2011年06月18日

6月18日の出来事

6月18日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

618年
隋が滅亡
義寧2年/武徳元年5月20日。
この日、李淵が隋の恭帝楊侑から帝位を禅譲されて皇帝に即位。唐を建国します。
李淵は、北周の唐国公李モの子。名門隴西李氏の出身で、隋の初代文帝の皇后、独孤伽羅は叔母でした。この縁で文帝に可愛がられ出世していきます。
文帝の跡を継いだ煬帝は、3度にわたり大規模な高句麗遠征を行いますが、失敗に終わり、国中に反乱が勃発しました。
李淵は弘化留守として関右の諸軍を指揮し、度重なる反乱に対応します。また北の突厥の侵攻を迎え撃つなどして617年、太原留守に任ぜられました。しかしもはや隋王朝に見切りをつけ、兵を率いて南下。すでに煬帝は反乱を恐れて江南に逃げ、世情から目を背けていたため、11月に帝都の大興城(長安)を占領すると、煬帝を太上皇として代王楊侑を擁立し即位させます(恭帝)。
4月10日、煬帝が宇文化及・宇文智及兄弟に殺され、その情報が伝わると、李淵は恭帝から禅譲を受けるという形で即位し、唐を建国しました。


1815年
ワーテルローの戦い
ロシア遠征の失敗などで、一旦は失脚したナポレオンは、流刑地のエルバ島から脱出すると、再びフランスに戻って、3月20日パリに入ると、皇帝に復帰します。フランスには彼の支持者が大勢いました。
それに危機感を持つ各国は、対仏大同盟を組んで対抗しようとしたため、ナポレオンは先手を打って、各個撃破しようと図ります。
6月16日、まずリニーの戦いでプロイセン軍を撃破し、死傷者1万6000もの大損害を与えますが、ナポレオンはプロイセン軍を壊滅させるべき、軍を分けて3万の兵で追撃を図ります。一方で、ナポレオン自身が残りの7万2千の兵を率い、ブリュッセルを目指す途中、イギリス・オランダ連合軍に出くわします。連合軍は6万8千。プロイセン軍と合流するために待機していました。
ここでナポレオンは、進撃を遅らせたために、時間を与えてしまいます。英仏軍が衝突し、一進一退の中、双方に大きな被害が出ますが、そこにプロイセン軍4万8千が連合軍に合流してしまうのです。両軍に対応せざるを得なくなったフランス軍は、それでも猛攻を繰り返しますが、イギリス軍の守りが堅く、プロイセン軍との連携によりフランス軍はついに潰走しました。
ナポレオンは6月22日に退位し、イギリスへ亡命。セントヘレナ島へ流されることになります。
なお、イギリス側はウォータールー(ワーテルロー)の戦いと呼び、この名は世界中の地名になりましたが、勝利に貢献したプロシア(ドイツ)側では戦場となった場所の名からラ・ベル・アリアンスの戦いと呼んでいます。


1945年
ひめゆり学徒隊に解散命令
沖縄戦で看護要員として動員された女子学生の部隊「ひめゆり学徒隊」。
「ひめゆり」というのは、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の両校を指す通称で、もともとは両校の広報誌の名前を合わせたもの、また、安里川にかかる姫百合橋が起源とも言われています。
1945年3月23日、両校の生徒222人と教師18名の240名が、看護要員として動員されました。ひめゆり学徒隊、というのは正式名称ではなく、通称です。他にも沖縄県立第二高等女学校の白梅隊、沖縄県立第三高女のなごらん学徒隊、沖縄県立首里高女のずいせん学徒隊、私立積徳高女の積徳学徒隊、私立昭和高女の梯梧学徒隊などがあります。
ひめゆり学徒隊は沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)で、傷病兵の看病と手当にあたりました。また、本島南部の各地に分室が置かれて、それらにも配置されたといいます。
沖縄守備隊司令部が自決して組織的抵抗を終える直前の6月18日、学徒隊に解散命令がでました。しかしこのあと多くの犠牲者を出しました。ほとんどが戦闘に巻き込まれたものと思われます。他の学徒隊も、解散命令後に多くの犠牲者を出しています。一部では自決した生徒もいました。米兵を恐れたり、事情をよく把握していない米軍側の混乱もあって、助けられなかった例もあったでしょう。240名のうち136名が戦没しました。


