2014年09月21日

悪人列伝−戦後民主主義の斜め上を行った男、皇帝ボカサ

第二次世界大戦は、その規模、兵器の発達などの特徴の一方で、世界の勢力図を大きく塗り替えた戦争でもありました。
戦後は東西冷戦の二極構造となる一方、植民地が次々と独立を果たし第三勢力へとつながったのも、大戦で宗主国が国力を衰退させたことなどが背景にあります。
そして、政治思想的にも、それまで主流だった君主制がその意義を失っていき、戦後も君主のいる国は王の政治権力を弱めた立憲君主制として、また王を廃立して共和制へと移行する国も増えていきました。
そんな中、戦後になって王制になった国もわずかに存在します。
たとえば、フランコ独裁政権から立憲君主制へと移行したスペイン。しかしこれは、元々スペインの王朝だったボルボン朝が復位したともいえ、政治は民主制を取り、王位は一種の象徴とも言えるものでした。
しかし、本気で君主制に移行し、それもあろうことか、皇帝になろうとした男がいます。
それが、中央アフリカ帝国皇帝、ボカサ一世。

ジャン=ベデル・ボカサは、フランス領赤道アフリカのムバカ族の族長の家に生まれました。一族は独立運動を展開していました。彼自身は自由フランス軍の兵士として活躍した後、従兄弟で独立した中央アフリカ共和国初代大統領となったダヴィド・ダッコに呼ばれその軍を指揮することになります。ダッコもまた、一族の独立運動家(※1)でボカサの叔父でもあるバルテレミー・ボガンダに誘われて政治の世界に入った人物であり、ボガンダが独立直前に飛行機事故死すると跡を継ぎ、1960年8月13日、宗主国フランスの後押しで中央アフリカ共和国は独立。初代大統領になりました。ところがダッコは国内を統制できず、経済政策も失敗。汚職が蔓延し、また反対勢力を抑えられなかったため、国力は衰退の一途をたどります。アフリカの独立国の多くが、皮肉にも植民地から脱したことで経済的に不振になる例は相次ぎましたが、中央アフリカ共和国も同じでした。

ボカサはそんな状況を受けて1966年、クーデターを起こして全権を掌握。もっとも、従兄弟であるダッコを殺したり、追放したりはせず、政権に取り込みます。
ボカサは軍事独裁政権を樹立すると、外交力を駆使して、ザイールなど周辺国を始め、ソ連や東欧諸国の共産圏、ユーゴスラビアなどの第三国と友好関係を築き、黒人でありながらアパルトヘイト政策を推進した南アフリカとまで関係を結ぶほど。
中でもフランスとの関係は大きく、もともとド・ゴールの部下だったこともあり、その葬儀には自由フランス軍の軍服を着て出席。国内の鉱物資源の利権を餌に、時に駄々をこねながら、フランスの有力政治家らとのコネクションを活かして経済支援を取り付けます。しかし、その経済政策はダッコとさして変わらぬまま。フランスからの支援も、同族経営の企業があげる利益もみな懐に入れ、贅沢三昧。危機感をもった軍部がクーデターを起こそうとすると、軍・警察の幹部を粛清。政権樹立に貢献した閣僚らも次々と罷免・処刑し、そのポストの多くは自分で兼任しました(※2)。

政治権力として弾圧するだけでなく、自らも刑務所へ赴き、収監されている政治犯らを直接殺したと言われています。刑務所には小中学生まで収監され、その子どもたちを自ら拷問にかけたとも。後には人肉を食したという噂も流れました(※3)。
彼は、1972年には終身大統領、そして1976年12月4日、国号を中央アフリカ帝国と改め、皇帝へ即位します。
彼の理想はフランス皇帝ナポレオン。
即位1年後、準備万端、戴冠式が行われました。バチカンでローマ教皇から戴冠してもらうつもりだったが断られたと言われ、昭和天皇とイランのモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝を招待しましたが、どちらも参列しませんでした(※4)。式典は国家予算の2倍、フランスから料理人を多数連れてこさせ、ドイツからは多数の高級車を持ち込み、熱帯の国なのに豪華な外套を着て、宝石を散りばめた王冠をかぶり、ダイヤモンドを多数はめた杖を持ち、8頭立ての馬車に乗って高級車100台以上を従えてパレード。豪華絢爛な式典を行いました。この様子はテレビ中継され全世界へ放映されますが、あまりの贅沢ぶりに、アメリカ政府は呆れて支援をうち切ってしまいます。批判に対しても、ボカサは「偉大な歴史は、犠牲なくしては創造できない。民衆は犠牲を甘んじて受けるのだ」と豪語します。
フランスのジスカールデスタン大統領は賄賂と鉱山権益を受けて、金銭的支援をし、「皇帝」を承認しました。

