆殺しにしたかのように言われているが、実際には、方士廬生が起こした事件の審問で、他者を告訴して責任逃れをしようとした者が相次ぎ、告訴された無関係の学者が多数巻き添えで殺された、という説もある。儒学を標的にした思想弾圧ではなく事件後も始皇帝の側近として仕えた儒者もいる。

☆この内容、および、より詳細なデータは総合年表HP(http://www.sogonenpyo.jpn.org/)に追加されます。
ラベル:年表 世界史
posted by あお at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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