2011年07月31日

7月31日の出来事

7月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1919年
ドイツ議会がヴァイマル憲法を採択
第一次世界大戦で敗北し帝政が崩壊したドイツで導入された共和国憲法です。ワイマール憲法ともいいます。
8月14日に公布・施行されました。
民主共和制を唱えた憲法で、いまだ帝国・王国が多かった当時としては、画期的な内容でした。
大統領権限が強い一方、その下に置かれた軍隊は志願制で、戦後に西ドイツで制定されたボン基本法の大統領権限を弱めて内閣を強くし、内閣に従う徴兵制の軍にしたのとは逆になっています。
大統領次第で軍が権力を握りやすいなど問題点もありますが、優れた憲法でした。しかし、第一次大戦の賠償金の負担と国民の不満が、ナショナリズムの勃興、共産主義の台頭を招き、政治は安定しないまま、ヴァイマール共和制はナチスによって崩壊しました。


1932年
ナチスの台頭
ドイツ議会の選挙が行なわれ、国家社会主義ドイツ労働者党が230議席を獲得し第一党となる。
ドイツ労働者党からヒトラーが改名を進めて、1920年2月にこの党名に変更されました。ナチ、ナチスというのは蔑称で、自らは使っていません(エンエス(NS)という略称はあります)。
ヒトラーが加わってから、勢力を拡大するようになりますが、それでも当初は非常に小勢力で、1923年11月のミュンヘン一揆も失敗に終わり、1928年5月20日の国政選挙でも、ナチスは12人の当選に留まっています。しかし、ヴェルサイユ体制によるドイツ国民の負担、ルール工業地帯のフランスの占領、世界的不況がナチスを後押しし、1930年9月の総選挙で107議席を獲得しました。そして32年7月31日の選挙で一気に230議席を得ます。以後、政権に影響力を持つようになって行きました。
独裁政治や、軍事政権を、単に軍部の独走のように言う人もいますが、それらを権力の座に付かせるのは、経済の悪化と国民の不満によるもので、民主的に成立していることも多いです。そして民主体制は崩壊するという皮肉な結末になるわけです。


1959年
ETAの結成
バスク地方の分離独立を目指す民族組織「バスク祖国と自由」がETAです。ETAとは地元の言語でエウスカディ・タ・アスカタスナの頭文字。
バスク地方というのは、スペイン北東部からピレネー山脈を越えて、フランス南西部に渡る地域のことで、ここに住む人々は特異な文化を持っていると古くから見られていました。実際、周辺のカスティーリャやカタルーニャとは異なっている部分が多くあります。ひとつにはローマ帝国による支配でローマ化しなかった歴史があります。過去にはナバラ王国など独立国家だったこともあります。
19世紀に入りカルリスタ戦争に巻き込まれて自治を失い、20世紀に入り、内戦で共和政府を支持したバスク地方は、フランコ独裁政権からは激しい弾圧を受けました。
そこで民族ナショナリズムが興り、ETAが結成されました。共産主義を唱え、バスクの独立を求めるのが目的でしたが、その活動の内容は殆どがテロであり、誘拐や強盗、武器の売買も行う組織です。
フランコ政権のあとの王政復古後も、反政府テロ活動を活発化しました。標的は一般市民にも及んでおり、そのため、市民の支持はバスク地方も含めて低く、そのせいか、何度も活動停止を宣言しては復活を繰り返しています。
ちなみにバスク地方は、バスク州が1979年10月25日に自治憲章を定め、自治政府がありますが、同じバスクでも歴史が異なるナバラ地方はこれに加わっていません。


2007年
コウノトリの巣立ち
兵庫県豊岡市で野生のコウノトリが日本で46年ぶりに巣立ちをする。
国内に繁殖する野鳥としては、絶滅したトキが有名ですが、実はコウノトリも国内で繁殖していたものは絶滅しています。すでに巣となる森林の減少などで戦前には数が激減しており、1986年2月28日に飼育していた最後の個体が死亡し、絶滅しました。このあたりはトキとよく似ています。ただトキと違い、大陸から渡ってくる個体はその後もいました。旧ソ連などから個体を貰い受け、1988年4月6日に国内初の人工繁殖に成功しました。1992年4月22日に野生復帰計画がはじまり、2005年9月24日には初めて放鳥。2006年4月14日、自然放鳥したコウノトリの産卵が確認されます(孵化せず)。そして2007年7月31日にはじめて、自然に生まれた個体が巣立ちしました。人工飼育は上手くいっても、環境が不向きでは意味がありません。農家などの協力が欠かせませんが、その負担は、自然農法で作られた米を消費者が買うといった方法で、国民全体で支えなければなりません。新たな農業技術の開発も必要でしょう。


