2011年10月28日

10月28日の出来事

10月28日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1707年
宝永大地震(宝永4亥年10月4日)
現時点では日本史上二番目に巨大な地震です。一番目は言うまでもなく2011年3月11日の東日本大震災。
震源域は紀伊半島沖から、四国沖、日向灘にかけてと考えられ、いわゆる東海地震と南海地震が連続した起こったもの。マグニチュードは8.4ないし8.7。東海道から九州東岸にかけての太平洋岸で大きな揺れを観測し、江戸でも揺れを観測しています。大谷崩と呼ばれる安倍川上流の大規模な山体崩壊を起こしたほか、5〜30mくらいの巨大な津波が発生したとみられます。土佐の被害が最大で、高知城下は海と化し、土佐藩主は参勤交代を免除されました。大坂でも死者は7000人ともいわれ、また浜名湖は湖でしたが海岸が切れて海とつながりました。死者は推定で2万人。
なお、この地震から49日後に、富士山が大噴火を起こしたため、地震との関連も指摘されています。


1886年
ニューヨークの自由の女神像の除幕式が行われる
アメリカ、ニューヨークの入り口、リバティ島にある巨大な銅像が「自由の女神」像。正式名称は「Liberty Enlightening the World」(世界を照らす自由)。高さ46.05m、台座の麓からの高さは93mもあります。中を上がることができて、王冠のところにある展望台まで行くことができます。右手はトーチ、左手には独立記念日の1774年7月4日とローマ数字で記した銘板を持っています。トーチは灯台のために作られましたが、結局灯台としては使われませんでした。アメリカ建国100周年に。フランスから贈られたもの。フランスで一旦組み立てられた後、分解されてアメリカに運ばれ、建造されました。政治家エドゥアール・ド・ラブライエが寄贈を呼びかけ、フレデリク・バルトルディが設計したものです。「フランスの自由」を象徴した女性「マリアンヌ」をイメージし、ウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』、そしてバルトルディの母親がモデルとされています。
自由の女神は、アメリカ合衆国、そしてニューヨークの象徴でもあります。
『ゴッドファーザー』では移民の、『タイタニック』ではニューヨーク港到着の象徴として、『逃走迷路』では自由の女神像から落ちて行くシーンが、『猿の惑星』ではラストに登場し「ここは地球だったのか!」という衝撃的なオチとなり、『クローバーフィールド』では怪獣によって頭部がもぎ取られてマンハッタンに落下、『ディープインパクト』では隕石衝突の津波で水中を流れ、『インデペンデンス・デイ』では宇宙船からの爆撃で倒れた女神像が登場するなど、数多くの映画にも象徴的・あるいは悲惨な扱いで描かれています。


1970年
沢田教一、カンボジアで死亡
ピューリッツァー賞受賞を受賞した戦場カメラマン沢田教一。
彼は大学受験に失敗したため、青森の著名な写真家、小島一郎の経営する写真店で働くようになります。彼はロバート・キャパの写真集『Images of War』を見て衝撃を受け、キャパを尊敬するようになります。写真の技術を覚えた彼は、上京して職を探し、UPI通信社にカメラマンの職を得られます。1965年、南ベトナムのサイゴンにあったUPI支局に赴任します。時は、ベトナム戦争が悪化していく中。彼も戦場の取材を行いました。9月6日、ベトナム中部、ビンディン省クイニョン近郊で、戦闘から逃れるために必死で河を渡るベトナム人母子を撮影。『安全への逃避』(FREE TO SAFETY)と題されたこの写真は世界で話題になり、翌年ピューリッツァー賞を受賞しました。彼は一旦、香港支局へ移りますが、1970年、再びサイゴンへ。ベトナム戦争末期、周辺のラオスやカンボジアにも波及し、カンボジアではアメリカの介入でロン・ノル首相によるクーデターが起こり、大混乱に陥っていました。沢田は、プノンペンへ取材に行った際に、何者かに銃撃され死亡。34歳。彼が最後に撮影していたカメラは何者かに奪われ行方不明になりました。


