2011年09月30日

9月30日の出来事

9月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1571年
延暦寺焼き討ち(元亀2年9月12日)
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしました。直接的な背景は、対立していた浅井・朝倉氏が比叡山にこもって抵抗した出来事がありました。それ以外にも比叡山の寺領をめぐる信長との対立があったとされます。織田の勢力圏は尾張・美濃と、京の周辺を中心とした畿内だったため、その中間にある近江に勢力を持つ浅井氏と、浅井氏を支援した延暦寺は脅威でした。さらに平安以来、仏教寺院でありながら武力を誇ってきた延暦寺は、平氏や細川氏などとも対立したように、大きな問題となっていました。ほかに織田包囲網に対する各個撃破の戦略、その効果の大きさ、延暦寺と対立する諸寺院の動きも関係していたかもしれません。
信長は南近江の敵対する諸城を落とした後、比叡山攻略に入ります。それまで交渉に応じなかった延暦寺は慌てて黄金を送って和解を求めますが、信長が応じなかったため、全山に籠って迎え撃ちますが、3万を超える織田軍は隙間なく要所を抑え、火を放って攻め上りました。延暦寺の僧兵は300人ほどで、残りの3000人以上は女性を含む信者でした。そういった人々も次々と殺されました。ただ一部の記録には、羽柴秀吉の部隊が、密かに逃走を見逃したらしく、生存者や仏像・仏画などが戦火を免れています。秀吉がのちに天下人になると、延暦寺の関係者は秀吉に接近を図り、比叡山の復興を認めてもらったところをみると、何かしらの関係があったとも推測できます(逆に秀吉との関係改善のため、秀吉だけ見逃した、ということになったのかもしれません)。
なお、発掘調査から、全山包囲ではなく、戦火は一部伽藍のみだけだったという説もあり、その場合は、延暦寺を武力で攻めた衝撃が人々の間で大げさに伝わったのかもしれません。
また、現代になり、延暦寺は、武装していたことなど信長の行為を誘引した原因が延暦寺にもあることを認めています。


1946年
三井・三菱・安田の3財閥が解散
明治以来、急速に力をつけ、持株会社の下、膨大な数の企業を傘下に収めた財閥は、政治的な発言力も高い存在となっていました。そのことで、戦前、右翼から狙われたことも一度ではありません。終戦後、アメリカを始め、連合国の間では、この財閥が国家の戦争推進に加担した、という意見がありました。占領地域の資源や市場確保に財閥をはじめ多くの企業が軍部との間で一種の協定を結んで進出していたのは事実でした。終戦を受けて、早くもそれらの企業内部で、解体の可能性を指摘する意見が出て、自主解体を進める動きもありました。1945年11月、GHQは勅令を出して財閥解体を決め、まず日本政府に財閥解体ができるか見極めようとしました。財閥の自主解体の動きを受けて、日本政府は持株会社整理委員会令を施行して、持株会社を指定し、1946年9月6日、まず5社を指定して、解体を進めました。三財閥に続き、住友は1948年、富士(中島)は1950年に解体されます。さらに2次指定で40社、3次指定で20社、4次指定で2社、5次指定で16社が解体の対象となりました。これら財閥系企業からは複数の企業が創設され、財閥の諸部門を受け継ぎました。
のち、これらの企業は徐々に統合しながら復活していきます。しかし持株会社制度は独占禁止法によって禁止され、復活したのは1997年になってからです。


