2011年06月30日

6月30日の出来事

6月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1905年
アインシュタイン記念日
この日は、アルベルト・アインシュタインが論文「運動している物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌『アナーレン・デル・フィジーク』に提出した日です。これはそれまでのニュートン力学の矛盾に苦慮していた物理学界に大きな影響を与えた特殊相対性理論に関する最初の論文でした。特殊相対性理論によって、光速度の不変と相対性原理が提唱されました。
彼はこの年、「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」を発表し、「奇跡の年」と呼ばれています。1916年には一般相対性理論を提唱します。
のちには、彼の業績は、高く評価されていますが、当初彼の論文は、なかなか理解してもらえませんでした。また、頭の中でまとめられる仮説であるため、観測によって証明するのに非常に時間がかかりました。
実用的な利益をもたらさないことから、アインシュタインへのノーベル物理学賞授与も、相対性理論ではなく、「光電効果の発見」が受賞の理由でした。ユダヤ人だったために受賞に反対する人がいたともいわれています。
あとから考えると驚くこともありますが、科学史に残る発見や業績も、その時は案外評価されないことが多いものです。


1908年
ツングースカの大爆発
シベリアのエニセイ川の支流、ポドカメンナヤ・ツングースカ川上流の森林地帯で、この日の午前7時ころ、突如大爆発が起こりました。巨大なきのこ雲が発生し、爆風で周辺の森林が広範囲になぎ倒されました。
爆発の規模は10〜15メガトンと言われているので、史上最初の水爆実験アイビーマイク級の規模があります。
場所が非常に僻地で、遠方から観測はされたものの、爆心地周辺に全く人が住んでいなかったため、直接の犠牲者はいないとされていますが、逆に僻地過ぎて死者が出たかどうかもわかっていません。
最初に調査が行われたのは、ソ連時代になってからの1927年で、破壊された森林などはあったものの、隕石など落下物の痕跡は見つかりませんでした。そのため、この爆発が何か、諸説が飛び交います。彗星が爆発して蒸発した、非常に小型のブラックホールが衝突した、異星人の宇宙船が墜落した、という説まででます。またシベリアに膨大に眠るメタンガスが爆発的に噴出した、という説もありました。
現在も定説はないものの、数十mの小型の隕石が大気の下層で爆発四散したものだという説が有力です。
仮に隕石として、もし都市部に同様の隕石が落下してきたら、止めようもないわけで、相当な被害を出すことが想像できます。


1948年
トランジスタの発明を発表
トランジスタは電流を流すスイッチとして使われる半導体です。伝達を意味するトランスファーと、抵抗を意味するレジスターの合成語です。トランジスタは増幅にも使われます。
アメリカのAT&Tベル研究所のジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンが、半導体結晶の電子的性質の研究の過程でその性質を発見し、ウィリアム・ショックレーと3人で研究して発表したのが最初です。彼らは1956年にノーベル物理学賞を受賞しました。ショックレーはその後より実用的な接合型トランジスタを開発し、他の研究者も研究を進め、早くに実用化されました。それまでの真空管を使った電子機器を大幅に小型することが可能になります。トランジスタの機能は、後に集積回路が出現すると取って代わられますが、現在の電子ネット社会のきっかけとなった発明とも言えます。


1959年
宮森小学校事件
沖縄県うるま市に宮森小学校というのがあります。この小学校に戦闘機が激突する事件がありました。
1959年6月30日、嘉手納基地を飛び立ったアメリカ空軍の戦闘機F100Dが、離陸直後にエンジンが燃え出します。パイロットは爆弾を投棄後、人家がない方向に機種を向けて脱出しますが、コントロールを失った機体は旋回して市街地へ墜落。民家や公民館など35棟を次々と破壊した後、宮森小学校の校舎に激突しました。ジェット燃料により校舎は炎上、当時給食の時間だったために生徒らを巻き込み、死者17人(小学生11人と住民6人)、重軽傷者210人(児童156人、住民54人)という大惨事となりました。
戦後、沖縄及び本土で多数の米軍機が事故を起こしていますが、その中でも被害の大きさで際立った事件でした。