1972年
中華人民共和国から日本に贈られたパンダ「カンカン」と「ランラン」が上野動物園に到着
中国が重要な外交場面でしばしば行うのが、パンダ外交。中国でわずかしかいない動物、ジャイアントパンダを交渉相手国に贈り、関係改善を図ろうとするものです。元々はプレゼントされていましたが、希少動物ということでワシントン条約に引っかかるため、現在は高額レンタルされています。当然、生まれた子パンダは中国のもので、もし死亡したら賠償金も取られます。日本に最初に来たパンダは、「カンカン(康康)」と「ランラン(蘭蘭)」。これはレンタルではなくプレゼントでした。見た目可愛い上に、当時はあまり知られておらず、非常に珍しい動物だったことから、上野動物園はパンダを見たいお客さんで大変なことになりました。ランランは1979年9月4日に、カンカンは1980年6月30日に死亡しました。飼育のノウハウが少なく、繁殖も困難で、日本では和歌山のアドベンチャーワールド以外ではほとんど失敗に終わっています。
パンダ人気をネタに田中角栄が政治家の応援演説で冗談めかして言った「自分は人寄せパンダ」という言葉が「客寄せパンダ」の語源になったと言われています。


以上の項目は、総合年表サイトの年表に追加していきます。
posted by あお at 01:03| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

10月27日の出来事

10月27日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1800年
伊藤若冲が死去(寛政12年9月10日)
彼は京の錦小路にあった青物問屋「枡屋」(枡源)の家に生まれ家督を継ぎました。数千もの商人に店や土地を貸す商売だったため、相当裕福でした。彼は商売には不熱心で、かといって博打や女にも興味を示さず、酒すら飲まなかったといいます。40歳で弟に家督を譲り、あっさり引退しています。生涯独身で、人としては面白みのない人生を送った人ですが、たった一つ、彼には趣味がありました。それは絵を描くこと。誰に学んだのかはよくわかっていません。彼の絵は、くっきりとした線で描かれた動植物を、驚くほど非常にカラフルに着色した豪華絢爛なもので、当時はもちろん、現在に至るまで類似する作風がない、全くオリジナリティの画風だからです。狩野派に学んだという説もありますが、狩野派の特徴はありません(もっとも狩野派は初期と違い作風も乏しくなっており、一族以外の門下だった絵師は多くが独立してオリジナルの画風に変わっています)。彼は商売柄、魚屋や、八百屋から、食材を手に入れると、それを詳細に観察し、描き写しました。まるで生きているかのように。他にも仏画などを描いています。そのため、当時は非常に評判で、工房を持ち、弟子たちも彩色しています。しかし彼の死後、忘れ去られてしまい、流派も残りませんでした。その後、昭和になって再発見された画家で、その衝撃的な画風に人々は驚きました。交流のあった複数の寺院が所有しているほか、美術館や、皇室にも多くが献上されたものの、プライスコレクションなど、海外にも多数流出しています。


1858年
セオドア・ルーズベルトの誕生日「テディベアズ・デー」
ぬいぐるみの世界的な代表格といえば、テディベア。歴史がある上に、様々なデザインがある、昨今の多様化するキャラクターフィギュアの元祖ともいえます。
この熊のぬいぐるみの名前の元となったのが、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。彼の愛称テディから来ています。なぜ、彼の名が付いたのかというと、
1902年、狩猟が趣味だったルーズベルト大統領は熊のハンティングに出かけますが、一頭もしとめられませんでした。一緒にハンティングに行っていたハンターが気を利かせて、雌熊(あるいは子熊)を撃ち、トドメを大統領に撃たせようとしました。しかしルーズベルトは「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」からと撃ちませんでした(ハンティングそのものはしてるわけですが……)。同行していた新聞記者がこのエピソードを新聞に載せたことから話題になり、翌年、バーモント州のおもちゃメーカーが熊のぬいぐるみを製作してテディと名付けて売り出しました。そこに、ドイツのマルガレーテ・シュタイフのくまのぬいぐるみが輸入されてきたため、それにもこの名前が付き、一般化していったわけです。
イギリスで、ルーズベルトの誕生日をテディ・ベアズ・デーと呼んで祝ったことから、この記念日も広まって行きました。
ちなみにセオドア・ルーズベルトは、日露戦争の講和交渉の仲介を行い、アメリカ人で初めてノーベル賞(平和賞)を受賞しています。しかし彼自身は日本脅威論者で、さらに武力を背景にした「棍棒外交」、ハワイの併合、インディアンの絶滅政策を推進するなど、かわいいぬいぐるみとは似ても似つかぬ人物でした。