1985年
豊田商事会長刺殺事件
1980年代前半、世の中を騒がせた巨大詐欺事件がありました。それが豊田商事事件。
豊田商事は、独居老人などにうまく取り行って、金の地金(要するに金の延べ板)の購入契約を交わします。しかし金は、豊田商事が預かっておく、として、代わりに証券を発行します。つまり購入者には証券の紙だけ。購入者が不安に思って金の引渡しや、解約返金を求めても応じず、消費者センターに苦情が殺到するようになりました。豊田商事側では利益の半分を給与に、残りを会長の永野一男の借金返済などに使われてしまい、購入者は大損しました。被害総額は2000億円とも言われます。
その永野会長が逮捕される、という情報が流れ、自宅マンションにマスコミが殺到します。と、そこへ、被害者の関係者を名乗る二人の自称右翼の男が現れ、永野を出せと騒ぎます。そして二人はマスコミの見ている前で、窓を壊して侵入。永野会長を軍刀で惨殺し、返り血を浴びた姿で「警察を呼べ。オレが犯人や」とマスコミに向かって言いました。殺害の場面はないものの、犯人の犯行の様子や、会長の遺体などがテレビや雑誌で報道されたため、何もしなかったマスコミに対する批判もあって、大騒ぎになりました。一方で事件を起こした二人の男に対する同情的な意見も多く、それは豊田商事事件があまりにも巨大で悲惨だったからとも言えます。
豊田商事事件をうけて、クーリングオフ制度が導入されることになりました。


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2011年06月17日

6月17日の出来事

6月17日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1565年
永禄の変が起こる。
永禄8年5月19日。
松永久秀と三好三人衆が、二条城に13代将軍足利義輝を襲撃し殺害した事件です。二条城も焼失しました。
背景に守護代から畿内に大きな勢力を持つようになった三好氏と将軍家の対立があります。もともと細川氏の被官だった三好氏は、主君筋の細川氏を追放し、将軍も京から追い落として権力を確立していきます。
しかし、将軍足利義輝側にも六角氏などの支援が入って三好氏と戦ったために、三好長慶は将軍と和睦、御相伴衆に加わります。
また三好一族の有力武将が相次いで死亡し、長慶も亡くなると、義輝は実権を確立し、三好氏は勢力を弱めていきました。
そのことを危惧したのが、長慶時代の重鎮「三好三人衆」(三好長逸・三好政康・岩成友通)です。彼らは同じ三好家の重臣だった松永久秀と組み、足利義栄を将軍に擁立するために二条城を襲撃しました。露骨な謀反です。
足利義輝は剣豪塚原卜伝に教えを受けた剣術家でもあり、襲撃を受けると、畳に多数の刀を突き刺し、それを抜いては戦ったといいます。しかし衆寡敵せず討ち死にしました。
しかし三好三人衆と松永久秀は対立。義栄も病死し、足利義昭を奉じた織田信長が畿内へと入ってくると、天下はあっという間に失われました。


1631年
ムムターズ・マハルが亡くなる
ムムターズ・マハルはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの第1皇妃。ペルシャ系の富豪アーサフ・ハーンの娘で、本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーガムといい、第4代皇帝ジャハーンギールからムムターズ・マハル(「宮殿の光」)という称号をもらいました。
1612年、ジャハーンギールの第3皇子フッラムと結婚します。この人物がのちの第5代皇帝。夫婦仲は非常に良く、14人も子が生まれた。しかし成人したのは6人で、男子4人のうち、3男のアウラングゼーブ・アーラムギールが第6代皇帝となりました。
夫は、父帝と対立し、さらに皇位継承をめぐって兄弟で争うなど苦労しますが、彼女は付き従いました。
しかし、夫がデカンへ遠征中に、遠征先で第14子を生んでまもなく亡くなりました。産褥死だと言われています。
シャー・ジャハーンは、妻の死を大いに悲しみ、彼女の廟としてタージ・マハルを建立します(22年かかり1653年ころ完成)。さらに自らの廟を川を挟んだ対岸に建てようとしました。ところが皇位を長男ダーラー・シコーに譲ろうとしたため、自分同様兄弟争いになり、3男アウラングゼーブが彼から皇位を簒奪し、アーグラ城塞に幽閉されました。彼はムムターズ・マハルの眠るタージ・マハル廟を眺めながら、1666年に74歳で死去しました。