1966年
イギリス保護領ベチュアナランドがボツワナとして独立
南アフリカ共和国の北隣の国ボツワナは、国土の大半が砂漠とサバンナで、北部は湿地帯と、人の住むには難しい環境が広がり、古くから不毛の地としてほとんど見向きもされませんでした。これはヨーロッパ人の植民地進出でも変わらず、イギリスの保護領となってベチュアナランドと呼ばれるようになったここだけが取り残され、当然、支配者となったイギリスによるインフラ整備も限られました。これは逆に、ここに住んでいたツワナ人の土地が守られる事にもなりました。イギリスはここを僅かな税金と、兵士や労働者の補給地程度にしか考えませんでした。第二次大戦後、ングワトの部族王の子、セレッツェ・カーマは、留学先のイギリスで王位を放棄し帰国すると、政党を起こして勢力を拡大。1963年、さして価値があるとも思えないベチュアナランドの独立を、イギリスは認め、穏健派のカーマは首相となり、1966年に独立を達成しました。周辺はまだアパルトヘイトなど白人主義の国や植民地ばかり。その中で孤立したように、何も無い黒人国家が誕生したわけです。白人対黒人の対立が激化する中、ボツワナには多くの難民が逃げてきました。
そんな中、この国に膨大なダイヤモンド鉱脈があることがわかります。ほかにもさまざまな鉱物資源が埋蔵されていました。不毛の地どころか、巨大資源地帯だったわけです。カーマはデ・ビアス社と提携して莫大な資金を得ますが、彼が他の独裁者や革命家と違っていたのは、このお金を自身や有力部族のためには使わず、軍事費にも使わず、無節操な開発独裁も行わず、教育や医療に投資したことでした。国家の基盤整備を先に行うことが肝心だとわかっていたわけです。彼の後継者もこれを受け継ぎ、さらに企業誘致も進め、デ・ビアスの交易センターもこの国にあります。
そのため、ボツワナは一転、経済力が強まり、現在では隣の南アフリカを越えて中進国レベルになっています。安定した経済により、独立後、一度も政変が起こっていない、アフリカでは珍しい国です。カーマが率いたボツワナ民主党は国民のための政策で支持を得たので、複数政党制の中でも安定して政権を維持しています。その余裕から自然保護にも力を入れており、観光立国でもあります。


1999年
東海村JCO臨界事故
この事故は、当時存在していた動力炉・核燃料開発事業団がJCOに発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用の核燃料の製造で起こりました。日本で3番目の臨界事故で、事故レベル4にあたります。
JCOは、国が定めた核燃料製造のマニュアルに従わず、ステンレス製の大きなバケツでウラン化合物の溶解作業を行っていました。バケツは冷却水で囲まれた中にあったため、発生した中性子が周囲の水で反射して燃料に照射され、燃料は核分裂を起こし、そこで発生した中性子がさらに反射するという循環により、ついに核分裂が止まらなくなる「臨界」に達しました。作業員は「青い光」を見、全身に大量の放射線を浴びました。事故は国に伝えられますが、国は責任を回避するためか、JCOに全てを押し付けて処理させました。むき出しの臨界状態に、停止作業は難航。作業員らは被曝しながら、ホウ酸を投入するなどして、なんとか核分裂を停止させました。溶解作業をしていた作業員3名は放射線医学総合研究所と東大病院に収容され治療を受けますが、うち2名は、細胞の染色体が破壊されて全身の組織・臓器が壊死・再生せず死亡。1名は骨髄移植などでかろうじて助かりました。ほかに臨界停止作業などで少なくとも667名が被曝しました。福島第一原発事故と並ぶ国内最悪の事故の一つです。


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2011年09月29日

9月29日の出来事

9月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1829年
イギリスの首都警察スコットランドヤードが発足
シャーロック・ホームズをはじめ、多くのイギリスの探偵小説にはつきものの警察組織、ロンドン警視庁こと、スコットランドヤードは、首都を担当する警察として発足しました。中心にある金融ビジネス市街の「シティ」(シティ・オブ・ロンドン)を除く、グレーター・ロンドン(大ロンドン)を担当しています。正式には首都警察(Metropolitan Police Service)。
現在はウェストミンスターのブロードウェイ街に本部がありますが、探偵小説で有名なスコットランドヤードはテムズ川のほとりに立つ赤レンガ庁舎です。これが2代目の庁舎にあたり、初代の庁舎こそが、イングランドにあるにもかかわらず「スコットランドヤード」の名である理由です。というのは、初代庁舎が置かれた場所、ホワイトホールには、スコットランドヤード広場というのがありました。そこに面していたことから首都警察のあだ名になったわけです(東京の警視庁が桜田門と呼ばれるのと同じ)、ただし、そもそもスコットランドヤードという地名の発祥はわかっていません。まだ独立国家だった頃のスコットランド王国関係の邸宅と庭園があったからだとも言われています。
なお、ロンドンには、スコットランドヤードが担当していない「シティ」のみを担当するロンドン市警があります。