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2011年07月30日

7月30日の出来事

7月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1419年
第一次プラハ窓外投擲事件
プロテスタント宗教改革の先駆的な人物がカトリック教会を批判したジョン・ウィクリフであり、彼に影響を受けたのがヤン・フスでした。ボヘミア人の彼は、3人の教皇が乱立する状態や、聖書の内容に反し自らを至上とする教会を批判し、ボヘミアにその考えは浸透していきました。ボヘミア王ヴァーツラフ4世が教皇グレゴリウス12世と対立したことがきっかけで、王に意見したフスの名は広まります。教皇がウィクリフの著述を禁止するとフスは反発し、フス派と呼ばれる人々の運動は大きくなりました。1414年11月1日にはじまったコンスタンツ公会議にフスが意見を述べるために訪れ逮捕されます。フスは異端者として罪を認めるよう強要されて拒否し、1415年7月6日、火刑に処されました。ボヘミア人たちは貴族も庶民もこれに抗議。さらにフス派のヤコウベク・ゼ・ストシーブラが両形色拝領(信者がパンと葡萄酒の両方を用いて儀式をすること)を訴えたため、パンだけで儀式をするとしたカトリック教会は、フス派の聖務行為を禁止します。カトリックとフス派は衝突するようになったため、フス派に理解を示していた国王は態度を変え、弟の神聖ローマ皇帝ジギスムントの仲介でローマ教会と和解を図り、プラハの教会をローマ教会に復帰させ、新市街参事会を解散します。激怒したフス派はプラハの市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と市参事会員を捕まえ、窓から放り投げ、下で待ち構えていた市民が串刺しにしました。
事件を聞いたヴァーツラフ4世はショックで倒れ、その心理的負担がもとで心臓発作を起こし8月16日に死亡しました。
この事件でカトリック教会への襲撃が頻発し、ついに両者が武力衝突するフス戦争が勃発します。


1756年
エカテリーナ宮殿が完成
宮殿はサンクトペテルブルクの郊外プーシキンのツァールスコエ・セロー(皇帝の村)にあります。
ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世が、夫からプレゼントされた屋敷に、夏の避暑地として皇帝離宮を作らせたのがはじまりです。そのため名前もここから来ています。
その後、第4代ロシア皇帝アンナが増築させました。
第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータはエカテリーナ1世の娘で、文化事業にのめり込みました。彼女は学芸保護と育成に熱心でしたが、特に建築分野にこだわりがあり、母親の時代に作られた宮殿をはじめ、ツァールスコエ・セローを彼女ごのみに作り変えさせました。担当したのが、宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリ。ロシア・バロック調の数々の建物を設計しました。
新エカテリーナ宮殿の建設は1752年5月からはじまり、4年かけて1756年7月30日に完成しました。
全長325メートルもある巨大な建物で、内部の琥珀の間は特に有名。琥珀の間はナチスドイツによって破壊持ち去られましたが、2003年に復元完成しています。
1990年には世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の一つとして指定されています。


1811年
ミゲル・イダルゴ処刑される
彼は初期のメキシコ独立運動の指導者として知られます。
メキシコのグアナフアト州の農場に生まれたクリオーリョ(植民地生まれの白人)でした。聖フランシスコ・ザビエル校や、聖ニコラス校で、神学、言語などを学び教養を身につけます。彼は農場で幼い頃から生活を共にした先住民や混血民への偏見が無く、彼らの生活向上を真剣に考えます。1778年に司祭となり、母校の聖ニコラス校で教鞭をとり、学長となって教育改革を進めますが、保守派の反発を買ったりしたことから退職。
その後は、司祭職を務めながら、先住民らの殖産興業を計画し、行動に移しています。しかしここでも、保守派の反発を買い、異端審問にかけられました。
彼はついに、1810年9月、グアナフアト近くのドロレスで演説し、奴隷制の廃止や土地改革を訴えて、メキシコのスペインからの独立運動を行いました。彼の主張は支配者たるスペイン人にとっては都合の悪いものばかりで、彼に従ったのは先住民や、混血の人々でした。
独立闘争は過激化したため、大きな運動にはならず、味方だったイグナシオ・アジェンデと対立したり、メキシコシティの攻略もうまく行かず、闘争は失敗に終わり、イダルゴはアメリカ合衆国へ逃亡します。しかし、1811年に逮捕され、チワワでアジェンデら3人と共に銃殺刑に処されました。
しかし、彼の運動は、その後の独立運動に大きな影響をもたらし、独立後は、メキシコ独立の父と呼ばれるようになりました。