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2011年06月29日

6月29日の出来事

6月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1575年
長篠の戦い
天正3年5月21日。グレゴリオ暦では7月9日。
織田・徳川連合軍と武田軍が長篠設楽原で戦い、織田・徳川連合軍が勝利しました。
昔から知られているのは、この戦いで織田方は、3千丁の鉄砲を使い、交替しながら間断なく撃ち放つ三段戦法で勝利したというもの。これには最近、多くの問題点が指摘されています。
織田方が大量の鉄砲を動員したのは事実のようで、機動性の悪い鉄砲隊を守るために、陣地を構築したことも判っています。陣地は、川、土塁、馬防柵によって、騎馬隊を遮る構造になっていました。
しかし鉄砲を三段に分けて交代で使用したというのは正確ではないようです。同時代の記録になく、江戸期になって言われるようになったことや、明治期の陸軍がそれを取り上げたことによって流布した説と考えられています。また武田軍が映画やドラマのように騎馬隊だけだったわけでもありません。
当時の記録から、武田軍は柵などで前進を阻まれ、そこを隠れていた鉄砲隊の一斉射撃で甚大な被害を出し、ふたたび突撃しても、同じように撃退されたようです。戦闘が不利になり、武田親族の武将らから撤退していったことが混乱を生み、大敗を喫しました。
武田軍を支えた主だった武将が討ち死にし、武田氏は一気に衰退していくことになります。


1725年
新井白石死去
享保10年5月19日。
新井白石は、上総久留里藩士新井正済の子で、幼い頃より頭脳明晰で知られたといいます。
藩主土屋直樹が改易されたのを機に、大老堀田正俊に仕えますが、彼は評判が悪かった上に稲葉正休に殺害されてしまいます。
堀田家が窮するようになると辞職し、浪人となって学問に励みました。彼の才能は評判が高く、豪商らから婚姻の話があったといいます。木下順庵門下に入ると、順庵の推挙で甲府藩に仕えました。藩主徳川綱豊は、その後、将軍綱吉の後継となり、家宣と名を改め、6代将軍となりました。これにより白石の立場は強化されます。
白石は旗本となりますが、基本的には無役。そこで側用人間部詮房が将軍の命令を取り次いで、白石が政策を考えるという体制ができました。彼が目指したのは財政の変更。荻原重秀が行った貨幣改鋳をもとに戻して金銀の含有率を上げ、長崎における海外貿易を制限し(海舶互市新例)、商品作物を国産化し、勘定吟味役を再設置しました。さらに朝鮮通信使の待遇を簡素化しました。いずれも儒教に基づく商業の抑制と、財政負担を軽くしようとしたものでした。これらは正徳の治と呼ばれています。
しかし、将軍の権威を背景にした政策の実施は、幕閣との間の軋轢を生み、将軍家宣の死で一気に悪化しました。
彼は引退を余儀なくされ、彼が定めた多くの政策は覆され、与えられた千駄ヶ谷の屋敷で暮らすようになります。彼の残した多くの著作物は、実はこの頃、記されたものでした。
彼の経済政策の評価は今でも賛否両論となっています。