1981年
ウィスキー・オン・ザ・ロック事件
といっても、お酒の話ではありません。
1981年、ソ連海軍のバルチック艦隊に所属するプロイェークト613型潜水艦S−363(U−137)が、航法士官の操作ミスなどから、予定のコースを大幅に外れて、スウェーデンの領海内に入り込んだ挙句に、岩に乗り上げ座礁するという事故を起こしました。場所はスウェーデンの軍港のすぐそば。驚いたスウェーデン海軍は、艦船を出して潜水艦を包囲。それに対し乗員は自爆覚悟で応対します(ちなみに核魚雷を搭載していたと言われています)。スウェーデンは、ソ連がスウェーデン海軍の魚雷試験を偵察するために意図的に領海侵犯をしたのだとソ連を批判しました。これは両国間の緊張を高めることになります。しかしソ連にとってなんのいいこともないこの珍事故。結局、ソ連が恥を偲んで航海日誌を提出し、お粗末な操船ミスから領海侵犯し、しかも座礁してしまったことを認めました。両国は合意に達し、11月6日、包囲は解かれて潜水艦はタグボートに引かれて離礁しました。この座礁したプロイェークト613型潜水艦、西側のコードネームでは、ウィスキー級と呼ばれていました。そのため、世界から「ウィスキー・オン・ザ・ロック」と揶揄されることになったわけです。


2002年
芝山鉄道東成田−芝山千代田間が開業
成田空港の直ぐ側に、距離が2.2kmしかない現在日本一短い鉄道路線があります。東成田−芝山千代田の2駅のみの芝山鉄道です。路線の距離が、成田空港のA滑走路より短い、たった4分という超短距離の私鉄です。この鉄道は、国が一方的に決定した成田空港建設に伴い、空港敷地によって東側の地域が孤立するのを避けるために、国が地元に建設を約束したものです。
会社は1981年5月1日に設立され、1988年6月24日、当時の京成電鉄成田空港駅(現在の東成田駅)と整備場前(仮称)間の事業免許を取得しました。当初の計画は、空港内の敷地地下を通る線内を小型車両が行き来するようなものでしたが、京成で使う大型車両の片方直通乗り入れが決まり、駅の整備工事が始まります。1991年3月19日、京成成田空港駅が新たに開業し、旧成田空港駅は東成田駅に改称しました。1993年9月20日から成田空港問題円卓会議で、国と反対派の話が進み、遅れていた建設が具体化しました(空港反対派の過激派グループは京成電鉄の車両を放火するなどのテロを繰り返していました)。
1996年12月27日には、さらに京成電鉄との相互直通運転が認可され、未買収地を迂回するルートの変更の上で、2001年4月26日に「整備場前駅」を「芝山千代田駅」とし、翌2002年10月27日に開業しました。
芝山鉄道独自の車両は京成電鉄の8両編成の車両をリースして使っていますが、日中は8両編成で運用していないため、路線内では自社の車両ではなく、京成の車両が走るという変わった運行を行なっています。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:48| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

10月26日の出来事

10月26日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

899年
アルフレッド大王死去
ドイツから海を渡ってきたゲルマン系アングロ・サクソン人の築いたイングランド七王国の一つで、サクソン人が興した国ウェセックスの王です。ウェセックスはブリテン島南西部にありました(ウェセックスはウェストサクソンという意味)。アルフレッドは同王だったエゼルウルフの子供で、イギリスで唯一、大王の称号を名乗った君主でもあります。幼い頃にはローマへも赴いて教皇レオ4世に謁見しています。エゼルウルフの5番目の子でしたが、王位を継いだ兄たちが次々と死に、賢人会が彼を王位に就けました。兄たちのもとで部将として活躍していた彼は、即位すると、他の王国を次々と滅ぼしたデーン人と戦い、878年には一旦敗北するも、敵の技術も取り入れて海軍を起こし、最終的にはデーン人を打ち破り、デーン王グスランを養子に迎えるという形の講和(ウェドモーアの和議)で事実上臣下に収めました。七王国で唯一残ったウェセックスは強大な国へと発展。デーン人をデーンロウ地方(ブリテン島の中部東岸)にとどめ、自らの勢力はブリテン島南東部へと広がっていき、886年にはロンドンを手中にし、戦災で荒廃したこの町を復興させました。また、軍事や技術だけでなく文芸復興に努め、法典の整備を行いました。領土も制度も文化も興隆させ、現在のイングランドの原型(※)を築いたことから、イギリスの歴史上の人物の中でも、特に人気が高い一人です。
※イングランド地方全域に初めて君臨したのはエゼルウルフの父エグバート。この時から代々一つの家が王位を継ぐようになり、エグバート、エゼルウルフ、エゼルウルフとエゼルバルドの分割統治、エゼルバルドとエセルベルトの分割統治、エセルベルト、エゼルレッド、アルフレッドとなります。

