2011年10月31日

10月31日の出来事

10月31日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1892年
『シャーロック・ホームズの冒険』刊行
アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの最初の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』が刊行。「ストランド・マガジン」誌に掲載していた12編の短編を掲載しています。もともと2本の長編があったホームズシリーズですが、実際にはこの短編でブレイクしました。ちょっと変わっているが鋭い観察眼と知識を持つ探偵ホームズと、その友人であり相棒でもある平凡な感覚の持ち主(すなわち読者と共有する視点)のワトスンのコンビが活躍する推理小説。多くの作品は、ワトスンが記録としてまとめた体裁になっています。この名探偵と平凡な助手という形式の探偵小説は、エドガー・アラン・ポーの代表作「オーギュスト・デュパン」シリーズの影響を受けており、それをより一般化したものと言えます。作者のドイルは、ワトスンと同様の医者であり、その合間に執筆活動もしていました。歴史小説やSF、冒険小説も書いた作家ですが、本人が書くのを好んだそれらのジャンルにくらべ、世間ではるかに人気のあったホームズシリーズの執筆は苦痛だったそうで、ホームズをあまり好んでいなかったと言われています。


1986年
汐留貨物駅が廃止
現在、「汐留シオサイト」と呼ばれ、超高層オフィスビル街となっている東京の汐留。日本テレビや電通、全日空、野村総研、ソフトバンクなどの本社機能、劇団四季の劇場などがある、そうそうたるビジネス街、観光地になっている場所ですが、ここは、かつて貨物駅でした。貨物駅が廃止されて、その跡地がオフィス街に再開発されたわけです。
もともとは日本で最初に営業線として設立された鉄道、新橋−横浜間の新橋駅があった場所です(初代駅舎を模した建物が現在復元されています)。1914年、東京駅が開業すると、始発駅としての機能は東京駅に移り、新橋駅は汐留駅と名を改め、貨物専用駅へ移行しました。それにともない、山手線専用駅だった烏森駅が新橋駅と改称し、これが現在の新橋駅にあたります。関東大震災で施設が壊滅したことから、新たに貨物駅として作りなおされ、戦後は貨物輸送の中心拠点となりますが、輸送量増加で追いつけなくなり、1973年、湾岸に東京貨物ターミナルが作られると、そちらへシフトしました。使われなくなった汐留駅は再開発の対象となり、発掘調査が行われ、江戸時代の仙台藩の上屋敷跡が発見されて話題になります。ここは江戸時代はじめに埋め立てられ、潮を止める場所として、汐留と呼ばれ、貯木のため木材商人が集まり、都市として発達。武家屋敷も作られていったのです。そこを鉄道用地としたわけで、まさに都市そのものを繰り返し再開発してきた場所と言えます。


1989年
三菱地所のロックフェラー・センター買収
バブル全盛期の1989年、三菱地所がニューヨークのロックフェラー・センターを買収しました。ロックフェラー・センターというと、マンハッタンらしい四角くて窓だらけの摩天楼、アールデコ様式のGEビルディングのファサードが有名ですが、実は48番街と51番街にまたがる22エーカー(89,000平方m)一帯に建つ19のビルを指します。三菱地所はこのうち14のビルを買収しました。買収額は2200億円。高いか安いかは、個々の価値観で違いますが、日本企業がアメリカを代表する大富豪ロックフェラーが建設させたオフィス街を買収したことは、大きな話題となると同時に、ニューヨーカーの反感を買いました。もっとも、バブルの金余りで買ったこの事業は、結果的に大きな損失を生む結果となります。不動産不況で価値が激減し、不動産運営会社は破産。三菱地所は12のビルを売却する結果となりました。不動産会社による買収劇にはそれなりに理由もあったのでしょうが、今振り返ってみれば、それだけの資金をもっと技術などの将来に残るものへ投資するような事業に持っていけてれば、その後は違う道を歩めたかも知れません。