1971年
雫石衝突事故
全日本空輸の58便ボーイング727−200型機と、航空自衛隊の訓練機ノースアメリカンF−86セイバーが岩手県上空で空中衝突した事件です。訓練飛行していた自衛隊機2機のうち訓練生の機体が旅客機と遭遇、教官の命令で緊急旋回して回避しようとしましたが、速度で上回っていた旅客機の水平尾翼(垂直尾翼の上部に付いている)が訓練機に接触、訓練機は炎上して墜落。旅客機は水平尾翼が壊れて急降下、音速を突破し空中分解しました。乗員乗客162人は地面に落ち全員亡くなる大惨事となりました。自衛隊機の訓練生は墜落中にかろうじて脱出し無事でした。
自衛隊側の対応のまずさもあってマスコミは自衛隊を一方的に弾劾し、自衛隊が原因とされました。実際、自衛隊機は民間空路に入り込んでおり、大型機のほうが回避能力は低いことからも、自衛隊機に責任があるという説が有力です。また、自衛隊機が旅客機を仮想敵として訓練していたのではないかという説もあります。
逆に自衛隊が一方的に批判されたこともあり、全日空機が航路をそれていたとして、自衛隊を擁護する意見もあります(遅れを取り戻すために航路を逸脱していたことは裁判でも取り上げられていること、後に発見された乗客の撮影していたフィルムからも航路が逸脱している)。
最高裁判決では、訓練生を指導していた教官が「見張り義務違反」を怠ったと認定したものの、そもそも飛行訓練区域を設定したのは、自衛隊幹部であり、教官と訓練生は命令に従ったまでで、彼ら自身に事故回避は困難だったとして、教官が執行猶予付きの有罪判決を受けています。
また監視レーダーが未整備で、ニアミスの多かった時期でもあり、事故後、整備されることになりました。


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2011年07月29日

7月29日の出来事

7月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1894年
成歓の戦い
日清戦争で最初に両軍が大規模に衝突した戦いです。
清軍は、太平天国や清仏戦争で活躍した聶士成が率い、朝鮮の忠清道牙山付近に上陸します。対する日本軍は大島義昌率いる混成第9旅団。兵数はともに4000人近くで互角でした。安城の渡し付近で銃撃戦となり、日本軍は戦いを有利に進めて、成歓を制圧し、清軍は敗走しました。日本軍の死傷者88人に対し、清軍は500人もの死傷者を出しました。
この戦いは、むしろ日本軍の兵士、木口小平をめぐる騒動で有名です。
木口は喇叭手として参加していました。ラッパを吹いて突撃などの合図を出す役割です。彼は安城の渡しの戦闘で戦死しました。死んだときもラッパを離さなかったといいます。
ところがこの話が、日本に伝わった時、同じ部隊で同日に死亡した白神源次郎だとされたのです。
これが国内では美談として語られ、白神は讃えられ、記念碑が立てられ、教科書にまで載りました。国民の誰もが知る英雄となったわけです。
ところが、戦争が終わってから、白神が実は溺死だったことが明らかになり、慌てた陸軍は、ラッパを離さなかった兵士は白神ではなく、木口小平だと発表したわけです。国民は戸惑いました。軍部は木口を大きく宣伝し、教科書の内容も書き換え、白神の軍籍簿の内容まで書き換えたといいます。木口小平が浸透するまで長い時間がかかりました。
間違って英雄にされたこの事件は、なにより白神、木口両親族にとって、やりきれないものをもたらしたことでしょう。