1909年
伊藤博文暗殺
事件はハルビン駅頭で起こりました。暗殺犯は安重根。両班の出身で李氏朝鮮では貴族に位置する階級でした。そのために農民反乱組織東学党と対立していました。しかし、肝心の李王朝が日本の併合への過程で崩壊していくと、ロシアのウラジオストクで抗日組織「大韓義軍」を起こして活動するようになります。彼は、ハルビンでロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満洲問題を話しあうために訪れた韓国統監の伊藤博文を射殺。ロシアの官憲に逮捕され、日本に引き渡されました。翌年3月26日に死刑執行。取り調べでは、多くの朝鮮問題を伊藤博文一人に押し付けているようなところも見られますが、皮肉なことに、当の伊藤博文は、当時の元勲の中で、日韓併合に最も消極的な人物でした。また、この事件の結果、現在の韓国では伊藤博文を絶対悪とし、安重根を抗日の英雄としてみなしていますが、実は安重根は日本人との交流もあり、伊藤暗殺の理由に、「伊藤博文が明治天皇の父親を殺した」というのも含まれています。安重根の息子、安俊生も日本と交流を持っていました。伊藤暗殺は併合強硬派による陰謀で、安重根は利用された、という説もありますが、それを除いても、伊藤博文、安重根ともに、現代の日本や、特に韓国がもつイメージとはかなり異なる人物であるのは間違いなく、現代政治・外交・ナショナリズムによって塗り替えられた部分がかなりあります。


1947年
カシミール紛争勃発
かつてインドには藩王国と呼ばれる内政国家がありました。これは古くからの封建領主や、ムガル帝国時代の総督などが、イギリスの支配下に置かれたインド帝国時代に、イギリス側と協力関係を結んで成立した自治国です。インド帝国は東は現在のバングラデシュから西はパキスタンにかけての広大な領域を持っていましたが、当然、宗教も混在しており、藩王と領民が異なる宗派ということもよくありました。そんな藩王の一つに、ジャンムー・カシミール藩王という人物がいました。インド帝国の北部、ヒマラヤとカラコルムの両山脈に囲まれた広大な地域を治める藩王国です。藩王はヒンズー教徒、領民の8割はイスラム教徒でした。1947年8月、インド帝国は瓦解して独立が決まると、多民族・多宗教国家のインドと、イスラム国家のパキスタンが分離。カシミール藩王は当初独立国家を目指しましたが、パキスタンから民兵が多数侵入してきたことから、インドへの編入と救援を求めます。これを受け27日にはインド軍が侵攻し第一次印パ戦争が勃発しました。カシミール地方は、6割ほどがインド領となり、残りの大半はパキスタン、そして中印国境紛争と、パキスタンからの割譲で、ラダック地方の一部は中国が支配しています。


1955年
ベトナム共和国(南ベトナム)が成立
ベトナム共和国の前身は、1949年に誕生したベトナム国。元首は阮朝(グエン朝)ベトナム帝国の元皇帝バオ・ダイで、フランスが植民地の体裁を変えた傀儡国家でした。これは共産主義勢力ベトナム独立同盟(いわゆるベトミン。国家としてはベトナム民主共和国)を率いたホー・チ・ミンに対抗するために作られ、反共主義者や、資本家、地主などの支持を得ていました。当然、親仏政権となります。しかしフランスがベトミンとの戦争で劣勢になると、厭戦気分が広がり、1954年7月21日、ジュネーブ協定により、フランスは撤退。北緯17度で南北は分断成立することになり、北部にはベトナム民主共和国が実効支配を取り戻し、南部は、バオ・ダイに代わって首相であったゴ・ディン・ジエムが国民投票で大統領に就任し、ベトナム共和国が誕生しました。同国は親米政権で、フランスに代わり、アメリカがベトナムの共産化を食い止めるために、軍事介入してくることになります。


以上の項目は、総合年表サイトhttp://www.sogonenpyo.jpn.org/)の年表に追加していきます。
posted by あお at 00:01| Comment(0) | 10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。