1992年
ガリレオの破門が解かれる
イタリアの物理学者、天文学者のガリレオ・ガリレイ。実証科学を行った初期の科学者で、重さの異なる球体を転がして速度が変わらないことを確かめたり(※1)、望遠鏡で木星の衛星を発見しています。彼は天体の動きや海の満ち干きから、地球が太陽の周りを回る「地動説」を信じていました(※2)。この地動説を信じたことが、異端であるとして教皇庁の検邪聖省で審問を受けることになりました。地球が宇宙の中心であるとする「天動説」が主流の時代、地動説は異端扱いされていたからです。当初は無罪判決を受けたガリレオでしたが、彼が天動説と地動説を対比する解説書『天文対話』を出したことから再び異端審問を受けました。ガリレオは最初の裁判で無罪だったことを示しますが、何故か有罪となった記録が登場し、彼は有罪判決を受けました。ローマ教皇ウルバヌス8世はガリレオと親しかったのですが、擁護しませんでした。有罪を受けて「それでも地球は回る」といった話は、後世の創作と見られています。かれは無期懲役となり、有期刑に減刑されますが、事実上軟禁状態で生涯を終えました。
まもなく天文観測の発達で、地動説は天文学者の間で常識となりますが、ガリレオの名誉は回復されませんでした。
ガリレオの死から350年。1992年になり、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ・ガリレイに対する裁判の誤りを認め、破門を解きました。しかしその後も、ベネディクト16世が枢機卿時代にガリレオ裁判を正しいと主張したことが問題になるなど、ローマ教会にはガリレオに対する批判的な部分が残っているようです。
※1ピサの斜塔から投下した、という話になってますが、実際には斜めにしたレールの上を転がしたと言われています。
※2海の満ち干きは太陽と月が地球へ及ぼす重力の影響で、地動説の証拠とはなりません。


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2011年10月30日

10月30日の出来事

10月30日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1863年
芹沢鴨ら粛清事件(文久3年9月18日)
新選組の局長だった芹沢鴨と副長助勤の平山五郎が、間借りしていた壬生の八木家で、土方歳三、沖田総司らに襲撃され暗殺された事件です。
直接の原因は、芹沢鴨が揚屋の「角屋」で大暴れをしたほか、「吉田屋」の芸妓に言い寄って断られ芸妓の髪を切るという事件を起こしたことです。これ以外にも乱暴狼藉が多かったことから、これが朝廷に伝わり、逮捕令が出るに至ります。そこで近藤らは芹沢一派の粛清を決意。この日、角屋で宴会を催した後、八木家へ戻った芹沢、平山、芹沢の家臣筋であった平間重助(当時新選組の会計係)が、愛人や芸妓らと同衾したところを襲撃しました。平山は惨殺。芹沢は気づいて応戦しようとするも間に合わず殺されました。芹沢の愛人だったお梅も殺害されています。この他に、芹沢派の副局長だった新見錦も数日前に切腹に追い込まれています(※)。
平間は別の部屋にいたため難を逃れ水戸へ逃亡。平山・平間と同衾していた芸妓も逃げのびました。
芹沢が乱暴狼藉を働いていたのは事実ですが、暗殺の背景には、尊皇攘夷の思想を持つ芹沢ら水戸派を排除しようとした、という説もあります。
※水戸派の新見錦の切腹は日付や場所、背景となった動機が諸説あり、乱暴狼藉を働いた、職務怠慢だった、薩長と尊皇攘夷を進めていたといった説もあります。


1890年
教育勅語の発布
戦前、道徳教育の基本とされたのが「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」です。明治天皇が国民に語りかけるような形式でまとめられたもので、内容は道徳的モラルを示したものです。開国と維新を経て伝統的なモラルが失われる中、西洋のキリスト教的価値観による道徳や、江戸時代までの儒教に基づく道徳は、近代化が進む日本では、そのまま導入することは問題であると考えられていました。西洋化によって日本の良き伝統が失われることは、明治天皇が懸念していたこともあり、新たに「徳育涵養」のために考えられ、まとめられて教育勅語発布につながったわけです。1910〜30年代には、学校に奉安殿と呼ばれる建物を作り、そこに御真影(天皇・皇后の写真)と共に収められ、四大節「天長節(天皇誕生日)・明治節(明治天皇誕生日)・四方節(元日)・紀元節(神武天皇即位日)」には校長が生徒を並べて読み上げていました。暗記している人も多かったと言われます。終戦後に衆議院と新たに設置された参議院の議決によって廃止されました。


1938年
『宇宙戦争』パニック事件
この日、アメリカのラジオ番組Mercury Theatre on the Airのハロウィン特別番組として、『宇宙戦争』が放送されました。原作はSFの祖、H・G・ウェルズの侵略SF小説『宇宙戦争(The War of the Worlds)』。イギリスを舞台に地球侵略を始めた火星人との戦争と混乱を描いたものですが、これをアメリカに舞台を変えて放送したわけです。ところが、リアリティを出すため、いきなり臨時ニュースで宇宙からの侵略が始まったことを伝える風なスタートをきったことから、本当の事件と勘違いした人々100万人がパニックを起こしました。フィクション・ドラマであることは、前後、途中で何度か明らかにしているのですが、信じた人が多かったわけです。演出は名優オーソン・ウェルズで、見事に意図があたった番組でした。このパニックは新聞が報道したことで有名なため、新聞が大げさに報じただけで、実際には問い合わせが殺到しただけ、という説もあります。中途半端な宇宙科学、戦争に向かう情勢への不安、新メディアのラジオ放送の影響、架空実況という実験的な手法が合わさって起こった出来事でした。
『宇宙戦争』は何度も映画化されていますが、1975年にはこのパニック事件の方をネタにした映画『アメリカを震撼させた夜(The Night That Panicked America)』も制作されています。