1933年
ゴーストップ事件
陸軍と警察が対立した事件です。
大阪市北区の天神橋筋6丁目交差点で、休暇中の陸軍第4師団の中村政一一等兵が信号無視をしたとして、大阪府警察部曽根崎警察署の戸田忠夫巡査が天六派出所まで連行しました。二人は言い争いになり、両者とも負傷します。
一旦は駆けつけた憲兵隊がその場を収めますが、憲兵隊は曽根崎署に抗議したことから、事件は軍上層部に伝わってしまいます。警察側も、上へと伝わり、大阪府が乗り出してくる事態に。
6月22日には、第4師団はこの事件を「天皇陛下の軍隊」に関わる問題、と表明したことから、警察も「警察も天皇陛下の警察である」を表明し、対立は激化。24日、寺内寿一第4師団長と縣忍大阪府知事の会談も決裂。
7月17日、中村一等兵は戸田巡査を告訴。8月24日には、目撃者の高田善兵衛が、憲兵と警察に何度も取り調べを受けた挙句、自殺し、穏便に収めようと尽力していた高柳博人曽根崎署長も過労で倒れ死去する事態になります。
新聞も大々的に取り上げるようになったため、昭和天皇の特命を受けた白根竹介兵庫県知事が調停し、軍と警察は和解に合意。11月20日、当事者の中村一等兵と戸田巡査が大阪地方検事局和田良平検事正の官舎で握手して終わらせました。警察側が譲歩したと言われています。その後、戦時色が濃くなる中、むしろ軍が国民への行政的な権力を強めていきます。


1944年
アイスランド共和国が成立
北大西洋の火山島アイスランドは、デンマークから独立しました。
アイスランドは870年ころにバイキングのインゴールヴル・アルナルソンやケルト人らが移住したのが始まりと言われています。1000年ころにはグリーンランドや北アメリカにも行き、往復していたといいます。
移住していった人々は地域に分かれて暮らし、民会(シング)で政治を行いましたが、930年、全島から代表者が集まり、アルシングという総会が開かれました。世界で最初の民主議会とも言われています。自治国家となりますが、1262年にノルウェーに支配されて以降、独立性を失いました。1380年、ノルウェーがデンマークに支配され、アイスランドもデンマークの支配下に置かれます。
1874年には憲法が制定され、1918年にはデンマークとの連合王国になり、徐々に自治が復活していきます。
1940年4月9日、ナチスドイツがデンマークに侵攻すると、5月10日イギリスがアイスランドに侵攻、占領します。アメリカ軍に交替し支配は継続されますが、アイスランドの住民は、これをきっかけに独立を目指すようになり、デンマークからの独立を宣言、スヴェイン・ビョルンソンが初代大統領に選出された。
なお、アルシングはその登場以来一時期を除き継続して続き、現在の国政議会につながっています。


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2011年06月16日

6月16日の出来事

6月16日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1671年
スチェパン・ラージン処刑
スチェパン・ラージンとは、コサックのアタマン(指導者)として名を馳せた人物です。日本では、ロシア民謡ステンカ・ラージンで有名な人物です。
ドン・コサックの家に生まれ、若い頃から盗賊団を率いてヴォルガ川流域で活動していました。
皇帝による度重なる戦争と重税にあえいだ農民は逃亡し、やがてラージン率いる盗賊団に加わっていきます。盗賊団は河川を航行する金持ちの商船などを襲い、勢力を拡大すると、船団を率いてロシア南部を席捲。カスピ海に拠点を置き、ロシア帝国だけでなくペルシアも襲うようになります。
1669年7月ラージン討伐のペルシア艦隊は敗北。ロシア帝国はラージンを懐柔せざるを得ませんでした。しかしラージンは翌年アストラハンを占領すると帝国に対し反乱を引き起こし、身分差のない平等な国家の建設を宣言します。これによりヴォルガ川流域に大きな影響力をもつようになりますが、スヴィリ川での戦いでの敗北を機に徐々に勢力を衰退させると離反が相次いで、1671年に捕まり、赤の広場で生きたまま四つ裂き刑にされました。
皇帝専制に抵抗した指導者とも評されます。