1918年
原内閣が成立
原敬が第19代内閣総理大臣に就任し、原内閣が成立。
華族出身ではない原敬(※)が首相であること、そして軍人の陸海軍大臣と、外務官僚の内田康哉以外は、立憲政友会から大臣が出たため、最初の平民宰相・政党内閣として、注目と期待を浴びました。
高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充を重要政策とし、外交的には内田の国際協調路線に取り組みました。
帝大を始め、官立、私立の各種大学、医科大学、高等学校などの拡充創設を認め、現在の有名な私立大学の多くがこの時に創設されています。また、パリ講和会議、国際連盟常任理事国、中国の軍閥段祺瑞支援の中止、中国への新4カ国借款団への参加を推進しました。一方で普通選挙法に反対し、軍事費を拡大し、貴族や政党政治家への様々な工作をするなど、独自の思考と独断的な政治力を発揮したため、多くの反発も買いました。
1921年11月4日、原首相は関西政友会大会に向かうため、東京駅丸の内南口コンコースに現れたところを、右翼青年中岡艮一(大塚駅転轍手)に刺殺されました。財閥とのつながりや、疑獄事件、普通選挙法案を潰したことが動機と言われます。原に支えられていた政党政治は、原の死でまとまりを失い、崩壊してしまいました。
※原敬には爵位を与える話がありましたが、本人が拒絶したため、華族ではありませんでした。


1957年
ウラル核惨事
ソ連は1949年に原子爆弾の開発に成功します。その核開発を行っていたのが、チェリャビンスク州オジョルスク市マヤークで、関連産業とその技術者や工場職員の居住都市が作られました。秘密を守るため、そこで完結する都市を作ったわけです。この秘密都市はチェリヤビンスク65と呼ばれました。この都市には放射性廃棄物のタンクも置かれていました。廃棄物は初期には川や湖に捨てていましたが、放射線による健康被害が出始めたため、処理施設を建設したわけです。放射性物質は原子核の崩壊による熱で高温になるため、冷却の必要があります。冷却が出来なくなると危険になることは、福島第一原発建家に置かれていた放射性物質貯蔵プールの冷却問題でも明らかになりました。1957年9月29日、この秘密都市にあった放射性廃棄物タンクの冷却装置が故障、高温となったタンクは大爆発を起こしました。核爆発ではありませんでしたが、膨大な量の放射性物質が飛び散り、風に乗って、幅約9km、長さ105kmにわたって汚染。1万人が避難し、その多くが深刻なレベルで放射線に被曝しました。しかし冷戦下で事故は隠蔽。翌年、わずかに情報が漏れて、核爆発事故があったのでは、といった噂が流れました。内容は1976年、亡命した科学者によって明らかになりますが、詳細が判明したのは、ソ連末期のグラスノスチ(情報公開)でした。被爆者の多くがどうなったのかはわかっていません。


1972年
日中共同声明調印
日本と中華人民共和国の国交が成立しました。田中角栄首相と大平正芳外相が北京を訪問して調印しました。中国側は周恩来国務院総理、姫鵬飛外交部長でした。中ソ対立から中国がアメリカと接近を図り、関係改善が進められたことが背景にあります。
日本としてはアメリカとの関係ばかりでなく、中共という大国との関係改善は政治・経済的に都合が良く、中国側も、日本との関係改善と正常化は国際情勢で(特にソ連に対し)、大きな意味を持つと考えていました。
そこで、日本は戦争について反省を示し、中国は賠償請求権を放棄することで、国交を結びました。
これにあわせて、日本と中華民国(台湾政権)との間で結ばれた日華基本条約は「終了」したとして、台湾政権とは断交しました(条約は一方的に破棄できないため)。ただ、日本は台湾にもある程度配慮しており、中共政府が求めた、大陸と台湾が不可分であることについては、「理解し尊重する」として、曖昧に処理し、台湾とは独自の外交機関を置き、専用の航空路線も残しました。
なお、当時から歴史認識や尖閣問題などはすでに起こっていましたが、これが悪化していくのはむしろ、中国が経済的・軍事的に強くなり、より強硬姿勢に出るようなった後のことです。


