2011年10月22日

10月22日の出来事

10月22日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

794年
平安京遷都(延暦13年10月22日・ユリウス暦794年11月18日)
現在の京都の原型である平安京は、山背国葛野郡と愛宕郡にまたがって建設されました。桓武天皇はその前に乙訓郡長岡に新京を建設し、遷都しています。長岡遷都は力を持つ仏教勢力の影響から離れることや、河川の物流が大きな動機だったと思われます。しかし平城京にこだわる公家や仏教勢力の妨害もあったらしく、天皇は急いで建設させ、難波宮の建物を移築したりしています。都としてはかなり完成度も高かったようです。しかし、造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、それに連座する形で天皇の同母弟である早良親王が廃位・流刑となり、抗議の絶食で自殺しました。
その後、天変地異や疫病、天皇の子、安殿親王の発病など、不吉な出来事が相次ぎ、早良親王の祟りではないか、という話が出ます。
そこで、和気清麻呂が建議し、再度遷都することになりました。やはり物流の良いところ、仏教勢力の排除という理由と、秦氏などの新勢力の影響などもあって、葛野が選ばれたといいます。
なお、長岡京は方違え(占いで凶となった方向を避けるため、別の方向へ移動してから、日付を経て目的地に向かうことで「方角」を変える)のために形式的に遷都したという説もあります。
京都市では旧暦の日付に合わせて、毎年10月22日に時代祭が行われています。


1797年
パラシュートの日
この日、フランスの気球研究者アンドレ=ジャック・ガルヌランが自作の熱気球から自作の布製の落下傘で飛び降り、無事着陸できました。これを記念したのがパラシュートの日です。パラシュートの原型はそれより前から存在し、多くの人が試しています。852年、アルメン・フィルマンという研究者がコルドバで実験をしています。この頃のパラシュートは木枠に布を張ったもので、これが中世まで続きます。布の強度も問題がありました。それを改良し、現在のパラシュートの原型を作ったのがガルヌランです。彼が研究した動機は、ナポレオン戦争に参加した際、捕虜になり、その脱出のために制作を始めたのがきっかけでした。
なお、妻のジャンヌ=ジュヌヴィエーヴ・ガルヌランもパラシュート降下を行い、史上初の女性によるパラシュート体験者となっています。


1951年
バスタージャングル作戦
日本は広島と長崎に原爆を投下されて、大勢の市民が被曝しました。またビキニ水爆実験でも第五福竜丸を始め、複数の漁船が放射性降下物で被曝しています。実験場周辺の諸島でも住民が被曝しています。実は、市民や島民だけでなく、核実験での兵士の被曝も相当数になります。1951年、アメリカ国防総省とロスアラモス国立研究所が始めて合同で実施した核実験バスター・ジャングル作戦では、6500人の兵士が参加。兵士らはネバダ核実験場エリア7で地面に着座して待機し、B−50爆撃機から投下された原爆の核爆発の直後に作戦活動を行うテストを行い、被曝しています。きのこ雲が上がっていくのを見上げる大勢の兵士の動画や写真は、核実験が人体実験であったことを示す象徴的なものとして取り上げられることがあります。放射性物質の人体への影響の他に、核爆発下での兵士の心理的な影響も大きなテーマでした。アメリカはその後も、タンブラー・スナッパー作戦、プラムボブ作戦など、兵士を参加させる実験を繰り返しています。実験に参加した兵士の中には、放射線障害やガンの発症といった影響も出ているといいます。兵士ではありますが、彼らも被爆者といえるでしょう。


2008年
インドの月探査機「チャンドラヤーン1号」打ち上げ
インドの宇宙機関が初めて打ち上げた月探査機。インドの国産ロケットPSLV−XLで、サティシュ・ダワン宇宙センターより打ち上げられました。11の観測機器を搭載し、月面の科学的調査を行うもので、日本の「かぐや」、中国の「嫦娥1号」に続く、欧米以外の月探査機でした。
観測装置にはNASAや欧州宇宙機関のものも搭載していますが、インドがこれを打ち上げた理由は、将来の月着陸を目指した技術的な試験の意味がありました。月は近い将来有力な資源地帯になると考えられており、各国が進出のための準備を進めています。
つまり、この打ち上げは、科学技術調査という名目と同時に、現実味を帯びた宇宙進出の競争が加速しつつあることを意味しています。
11月12日に高度100キロの月周回極軌道に入り、打ち上げは成功しました。しかし姿勢制御用のスターセンサが故障したために、2009年8月29日に通信が途絶し、同日、計画の終了が宣言されました。後継の月探査機チャンドラヤーン2号が2013年に打ち上げ予定です。