1903年
フォード設立
アメリカ三大自動車メーカーの一つ、フォードを生み出したヘンリー・フォードは、農家の生まれで、十代で機械工になるほど機械好きだった人物。エジソンの照明器具会社でエンジニアとして活動した後、1896年、自作の自動車を完成させて、自動車会社を起こします。これはすぐに失敗したため、1899年、あらたに自動車会社ヘンリー・フォード社を立ち上げます。ところが会社の方針をめぐって共同経営者らと対立して1902年に追い出されてしまいました。この会社がのちのキャディラックです。めげないフォードは翌年投資家からの資金を得て新たにフォードを設立しました。
フォードの最大の特徴は、大量生産。部品を規格化、共通化し、未熟な工員でも出来るよう、分業流れ作業化を進めて、低コストによる大量生産を成し遂げました。その際に製造されたのが、1908年から販売された世界最初の大衆車T型フォードです。
フォードの変わっているところは単にベルトコンベア式生産方法を確立しただけでなく、社員の給与を上げて、自社製品を購入できるようにしたことでしょう。そうすることで社員をつなぎとめ、会社と共に豊かになるという発想は、経営モデルとしては賛否あるでしょうが、人件費を削るだけの昨今の日本企業に比べるとかなり異色です。
一方で、機械的な単純作業が人間的でないと批判されたり、コスト削減のため車種のモデルチェンジをせず、同じ車ばかり作り続けたため、クライスラー、GMの台頭を許しました。


1963年
テレシコワ宇宙へ
ソ連の宇宙飛行士であり、女性初の宇宙飛行士でもあり、初めての非軍人飛行士でもあったワレンチナ・テレシコワが、ボストーク6号で宇宙へと飛び立ちました。
1961年に始まった女性宇宙飛行士隊の選抜で残った5人のうちのひとりで、5人ともスカイダイビングなどの経験がありました。
バックアップ要員は5人のひとりイリーナ・ソロウィオワ。彼女はボスホート計画で宇宙遊泳をする予定でしたが、計画が中止になりました。
ミッションは宇宙飛行が女性の体に与える影響を調べるものだったと言われ、彼女は飛行中、宇宙酔いや月経でパニックに陥ったといいます。しかし飛行中のトラブルを指摘するなど最後までミッションをやり遂げています。その結果を受けてかはわかりませんが、スベトラーナ・サビツカヤが宇宙に出る1982年まで19年間、女性飛行士は出ていません(スベトラーナは1984年には宇宙遊泳もしています)。
なお、彼女が飛行中に「私は、カモメ」と言ったことが、なにか宇宙を飛ぶことを詩的な意味合いで言ったかのように紹介されますが、これは彼女のコールサインで、実際には通信のために「こちら、カモメ(ヤー、チャイカ)」と言ったことにちなみます。


1976年
ソウェト蜂起
南アフリカでは1994年まで、アパルトヘイトという露骨な人種差別政策を行っていました。
白人と有色人種をあらゆる場面で区別するもので、それは言語教育にすら行われました。それがアフリカーンス語という言語。
名称こそアフリカですが、この言語はオランダ語に現地の言葉やマレー語が混ざった白人支配層の使用した言語。黒人層は各部族にそれぞれの言語が使われていました。このアフリカーンス語を黒人教育に対して強制的に実施しようとしたことが、黒人側の反発を招きました。ヨハネスブルクの郊外にある黒人居住区ソウェトで、教育制度に反対する黒人学生、生徒らがデモ行進を実施します。デモは穏やかに行なうよう計画され、警察もバリケードを築くだけで当初は静かに推移していましたが、なにかしらのきっかけで、デモ隊は投石、警察は催涙ガスを発射し、その後、警察が実弾を使用したことから、デモに参加していた子供たちが次々と射殺される事態に発展しました。
25日までに少なくとも176人が死亡する大事件となり、南アフリカの国際的地位は暴落、経済的大打撃を受けることになります。


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