1961年
史上最大の水爆ツァーリ・ボンバ実験
RDS−220と呼ばれた核実験が、ソビエトの北極海に浮かぶ島ノヴァヤゼムリャ核実験場Zone C (Sukhoy Nos) で実施されました。出力は50MT。かつては情報が曖昧で、西側の状況観測から57Mtと考えられていました。プルトニウム原爆による核分裂エネルギーで重水素核融合を起こし、発生する中性子線で外殻のウランを核分裂させるという多段階式の3F爆弾で、ソ連は当初100MT級も計画したと言われていますが、深刻な放射性物質汚染を引き起こす可能性から、中性子線を抑える鉛を使用し、出力を落として実験を行いました。それでも圧倒的に史上最大の出力を誇る水素爆弾でした。その威力は第二次世界大戦で使われたすべての弾薬・爆薬の総量(2発の原爆を含む。約2MT)をはるかに超える力を一発で持っていました。
爆弾そのものが巨大すぎて、当時ソ連最大の爆撃機Tu−95に入りきらず、下にはみ出していました。重量と威力が大きすぎるため、落下傘をつけてゆっくり降下させ、その間に爆撃機は安全圏(爆心地から45km)まで退避しました。高さ60kmまで上ったキノコ雲は、1000km離れても観測できたとか。
巨大な水爆というのは、偵察技術、精密技術が乏しかった時代、核爆弾が攻撃目標から少々外れても、巨大な破壊力で付近の広範囲もろとも吹き飛ばす、という発想から来ました。しかしアピールと言う意味では効果的でしたが、爆撃機ですらまともに搭載できないこの爆弾は、実戦に使用するような意味では、あまり実用的な兵器とは言えませんでした。その後、精密技術の発達で大型水爆は減っていきます。
ツァーリ・ボンバという名は西側のコードネームで、「爆弾の皇帝」という意味。ソビエトでは「イワン」と呼ばれていましたが、現在では一般的にツァーリ・ボンバが通称となっています。


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2011年10月29日

10月29日の出来事

10月29日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1695年
中野犬屋敷の完成(元禄8年10月29日:グレゴリオ暦1695年12月5日)
もしかすると、日本史上最も広大だった「犬小屋」かもしれないのが、中野犬屋敷。中野御用屋舗、中野御囲とも呼ばれました。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、なかなか得られない世継ぎを欲するあまり、僧の隆光の話に乗った母親、桂昌院の「前世で犬を殺した罰だから、犬を大事にせよ」の言葉に従って生類憐れみの令を出しました。犬だけでなく生き物を殺したものは次々と罰せられますが、さらに野良犬を飼育する施設を、住民を移転させて牛込若松町や四谷大木戸などに作りました。2万坪以上もあったという犬屋敷ですが、江戸には野犬も相当いたのか(一説には10万匹)、瞬く間にいっぱいになってしまい、新たに中野に建設してそこへ移すことになります。20万両を投じ、その広さ、16万坪(最終的には30万坪=100万平方m)に達したといいます。現在のJR中野駅の東方、旧公会堂(現なかのZERO)付近から、西は高円寺駅付近までの、中央線を挟んだ南北に広がるエリアに、5つの囲い場を作り、大きな犬小屋290、日除け場295、子犬養育所459があったとか。それでも入りきれず、周辺一帯の農家にも飼育させたといいます。元禄飢饉で人が人を喰うような事態になっているさなかに、犬の食費は年間9万8千両もあったとか。あまりにも馬鹿馬鹿しい政策の一つといえるでしょう。
ただ、生類憐れみの令自体は、殺生を禁じる仏教の影響で、奈良時代ころから何度も出されています。また、横行する野犬を捕まえて、安全や衛生を保とうとした、という説や、法令が厳しかったのは江戸周辺だけで、地方では無視されていた、ともいわれています。