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2011年10月21日

10月21日の出来事

10月21日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1096年
民衆十字軍壊滅
第1回十字軍はローマ教皇ウルバヌス2世が宣言し、1096年の8月15日主にフランスの騎士らによって編成された軍隊が出動することになっていましたが、この宣言を聞いた西欧各地の小領主、下級騎士、地主、庶民、若者らが熱狂。自発的に十字軍を編成して、次々と聖地エルサレムへ向かいました。民衆が熱狂したのは、人口増による飢饉や疫病の蔓延に対する不安や、新千年紀への期待などから、贖罪につながる宗教的な運動が盛り上がる背景があったと見られます。彼らを煽り、盛り上げ、その集団を組織化したのが、フランス北部アミアン出身の聖職者ピエールでした。彼はロバにまたがって各地を回って説教し、人々は次々と遠征に加わりました。5つの集団に分かれ、数万の庶民が移動して行きました。率いることになったのは、騎士ゴーティエ・サンザヴォワール。民衆十字軍とは言っても、それなりに武力を保有していました。しかし貧者も多い彼らは、エルサレムよりもはるかに手前、フランスやドイツ各地で、早くも異教徒のユダヤ人らを襲っては殺し略奪に走るようになります。秩序は乱れ、味方同士で対立するようになり、脱落者や盗賊と化すもの、各地の領主に捕らえられ殺されたり奴隷化するもの、と混乱は広がって行きました。彼らの動きを危惧した東ローマ帝国にも追われるようにボスポラス海峡を越え、そこでも略奪を繰り返しました。ニカイアまで来た所で、ついにルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世の軍勢に襲われ、民衆十字軍は壊滅しました。ゴーティエも戦死します。ピエールは生き残り、十字軍本体に加わりました。


1520年
マゼラン海峡発見
とんがった南米大陸の最南端に、三角形の島があります。フエゴ島というこの島と、南米大陸との間にある狭くて曲がりくねった海峡が、マゼラン海峡です。正確にはマガリャネス海峡。初めて世界一周航海を成し遂げたマゼラン艦体の指揮官フェルナン・デ・マガリャンイス(マゼラン)が発見し通過した海峡であるため、マガリャネス海峡と呼ばれるようになりました。英語ではマジェラン海峡というので、日本ではマゼラン海峡と呼ばれています。北極から延々と南下してきた大陸が途切れる場所であるため、パナマ運河ができるまでは最短の大西洋と太平洋をつなぐ航路でした。しかし狭い上に岩礁が多く、さらに気象が荒いことから、難所中の難所でした。非常に遠回りな上に難所ということで、実際には陸上を横断するのが普通でした。
困難な海峡を無事7日間で抜けますが、この際、航海に危機感を抱いたサン・アントニオ号が離脱して引き返しています。
海峡と共に発見されたフエゴ島の名前は、原住民ヤーガン族が炊いたと思われる火を見て、「ティエラ・デル・フエゴ(火の島)」と名付けられたものです。
フエゴ島の南方、南極との間にあるのが「世界一幅の広い海峡」ドレーク海峡で、こちらも気象が荒く大変な海域です。


1805年
トラファルガーの海戦
スペインのトラファルガル岬(トラファルガー岬)の沖で行なわれた、ピエール・ヴィルヌーヴ提督率いるフランス艦隊と、ホレーショ・ネルソン提督率いるのイギリス艦隊との海戦。ナポレオン戦争における最大の海戦です。
ナポレオンは戦争や婚姻外交でヨーロッパ中に大きな影響をもたらしていましたが、制海権はイギリス海軍が抑えていました。海上封鎖で対抗するイギリスに対し、英本土上陸作戦を企図したナポレオンは、イギリス海軍の撃破を命令。フランス・スペイン連合艦隊は出撃します。対するネルソンのイギリス艦隊は、これまでの経験と練度が優れていて、士気も高く、砲撃の速度も優っていました。艦艇数で勝るフランス艦隊の横腹を付く形でイギリス艦隊は攻撃。フランス艦隊は大敗を喫します。しかし勝利を収めたネルソン提督も、狙撃されて戦死しました。
ナポレオンのイギリス上陸は阻止されましたが、逆に直後のアウステルリッツの戦いは、オーストリア・ロシア連合軍に対してフランスが大勝し、海のイギリス、陸のフランスという得意分野で大きく別れた結果となりました。