1945年
米重巡洋艦「インディアナポリス」撃沈事件
1932年に就役した米海軍の重巡洋艦インディアナポリスは、ニューギニア沖海戦、一連のアリューシャン列島の戦い、ギルバート諸島攻略戦、マーシャル諸島攻略戦など、太平洋を行き来して各戦闘に参加したのち、オーバーホールのために一旦帰国し、第5艦隊旗艦となって再出撃し、硫黄島戦、沖縄戦にも加わりました。
この歴戦の艦に対し極秘任務が与えられます。それがテニアン島への原爆輸送でした。核物質と原爆の部材を運ぶのです。この作戦は単艦で行われました。7月26日、テニアン島に到着し、輸送を完了します。そのままフィリピンのレイテ島へ向かう任務についたインディアナポリスは単艦で航行中、日本海軍の潜水艦伊58に発見され、雷撃により撃沈されました。これは戦争中の多くの戦闘行為の結果のひとつでしかありません。
問題は、米海軍が、この撃沈を4日間も気づかず、放ったらかしにしてしまったこと。そのため、沈没から逃れた900名ほどの乗員は、漂流を余儀なくされ、さらに600名もの乗員が死亡しました。
1199名の乗員のうち生存者はたったの316名でした。さらに生き残ったチャールズ・B・マクベイ3世艦長は、回避運動などをしなかったとして軍法会議で有罪になります。戦時中に喪失した700隻もの米艦で、艦長が軍法会議にかけられたのはこの1件のみ。原爆輸送艦を失った軍部が責任を回避するために1艦長を罪に陥れたとも言われています。マクベイ艦長は兵士の遺族から批判を浴び1968年に自殺しました。戦争には民間人だけでなく、軍人にもこういう悲劇がつきまといます。
2000年、アメリカ政府は、マクベイ艦長は無罪であると正式に認め、名誉回復しました。


1967年
空母フォレスタル爆発事故
戦後に建造された最初の大型空母であるフォレスタル。空母機動部隊の編成を主張し、核爆撃機を搭載できる大型空母ユナイテッド・ステーツの建造(※)を推奨した初代国防長官、ジェームズ・フォレスタルの名を冠しています。空母部隊の旗艦として、訓練艦として、米海軍の宣伝として、世界中に派遣されました。ベトナム戦争では、トンキン湾に出撃し、北ベトナムの爆撃作戦に参加します。そしてこの日、甲板上にいたファントム戦闘機に搭載のロケット弾が回線のショートで誤発射。スカイホーク戦闘機のタンクに当たり爆発。甲板には多数の武装した機体が並んでいたため、兵士らが急いで消火作業に当たりますが間に合わず、スカイホークに搭載していた爆弾が大爆発を起こし、次々と誘爆しました。死者132名、重軽傷者62名、行方不明者2名を出す大惨事となりました。空母は沈没こそ免れたものの、大破しました。この教訓は、その後の火災対策に生かされるようになります。
甲板上で起こる大爆発と、降り注ぐ炎や破片の雨の中を逃げ惑う兵士らの映像が残っています。
※開発当初の原爆は大型で戦闘機に搭載できず大型の爆撃機を発進できる空母が検討されました。結局、空軍の長距離爆撃機優先で建造は中止。この件で空軍省と対立し、予算縮小を図るトルーマン大統領との確執もあって、フォレスタルは自殺しました。


2005年
準惑星エリスの発見が公表される
エリスは太陽から38天文単位〜97天文単位(※1)の軌道をもつ天体です。直径は2300km〜3000kmと冥王星と同じくらいか、それ以上と考えられています。44度の傾いた大きな楕円の軌道を通っているため、主要8惑星とはかなり異なります。
2003年10月に撮影された画像から2005年1月に発見されました(発見時は2003 UB313という名前)。
これを新たな惑星の発見とするかでかなり意見がもめ、巻き込む形で冥王星の惑星定義論争を引き起こしました。結局、冥王星と同じ準惑星になり、名前もこの論争を引き起こしたことから、ギリシャ神話でトロイア戦争の遠因を作った(※2)女神エリスにちなんで、2006年9月13日にエリスと命名されました。
2005年9月10日に撮影された画像から、衛星があることもわかっています。衛星の名前はディスノミア。神話の女神エリスの娘です。
※1:1天文単位=約1.5億km
※2:ペレウスとテティスの婚儀に呼ばれなかった不和の神エリスが怒って宴席に押しかけ、最も美しい神に捧げると黄金の林檎を神の座に投げたことから、ヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が林檎を奪いあって対立、ゼウスがトロイア王子パリスに選ばせたところ、パリスは「もっとも美しい女を与える」と約束したアフロディテを選び、美しい女、すなわちスパルタの王妃ヘレネを奪い去ることができた。これがきっかけでスパルタとトロイアは戦争になったわけで、直接ではないけれどエリスの林檎がきっかけということになります。


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