2011年08月31日

8月31日の出来事

8月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1888年
切り裂きジャック事件が発生
この事件は、イギリスのロンドンで起こった売春婦連続猟奇殺害事件です。
11月9日までにロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペルロード、ミラース・コートなどで売春婦5人が次々と襲われ、バラバラに切り刻まれ、内臓などを切り抜かれた上に持ち去られるという残虐な事件でした。
5人というのは、共通性があり同一犯とされている人数で、他にも1890年代前半までに多数の女性が襲われ、殺害されたり、重症を負わされているため、もっと多いという説もあります。ロンドン市民を震撼させ、当時から後世に至るまで、様々な作品のネタとなりました。
1888年9月25日、切り裂きジャックを名乗る書簡が新聞社に送られていますが、便乗犯という説も考えられます。ここでいう「ジャック」は男性名を象徴し、日本で言うなら「○○太郎」のような感じです。なお、女性による犯行も疑われたため、切り裂きジルとも呼ばれたとか。
多くの人が犯人の疑いをかけられました。特に言動や、過去の行為、医者としての技術、現場付近の人間などから、5人の男が、有力視されています。しかし、当時としてはかなり科学的に調査もされましたが、結局犯人はわからずじまい。未解決事件で終わっています。


1957年
マラヤ連邦がイギリスから独立
マラヤ連邦とは、今のマレーシアのこと。
戦前、英領マラヤと海峡植民地、そしてシンガポールが存在したマレー半島の植民地は、大戦中に日本軍が進駐し支配しますが、戦後、再び英領に戻り、1946年4月1日、シンガポールを除いたマラヤ連合が成立します。民族平等の市民権を与える一方で、地元の王族であるスルタンの権利を奪って行きました。この政策はマレー人の反発を買い、またマレー人と同地の華僑との間に対立を生むことになります。その結果、再びスルタンの地位が復活、1948年1月31日、マレー半島9州とペナン島、マラッカ(ムラカ)によってマラヤ連邦が結成されました。連邦は、クダ王国のスルタンの出であるトゥンク・アブドゥル・ラーマンの努力で、1957年にイギリス連邦の一員として独立を達成します。ラーマンは、首相の地位に付き、建国の父と呼ばれました。彼は後に北ボルネオ、サラワク、シンガポールを統合して、マレーシア連邦の成立にも尽力しましたが、マレー人と架橋の対立により、シンガポールの除外と独立へと繋がって行きます。


1971年
桂文楽「最後の高座」
桂文楽というのは、江戸後期から現在に至るまで続く、落語の名跡ですが、中でも有名なのが、8代目文楽。住居から通称「黒門町の師匠」と呼ばれた並河益義です。落語協会会長を勤めています。ちなみに8代目とは言いますが、6代目と7代目の存在がはっきりしないため、実際の8代目ではないと考えられます。義父の勧めで落語の世界に入り、初代桂小南の弟子となり、さらに3代目三遊亭圓馬に学びました。彼を生涯の師と仰ぎ、圓馬が没落したあとも慕ったといいます。圓馬に厳しく鍛えられたことから、緻密に練り上げた芸風となり、戦後最高の呼び声も高い落語家となりました。高座の他にお座敷に呼ばれて落語を演じ、非常に人気があったといいます。5回結婚しており、養子にしてかわいがった長男は終戦直前に渡った満洲で消息を絶つなど、人生も波乱万丈でしたが、なかでも8代目文楽のエピソードで有名なのが、「最後の高座」。
この日、国立小劇場で三遊亭圓朝作の「大仏餅」を上演することになっていましたが、始まってまもなく、演目の重要な場面で、登場人物のセリフが出なくなってしまい、黙ってしまいます。そして、土下座すると、「台詞を忘れてしまいました……申し訳ありません。もう一度……勉強しなおして参ります」と謝罪して高座を降りました。以後彼は高座に上がることはなく、練習もしなかったそうです。自分はこれで幕を迎えたと思ったのでしょうか。いかにも大物芸人らしい、いさぎよい終わり方でした。