1890年
凌雲閣が竣工
通称、浅草十二階、と呼ばれたこの建物は、浅草に作られたウィリアム・K・バルトン設計による、日本初の高層ビルディングでした。当時、一部のオフィス街などを除いて、平屋か2階程度の建物がほとんどという時代、12階建て、高さ173尺(約52m)は極端に高い建物でした。10階までがレンガ造りで、そのうえに木造の2階建ての塔が乗っかっている構造でした。10階から上が展望室。非常に景色が良かったそうです。11月11日に開業し、当初はものすごいお客さんで賑わったとか。
しかし、いつしか人気も衰えていきます。そして関東大震災で8階から上が崩壊。展望室にいた十数名のお客さんらの内、1名を除き全員が死亡しました。再建が不可能だったことから、陸軍工兵隊によって爆破解体されます。地震の揺れもさることながら、当初設計にはなかったエレベーターが完成時に設置されたことから、強度の限界を超えてしまっていたことが原因と言われています。実は日本では1919年以来、長いこと、100尺(31m)以上のビルを建設してはいけない、という百尺規制(市街地建築物法、建築基準法)がかけられました。凌雲閣の崩壊は、それ見たことかという結果となり、百尺規制は継続し、戦前の「丸ビル」や戦後すぐの「鉄鋼ビル」など大型のオフィスビルはすべて横に大きく作られ、百尺のビルが並ぶ結果となりました(※)。1962年7月16日に規制が緩和され、はじめて作られたのが、1968年完成の日本初の超高層ビル「霞が関ビル」になるわけです。
※現在も残る戦前から戦後の高度成長期にかけてのビルや、超高層化した現在の丸ビルの張り出している「低層階部分」がおおよそ百尺にあたります。オフィス街の古いビルが皆同じ高さなのはこのため。


1918年
ドイツ革命がはじまる
第一次世界大戦の末期、ドイツ海軍のラインハルト・シェアや、後任のフランツ・フォン・ヒッパーら司令官は、最後の反撃とばかりに、イギリス海軍の主力「本国艦隊」への特攻作戦を立案。ドイツ太洋艦隊(ホーホゼーフロッテ)へ、出撃を命じます。しかし艦隊が停泊していたヴィルヘルムスハーフェン港では、命令を聞いた水兵たちが、これを拒否、反乱を起こします。艦隊は運用が出来ずに出撃を断念。さらにキール港の水兵らが労働者らと共に一大デモを起こしたため、これがのちに大戦の終結と皇帝の退位にまで発展する「ドイツ革命」のきっかけとなりました。反乱はバイエルンやミュンヘン、ベルリンでも起こり、ドイツ帝国は崩壊していきます。革命の結果、ヴァイマル共和国が成立することになります。また一方で、この革命騒動は、社会主義的な要素が強く、それがのちのちまで尾を引く事になり、ナチス設立・台頭への萌芽ともなりました。
きっかけとなった太洋艦隊ですが、休戦協定後のイギリスへの艦船の引渡しを拒み、イギリス海軍の泊地スカパ・フローで53隻が自沈するという「スカパ・フロー事件」を引き起こしています。


1969年
ARPANETによるコンピュータネットワークの形成
インターネットはいまや世界中に普及しています。スマートフォンの普及で場所が限定されなくなり、教育用の廉価端末は、途上国のネット化をすすめることになりました。フェイスブックは各地の民衆革命にも利用されています。そんなインターネットの元祖、あるいは大本となったのが、ARPANETと呼ばれるコンピュータネットワークでした。
アメリカ国防総省の国防高等研究計画局 (DARPA)が計画し主導して開発を行った複数のコンピュータをつなぐ通信システムで、その概念は、DARPAの研究部門IPTO(情報処理技術室)の部長だった情報工学研究者J・C・R・リックライダーが構想したものでした。これとは別に、空軍で研究をしていた情報工学研究者ポール・バランが、核戦争による攻撃で通信網が部分的に破壊されても、通信を維持できる方法を研究しており、さらに、イギリス国立物理学研究所のドナルド・デービスが同様の考えからデータを小分けして送信するパケット通信を研究していました。このデービスの研究とARPANETは融合し、インターネットへと発展していきます。インターネットが核戦争下の通信研究から生まれたという都市伝説(?)はこのあたりにあるようです。
最初につながったのは、UCLA、UCサンタバーバラ、スタンフォード研究所、ユタ大学、の4箇所のコンピュータでした。現在の通信規約であるTCP/IPプロトコルの導入も、国防総省による方針で、米軍の軍用ネットワークもこれに準じていました。GPS同様、インターネットも軍事技術が大きく関与していたわけです。


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