1966年
ビートルズが初来日。
イギリス・リヴァプール出身のロックバンド、ビートルズは、同時代はもとより後世にも多大な影響を与えた世界史に名を残すグループです。
当時すでに絶頂期にあったビートルズを日本で公演させようと話は、同年3月に始まり、すぐに決定します。
しかし今でこそ、世界一流のアーチストが来る日本でも、当時はめったにない話。ましてやビートルズですから、国を上げての大騒ぎになります。
機動隊員まで動員した3万5千人の警備体制。気象条件で真夜中に羽田に着いた時からの熱狂的な騒ぎ。警察のパトカーによる先導で移動。東京ヒルトン(のちのキャピトル東京)に宿泊し外出もままならなかったとか。武道館での演奏に反発する人々がデモ行進をしたり、まさに社会的な事件でした。
公演は6月30日〜7月2日。前座では当時有名な国内の歌手やバンドが登場。観客が不平を言ったとか、時間が押したために大慌てで演奏して舞台を降りたとか、いろいろ言われています。
もともと音楽専用ではない上に、当時の音響機器では不十分で、興奮した観客の歓声もあったためか、聞こえない人も多かったといいます。
とにかく最初から終いまで、初めてづくし、異例づくしで、混乱づくしの日本公演でした。
日本独自の文化、サブカルチャーが世界で認められた今では、むしろ海外の大物アーチストが喜んで日本に来るようになり、逆に日本のアーチストやアイドルが海外で人気を博す昨今ですが、このころはまだ、慣れていなかった日本の初々しさも感じられます。もっとも、このあとのフィリピンではビートルズの行動を誤解した民衆が暴動になりかけたり、アメリカでもジョン・レノンのキリスト発言が原因で騒動になるなど、ビートルズの人気の高さ、影響力の大きさは世界的なものでした。


1995年
三豊百貨店崩壊事件
韓国ソウル市瑞草区にあった三豊百貨店は、1989年にオープンした比較的新しい百貨店でした。
しかしこの建物は、もともとオフィスビルとして建設され、親会社の三豊建設が途中で百貨店に方針を変えたために、改装され、見栄えと防火シャッターの設置のために、柱を撤去したり、補足するなどして、もろい構造になっていました。鉄筋もなかったといいます。
その上、屋上に大きな貯水タンクと冷房機、最上階のレストランに床暖房など、上部に重量が来るようにしてしまいます。
崩落前日からひび割れが生じ、徐々に大きくなっていましたが、営業は実施され、調査した建築士も補修で十分と過小評価します。そして午後5時52分、屋上から崩落していき、大勢の客を巻き込んで潰滅しました。地下にいたるまで完全に潰れ、まるでそこだけ更地にしたかのようにビルは消滅しました。
512人が死亡し、5人が行方不明、937人が負傷しました。地震でもガス爆発でもテロでもなく、何も無いのに崩れ落ちて多数の被害者を出すという前代未聞の大惨事でした。
直前の聖水大橋崩落事件などとともに、ずさんな工法が問題になったほか、災難管理法が成立するきっかけとなりました。


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2011年06月28日

6月28日の出来事

6月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1193年
曾我兄弟の仇討ち
建久4年5月28日です。日本三大敵討ちの一つとして知られます。
事件の背景は、工藤祐経と伊東祐親の所領争いにありました。二人は甥と叔父の関係です。安元2年(1176年)10月、工藤祐経は叔父暗殺を企てて、祐親の子、河津祐泰を殺害してしまいます。その後、源平の争いになると、工藤祐経は源氏方に、伊東祐親は平氏方についたため、祐親は滅び、河津祐泰の二人の子ども一萬丸と箱王丸だけが残されました。二人の母親は曾我氏に再嫁し、二人も同家で育ちました。二人は苦労しましたが、兄は曾我家をついで曾我十郎祐成と名乗り、弟は祖父祐親と縁戚だった北条時政を頼り曾我五郎時致と名乗ります。兄弟は父の仇をはらすため機会を窺いました。そして、源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩を行ったとき、参加した工藤祐経を狙いました。兄弟は酔って寝ていた祐経を殺害し、兄は駆けつけた仁田忠常に討たれ、弟は源頼朝の寝所も襲おうとして捕らえられ、処刑されました。のちに『曽我物語』として有名になります。
この事件で、一時頼朝の消息が不明になったことから、弟の範頼が北条政子に「自分がおります」と言って慰めたところ、謀反を疑われ自刃させられたといいます。