1998年
テポドン発射
この日、北朝鮮は、テポドン1号を発射しました。
テポドンは射程1500kmほどの中距離ミサイルです。二段式で、下段がノドンを応用していると考えられます。この日、発射されたテポドンは、さらに三段目を搭載していたと見られます。一段目は日本海に落下し、二段目以上は東北北部を飛び越えて太平洋に落下しました。
アメリカは三段目の切り離しと発射が成功せずに落ちたと見ており、三段目は小型の衛星を搭載していたと見ています。つまり、衛星を打ち上げるロケットだったということ。韓国も同様の見解で、その後、北朝鮮は、小型衛星「光明星1号」の打ち上げに成功した、と発表しました。衛星は国際監視にあるため、光明星1号の失敗は国際的に周知の事実ですが、日本のみ、ロケットではなく、弾道ミサイルの実験だったとしています。もっともロケットだとしても、通常は飛行経路下にある周辺国には敵対国であっても、事前に通報する事になっており(これはミサイル「実験」でも同様)、日本列島に落下する可能性も高く、唐突の打上げは大きな問題でした。さらに機体の色が軍事色(オリーブドラブ)で塗られており、軍事的だったのも日本の反発の要因となりました(そのせいか、2009年4月5日に北朝鮮が打ち上げたロケット「銀河2号」は白く塗装されている)。
この事件は、日本に大きな反発を生み、偵察衛星の開発の動きが加速することになります。
テポドンはその後、より長射程の2号が開発されてますが、弾道ミサイル「ムスダン」の開発が進んでおり、試験的な機体という説もあります。


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2011年08月30日

8月30日の出来事

8月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1590年
徳川家康江戸城入城(天正18年8月1日)
天正18年7月13日、小田原の北条氏を降服させた豊臣秀吉は、7月26日に宇都宮城に入り、そこで関東・東北の仕置を決定しました(宇都宮仕置)。宇都宮で行ったのは、奥州平定した源頼朝に習った為です。その際に、徳川家康を旧北条氏の領地であった関八州に国替えすることになりました。家康が江戸城に入城したのは、旧暦8月1日のこと。これをうけて、八朔(八月朔日=8月1日)は、江戸時代を通じて、お祝いの日でした(※)。
しばしば、辺地に飛ばされたかのような意味合いで語られる関東移封ですが、案外、家康が秀吉に望んだことかもしれません。天下統一がほぼ成ったことで、警戒されるのは徳川家ですから、豊臣政権との距離感を持つため、あえて自ら申し出て印象を良くするといったことくらいは、家康なら考えそうです。
以前は、江戸といえば、家康入府の時点では、小さな漁村だけの寂れたところ、のように言われてきましたが、最近では、当時すでにそれなりに大きな交易都市があったと考えられています。家康が拠点を惣構えの巨城があった小田原ではなく、江戸にしたのも、将来の発展性を考えたからでしょう。しかし商業地などは限られていたため、江戸幕府が成立して武家の首都になると、現在の日比谷付近から北に入り込んでいた入江を、神田付近にあった丘陵を削った土で埋め立て、そこに商業地を割り当てました(銀座・日本橋界隈が直線的な街路になっているのはそのため)。当初は井戸を掘っても海水が出たり、地面が乾燥すると土埃が舞うヒドイところだったということです。
なお当時の江戸城は、後の本丸・二の丸付近にあり、現在皇居がある吹上や西の丸付近には寺院なども立っていたそうです。
※八朔の時期は、稲穂が実りはじめる頃で、田の実の節句と呼ばれ、田の実(頼み)から、お世話になっている人に感謝するお祝いの習慣があり、八朔の祝いもその辺りから来ているようです。


1945年
マッカーサー厚木到着
第二次世界大戦が終結し、大日本帝国の領土は、内地4島と周辺諸島のみとなり、そこも連合国に分割管理されることになりました。連合国総司令部が置かれることになり、連合国軍最高司令官にダグラス・マッカーサー元帥が任命されます。
彼はこの日、沖縄を経由して、C−54B輸送機を改造した専用機「バターン号」で来日し、旧厚木海軍飛行場に到着。タラップから降りるときの姿は有名です。バターン号は、彼が愛用した航空機に必ず付けられる名前で、日本軍のフィリピン占領後に起こった「バターン半島死の行進」の恨みからだとも言われています。彼は厚木から横浜へ移動し、ニューグランドホテルに入って、日本の降伏文書調印式に出席。その後、東京へ移動。皇居堀端の第一生命館を総司令部ビルとして、そこに入り、占領政策を始めました。
マッカーサーの到着で、アメリカ軍の進駐が始まったかのように言われていますが、終戦後すぐに、空挺部隊などによって内地の主要な日本軍基地に進駐接収が行われています。