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2011年09月28日

9月28日の出来事

9月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

紀元前551年
孔子の誕生
儒教の始祖、孔子こと孔丘は、魯国昌平郷陬邑に生まれました。現在の山東省曲阜です。両親は幼い頃に亡くなり、その正体はよくわかっていません。孔子はその前半生に礼学を学び、その大家となったと言われますが、どこで誰に学んだかもはっきりせず、その知識も疑わしい説があります。老子に学んだという説もありますが、これも後世の儒家と道家によって格式を高めるために捏造されたとも言われます。50代になって魯国の政治家となりますが、まもなく国政に失望して国を出て、諸国をめぐりました。後に魯国に戻り、弟子を育てることに専念する生涯を過ごします。孔子の生きた時代は周代の末期。実力主義によって新たな覇権地域国家が次々と生まれ始めた頃で、新たな時代を迎えつつありました。彼にとってこれは、世の中の秩序が乱れていく様相に見えたのでしょう。周が出来た頃を理想と考えて、その制度や思想を体系化したのが儒教の原点になります。ずっとのちに漢代の武帝の頃から急速に人々に浸透し、漢代末期の皇帝らが支持したことや、王莽が起こした復古主義の「新」王朝で儀礼化が進み、そして後漢にかけて国教となって行きました。しかしその過程で、時代時代に都合の良いように変更され、脚色されており、孔子自身が望んだものとは大きくかけ離れていったと考えられます。
なお生誕年月日には異説もあります。


1551年
大寧寺の変(天文20年8月28日〜9月1日)
周防・長門に勢力を持っていた戦国大名・大内義隆が、重臣で守護代の陶晴賢が主導する反乱によって滅んだ事件です。
この事件の背景には、もともと大内家の家臣団が文治派と武功派に分かれていた実情がありました。文治派の代表は相良武任で、武功派の代表が陶隆房(のち晴賢)。山陰の覇者尼子氏の討伐を推進した陶らに対し、尼子遠征の敗北後に権力を持つようになったのが相良武任らでした。この対立関係をさらにややこしくしたのが、義隆の側近であった杉重矩。彼は、陶隆房と対立していましたが、大内義隆が相良武任に重用したことにも不満を持ち対立します。相良は武力を持つ陶家との婚姻関係を模索しますが失敗し、肥後へ逃走を図り捕らえられます。その際に、陶の謀反を讒言したのは杉重矩であると責任を転嫁し、そのために杉は陶側に寝返り、陶隆房らも豊後の大友氏と同盟して挙兵しました。大内義隆に味方する勢力は少なく、謀反は成功。義隆は長門へ逃亡し、更に石見へと逃走を図りますが失敗。長門大寧寺で自刃し、大内氏は滅亡しました。しかし勝利した陶氏も、彼に味方した杉氏も、やがて没落の道をたどることになります。


1964年
『宴のあと』事件判決
宴のあと、というのは三島由紀夫の小説。ある外務大臣経験者の政治家の私生活と東京都知事選を描いたもので、東京都知事選に出馬した有田八郎とその妻のことをモデルにしています。ただし、この元になった情報は、有田自身が公開した選挙中の出来事や、妻だった女性とのことを記したものも含まれており、世間にある程度知られていました。しかし有田八郎(とその弁護士)は、この作品をプライバシーの侵害として、三島と発行元の新潮社を訴えました。三島にとっては意外だったかもしれませんが、プライバシーに関わる訴訟は画期的なことでもありました。
これは表現の自由と、個人のプライバシーの、どちらも重要な問題に一定の線を引く裁判となりました。
東京地方裁判所は原告勝訴の判決、つまり、三島・新潮社側に罰金80万円と謝罪の判決を下しました。これ以後、特にメディアでプライバシーは重んじられるようになります。
三島と有田家は、有田八郎死後に和解しました。


2008年
「ファルコン1」打ち上げ成功
アメリカの民間企業スペースX社が開発しているロケットが「ファルコン1」です。2006年5月24日に初めて打ち上げに挑戦し、失敗した後、2回目は燃焼停止、3回目は一段目とニ段目が衝突して墜落しました。4回目にして擬似衛星を軌道上へ送ることに成功しました。5回目の打ち上げではマレーシアの衛星の打ち上げに成功しています。さらにファルコン9という大型ロケットの開発も進めています。これは日本を含む宇宙先進国並の軌道輸送力を持っています。
民間ロケットですが、アメリカ軍の協力を得ており、軍事基地から発射されています。しかし、技術的には軍のミサイルやロケットを転用するのではなく、独自に開発を進めました。
アメリカでは、NASAの活動は月進出や惑星探査へとシフトし、衛星軌道上への打ち上げは民間へと委譲する方向へ動いています。これは国家財政危機の中、予算の削減という大きな要因がありますが、民間技術の向上と市場の拡大も想定しています。
日本も規制を緩和して民間企業のロケット事業を推進しないと取り残されそうです。


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