1914年
サラエボ事件
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボで暗殺されました。
暗殺事件を引き起こしたのは、ガヴリロ・プリンツィプというセルビア人青年。
セルビアでは、ボスニア・ヘルツェゴビナの領有権と、スラブ人国家建設のために、オーストリア帝国への反感が強まっていました。セルビア兵士や学生らの中に、反帝国の秘密結社ツルナ・ルーカが作られ暗躍していました。暗殺犯は、彼らから支援を受けていたとも言います。
ボスニアの首都サラエボで軍事演習が行われることになり、視察も兼ねて皇太子フランツとゾフィーが訪問することになります。その訪問予定日がセルビアにとって屈辱的なコソボの戦い(ユリウス暦1389年6月15日)でオスマン帝国に敗戦した日だったことも重なり、二人は狙われました。
暗殺犯は7人おり、そのうち2人目の犯人が爆弾を投げつけ、後続の車が被害を受けています。ところがこの爆破事件の負傷者を見舞うため、皇太子夫妻が予定を変更したことから、病院へ向かう車が道を間違え、方向転換しているところに、プリンツィプが遭遇してしまったのです。とっさに彼は銃を取り出し二人を撃ちました。
二人は亡くなり、オーストリア帝国は、セルビアに無理な要求を突きつけます。セルビアは一部を呑みますが、オーストリアは認めず7月28日、宣戦布告しました。これがヨーロッパ中を巻き込む第一次世界大戦の惨禍に発展するとは誰も予想していなかったでしょう。
ちなみに皇太子妃ゾフィーは、貴賤結婚だったために冷遇されており、皇太子は彼女を慰めるために同行させたとも言われています。

1919年
ヴェルサイユ条約調印
1918年11月、ドイツが降服して第一次世界大戦は終結。1919年1月18日よりパリ講和会議が開かれます。
会議の内容は戦勝側の5大国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本)が主導して話し合われました。もっとも日本は欧州戦線にはほとんど関わっていないため、特に欧州3カ国が多くを決定しています。そしてドイツに対する莫大な賠償金の支払い、本国領土の周辺国への割譲、海外植民地の廃止、再軍備の大幅な制限を決定し、条約は調印されました。これ以降をヴェルサイユ体制と呼びます。
会議では日本に対する権益についても話し合われ、山東半島の日本の権益を認めた一方で、アメリカの権益は認めず、日本が主張して多くの賛同を得た人種差別撤廃条項はアメリカの議事進行によって妨害され認められませんでした。この結果、日米の関係がギクシャクすることになります。また、中国ではドイツに代わって出てきた日本に対する反感が高まります。
そして重い負担を強いられたドイツでは民族主義が台頭していき、やがてナチス政権へとつながりました。
のちに第二次世界大戦後の処理では、賠償金請求はせずに敗戦国の復興を急がせたのも、ヴェルサイユ体制の教訓があったからだと言われています。
ちなみにドイツは2010年に賠償金を払い終えています。


1991年
COMECON解散
コメコンというのは、ソ連が主体となって共産主義国で構成されていた経済相互援助会議のことです。
西側ではCommunist Economic CommunityからCOMECONと呼ばれていました。
アメリカが行ったヨーロッパの復興支援政策マーシャルプランに対抗する意味から、東欧地域におけるソ連優位の体制を図るもので、東欧諸国が参加していました。
しかしハンガリー動乱など、東欧でのソ連に対する反感が強まったことから、より貿易経済会議へと見直されました。
東欧以外に、モンゴル、ベトナム、キューバが加盟していました。
またアジア・アフリカの社会主義国がオブザーバーに、フィンランド、メキシコ、イラクが西側に近い中立国も協力国に名を連ねています。
しかし世界が自由主義経済へと移行していく中、東欧諸国で民衆革命が起こると、ほとんど意味がなくなり解散しました。
直後にワルシャワ条約機構もなくなり、そしてソ連そのものが崩壊することになります。


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