1974年
三菱重工爆破事件
爆破テロを起こしたのは、東アジア反日武装戦線。この組織は、中核派出身の法政大生大道寺将司が各大学の学生らを集めて作った組織ですが、戦前の大東亜共栄圏に至る歴史をアジア侵略だとして批判し、歴史上「侵略」の行われた日に、関係する施設等を爆破するテロを繰り返しました。
彼らは昭和天皇を、お召し列車ごと荒川鉄橋で爆弾で吹き飛ばすテロ計画「虹作戦」を立てますが、1974年8月14日、実施直前に人に見られたため中止。
ところが翌日、在日朝鮮人文世光が、北朝鮮の命令で、朴正煕暗殺未遂事件を起こします(文世光事件)。反日を唱えながら実行できなかった自分たちに対し、朝鮮人の文世光はテロを行ったことから、彼らは自分たちの不甲斐なさにショックを受け、文世光に続けとばかりに爆弾テロを計画しました。
そのターゲットとなったのが、三菱重工。戦前の財閥からの大企業で、彼らにすれば、アジア侵略に手を貸しているという理屈でした。爆弾は「虹作戦」の転用で、強力な威力を持ち、1階ロビーに仕掛けられました。爆発でロビーは大破、社員や通行人などを吹き飛ばし、8人が死亡、376人が重軽傷を負いました。直前に爆弾を仕掛けたことを電話で警告しましたが、なかなか信じてもらえなかった上に、社内で連絡が行っている間に爆弾が炸裂したため、被害は甚大でした。被害の大きさは仕掛けた彼らにも予想外だったといいます。大道寺らは後に逮捕されますが、一部メンバーはクアラルンプール事件などの超法規的釈放で海外逃亡中です。それもあって、死刑判決を受けた彼らの死刑は今も執行されていません。
この事件は、以後の類似的な連続爆破テロを招きますが、それなりに左翼運動に理解を示していた文化人や国民らの支持を失いました。
彼らにとって、世間に対して「反日」を称することが自らの正義を満足させる要素だったのでしょうが、結局のところは、無関係の市民を殺害し、破壊を繰り返しただけでした。彼らの批判するところの「侵略」と全く同じ非道を行ったわけです。
ちなみに彼らの主張と爆弾の作り方を記した都市ゲリラ教本『腹腹時計』は、非常に有名で、高橋留美子を始め、様々な漫画やドラマにネタとして登場します。


2009年
第45回衆議院議員総選挙
麻生政権下で行われ、自由民主党が大敗、民主党が圧勝して衆議院で第一党となり、現在に続く民主党政権が誕生した選挙です。
政権交代が成立した背景には、圧倒的支持で長期政権となった小泉内閣が終わったあとの、安倍、福田、両首相の無責任との批判が上がった辞職による政権交代や不祥事により、自民党政権に国民が失望したことが最大の要因でした。
すでに2007年参院選では過半数を失い、「ねじれ状態」を生み出していた自民党は、7月12日の都議会選挙でも敗北したのを受け、民主党は「政権交代」を表に出して選挙運動を展開。それに期待した支持が入り、308議席を獲得する圧倒的な勝利に終わりました。自民党は181議席減の119議席と大敗。細川政権以来となる自民党政権の崩壊となりました。
成立した鳩山由紀夫内閣は、独自色を打ち出し、アメリカ依存からの脱却、高速道路無料化、子ども手当、高校授業料無償化、事業仕分けなどの政策を示して人気を得ます。しかし、財源を考えない政策は国債の大増発を招き、科学技術やスポーツへの事業仕分けは反発を買い、強硬的な対米外交にも失敗。その挙句に沖縄の普天間基地返還問題で地元を裏切る結果(※)となり、国民を批判する声明を出して総辞職しました。後を継いだ菅直人内閣は、この影響で当初から国民の支持が低く、参院選に敗北。再び国会は「ねじれ状態」になり、その影響と東日本大震災と福島第一原発事故の対応の遅れから、国民の支持率はさらに低下。党内からの反発で退陣が決まりました。こうして現在まで安定した政権はなく、混乱が続いています。
所属政治家の政治経験不足もあるのでしょうが、国民の期待に反する結果となったのは否めません。


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2011年08月29日

8月29日の出来事

8月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1588年
刀狩令(天正16年7月8日)
刀狩りとは、権力者が、農民や僧侶の武装を解除する命令のこと。中でも有名なのが、豊臣秀吉の刀狩令です。
百性に対し、刀を召し上げ、その刀を材料にして方広寺の大仏を造り、宗教的救済と、農村の安寧を図る、という建前で行われたものです。
もちろん、武器を奪うことは、支配体制を安定化すること、一揆をなくし、大名の武力を減じるためのものでもあります。
一方で、狩猟用の道具は認められたことや、対象は刀のみでそれ以外の武器、鉄砲はそのままであるため、完全に武装解除になったわけではありません。つまり、「刀」が象徴する武士階級と、それ以外を区別する身分制の制定が目的だった、という説も有力です。
秀吉以外にも、鎌倉以降たびたび「武装解除」が行われていますが、秀吉の場合は、戦国期の国内総武装化状態が大きな問題だったという点もあると言われます。実際、秀吉は「喧嘩停止令」を発令して、武装紛争を禁じています。
刀狩りと、喧嘩停止令は、徳川時代にも継承されました。
身分制と武器の削減は、庶民出身で争いの中で出世した秀吉が一番良く理解していた問題だったというところも大きいと思います。
現代でも、紛争国の安定化の過程で、武装した民兵やゲリラ兵を武装解除する際に、お金や土地、農機具などの見返りを提供することで武器を集め、その集めた武器を壊してモニュメントを作るという方式がしばしば行われています。