皇帝となった彼は、ますます贅沢三昧、粛清の嵐、30歳以下の国民を与党の党員とし、政治学の講義、教育を全面禁止し、贅を尽くすためなら護衛の警備兵の給与までケチってしまうという始末。
父親の無茶苦茶ぶりに、とうとう息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子までが批判を展開して国外追放されます。ボカサは猜疑心にとりつかれたでしょう。
国内の不満は頂点に達している中、彼は自らデザインし同族企業の作った制服を小学生に義務化させようとしました。これに反発した市民がデモを起こしたところボカサはこれを武力鎮圧。子どもを含む400人以上が死亡する事件になりました。この結果、さすがのフランスも自国への波及を恐れてかこれを批判、援助を拒否します。
経済的にさらに追い詰められたボカサは、イスラム教に改宗して、アラブ諸国からの支援を取り付けようと画策。サラー・エッディン・アフメド・ボカサと名乗り、リビアのカダフィの元へ交渉に出かけます。カダフィはこれを歓待しました。
ところが、
この外遊のさなかの1979年9月20日。フランス軍主体でダッコを担ぎだしたクーデターが勃発。中央アフリカ帝国はあっけなく崩壊しました。
ボカサはよりにもよってそのフランスへ亡命しようとします。知己の多いフランス政府を動かして復帰しようとますが、さすがにうまく行かず、腹をたてた彼は、ジスカールデスタン大統領との関係をマスメディアに暴露し、フランス政界を揺るがす大スキャンダルに発展しました。

コートジボアールに亡命した彼は、かつてフランス軍にいたことからその恩給で暮らしました。1986年、周囲の反対を押し切って帰国。逮捕され死刑判決を受けます。1993年恩赦で減刑。1996年11月3日に病気で死去しました。75歳。多くの人を犠牲にした独裁者は因果応報を受けることもなく寿命を全うしたわけです。
2010年12月、中央アフリカ大統領フランソワ・ボジゼにより、ボカサの名誉回復がなされました(※5)。

現代でも、国際情勢のはざまをうまく利用した独裁者は複数存在し、昔と変わらぬ狭小な視野で贅を尽くし、少なからず市民が抑圧を受けています。彼らは皇帝の称号こそ名乗りませんが、専制という意味では同じでしょう。
しかし、民主化が進んでいた20世紀半ばという時代に、時代錯誤な「皇帝」となったのは、後にも先にも、ジャン=ベデル・ボカサしかいませんでした。彼が夢見たのは、まさに物語の中の「王様」だったのかもしれません。

※1:ボガンダが起こした組織が黒アフリカ社会進歩運動 (MESAN) で、アフリカ中央部全域を領土とするラテンアフリカ連邦を構想していた。
※2:16のポストのうち14を兼任したという。
※3:クーデター後、フランス軍の兵士らが、ボカサの宮殿にある冷蔵庫などから遺体を見つけたと公表したため。ボカサを貶めるための捏造とも言われる。
※4:国際的な慣習で、天皇家とパフラヴィー家は「Emperor」の称号で呼ばれていた。パフラヴィー朝はイスラム革命で失脚したが、天皇家は今もそのまま。なお、この「Emperor」は厳密には「king」の上に位置するものであって、中国語で言うところの「皇帝(「地上」を唯一支配するもの)」とは同義ではないが、そもそも中国の「皇帝」の定義も時代によって異なる上に、適当な訳語もないので、近代以降、同義として使われている。
※5:第6代大統領ボジゼはボカサ皇帝時代の軍の准将。
タグ:悪人 世界史
posted by あお at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪人列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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