1949年
ソビエト原爆実験に成功
ソビエトの最初の核実験RDS−1は、セミパラチンスク核実験場で行なわれました。核出力は22ktで、核分裂装置、すなわち原子爆弾です。核分裂の方法は、爆縮型。長崎の原爆等と同じ、技術的には難しいけれど、確立した後は運用がしやすい方式でした。
原爆の情報はアメリカよりスパイによってもたらされ、実験に使われた核爆弾は、長崎に投下されたファットマンにそっくりでした。スパイの中には、マンハッタン計画に参加した科学者もいました。一説には核の一国独占状態を危惧し、大国同士が核を保有することで抑止力が働くだろうという発想があったと言われています。実験は10ヶ月かけて準備されて、核爆発に成功しますが、比較的強かった当日の風により、きのこ雲はみるみる流され、風下の東北方向に大きな放射性物質汚染を引き起こしました。すぐに異変に気づいたアメリカ政府の調査で、9月23日、トルーマン大統領の核実験確認が公表され、翌日にはソ連もこれを認めました。こうして、核抑止力よりもむしろ、非常に危険性の高い「冷戦」が始まることになりました。


1950年
文化財保護法施行
1949年1月26日、法隆寺金堂の火災により、古代仏教美術の傑作だった法隆寺金堂壁画が失われました。上層部を除いて焼損してしまいました。劣化していた壁画や周囲の仏像などを取り外し、修復保存と模写を行っている最中に、原因不明の火災が発生してしまったのです(※)。
これをきっかけに、文化財の保護についての法律として、文化財保護法が議員立法という形で成立しました。施行は8月29日。それ以前に、1919年6月1日に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法、1929年7月1日に施行された国宝保存法、1933年4月1日に施行された重要美術品等ノ保存ニ関スル法律は廃止され、統合されました。火災のあった1月26日は文化財防火デーになっています。
国宝保存法で、国宝に指定されていたものは、全て重要文化財とされた上で、あらためてその一部を「国宝」に指定しました(あくまで重要文化財の一部としての国宝)。そのため、戦前の国宝と、この法律以降の国宝には指定されたものに違いがあります。
なお、この法律で定められた重要文化財は保存のための規制が厳しいことから、あえて指定を避けるようにした結果、失われる建造物や美術品も多数に上ります。逆に重要文化財でも競売などは規制されていないため、競売にかけられた事例もあるなど、不備も見られます。
※火災の原因は、模写用に導入された当時新しかった「蛍光灯」用の電熱器説が有名ですが、放火説もあります。


2001年
H−IIAロケット1号機が打ち上げられる
H−IIA(H−2A)は、三菱重工が開発し、発射の運用も行っている民需用大型ロケットです(責任は宇宙機関JAXAが負う)。
H−Iロケット、H−IIロケットに続くものとして開発されました。全長53m、最大重量445tで、低軌道に最大15t。静止トランスファ軌道に最大6tのものを輸送できます。幾つかの派生タイプが有り、後継機H−II2Bロケットの元になっています。
これまでに18回打ち上げられ、6号機を除く17機が発射に成功しています。軍事用大型ロケットやミサイルに頼らない独自の技術で達成した大型ロケットであり、成功率も高く、非常に優秀です。打ち上げ費用は90〜120億円(衛星開発費は除く)。コストと輸送力から見て、十分、国際競争力のあるロケットですが、国の支援(予算や海外での宣伝)はいまいち良くなく、特に民主党政権以降はムダ削減の名のもとに、予算はかなり悪化しています。一方、アメリカでは民間ロケット会社が多数参入し、大型化が進んでいることから、日本はもっと予算をつぎ込み、あるいは政府が進んで外国政府機関に働きかけて受注し、生産力を挙げないと、過去の様々な「国産品」の国際競争脱落と同じ道をたどることになり、せっかくの技術が台無しになる恐れもあります。


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