1879年
エジソンの白熱電球
電気抵抗を持つ物質に電流を流すことで発生する熱によって光るのが白熱電球。人間が実用化した人工的光源のひとつで、19世紀に入ると研究が進み、1878年12月に、イングランドの研究者ジョゼフ・ウィルスン・スワンが、40時間ほど持続する白熱電球を完成させました。これが白熱電球の発明とされています。その直後、エジソンがニュージャージーで発表したのが同様の白熱電球でした。エジソンは宣伝の意味合いも込めて、日本産の竹の繊維を使ったフィラメントを用いたことをアピールしました。その後、京都の八幡男山の竹でさらに長寿命化しました。1000時間の持続性を実現したといいます。一方で、スワンが開発したセルロース製フィラメントが普及し始めると、その性能の良さで一種の工業規格となり、エジソンもセルロース製を使うようになりました。のちフィラメントは電気抵抗が大きく(つまりよく光る)、持続性もあるタングステンが導入され普及することになります。


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2011年10月20日

10月20日の出来事

10月20日の出来事をいくつか抜粋して紹介します。

1609年
猪熊事件の処罰が決まる(慶長14年9月23日)
この事件は、朝廷で起こったいわゆる「セックススキャンダル」です。事件の名前にもなった中心人物が、猪熊教利。名門山科家の縁者で、正五位下・左近衛少将という比較的高い地位にありました。しかも絶世の美男子。イケメン公家だった彼は、公家社会で絶大な人気を誇り、彼の髪型や衣装を真似た流行「猪熊様」が起こるほどでした。
彼は部類の女好きでもあり、次から次へと関係を持ちます。1607年2月、女官との密通が露見して、後陽成天皇の勅勘を被り、追放されますが、密かに戻ると、若い公家らを集め、女官らと密かに関係を続けました。猪熊は、左近衛権少将花山院忠長が、ひそかに天皇の寵愛していた広橋局と交際をしていることを知ると彼も誘い、乱交に耽るようになります。
しかし大規模な乱交は、1609年7月、ついに天皇の知るところとなり、天皇は激怒。全員を死刑にせよと命じる騒動になり、幕府に伝わってしまいます。数多くの公家と女官が関わっていたことから、対応に苦慮した幕府は、逃亡した猪熊を日向で捕らえると、彼と、斡旋に動いていた宮中歯科医の兼安備後を死刑に処し、公卿8人、女官5人、地下人1人を遠島流罪に処して事を収めました。


1883年
アンコン条約
太平洋戦争というと、第二次世界大戦の太平洋を舞台にした戦争を指すことが一般的です。
しかし19世紀にもう一つの太平洋戦争がありました。南米、ペルーとチリが起こした戦争です。
グアノが枯渇し硝石の産出地を欲したペルーが、チリ企業の進出と財政難で苦しむボリビアと秘密同盟を結んでチリに対抗し、ボリビアがチリ企業を接収したために、チリはボリビア海岸の硝石産出地を抑えるため出兵。1879年4月、両国に対し宣戦布告して起こりました。この戦争で海軍を持つペルーとチリは制海権をめぐって出撃し、同年10月8日、アンガモスの海戦で、チリが勝利。装甲艦を失ったペルー海軍は大幅に活動を縮小。チリ軍はペルーへ侵攻し、1881年1月、首都のリマを占領。ペルー政府はアンデス山中へ移り抵抗するも、降服しました。
講和条約はリマの北方の町、アンコンで結ばれました。ペルー南部のトラパチャ地方はチリに譲渡され、タクナとアリカの二つの町は、10年間チリ領として、あらためて投票で帰属を決定することになります(1929年にアメリカの仲介で、タクナがペルー領、アリカをチリ領となる)。ボリビアも1884年4月4日のバルパライソ条約で唯一の沿岸領土を失い内陸国になりました。チリは南米の大国への道を進む一方、ペルーとボリビアは支配層である白人への批判が強まり、インディオの地位が高まっていくことになります。


1949年
『きけ わだつみのこえ』
日本戦歿学生手記編集委員会から戦没学徒兵の残した遺書を集め『きけ わだつみのこえ』が刊行されました。
学徒出陣によって、本来の目標、夢であった学業を奪われ、非業の死を遂げた学生らの心情が描かれた記述は、人々の感動を呼ぶことになりました。ベストセラーとなり映画化もされています。戦争に疑問を持つことは、表立って口にすることは出来ずとも、内心思っていた人は、特に当時の知識階層である学生には多かったでしょう。戦争の悲惨な結果とも重なり、反戦の大きな力となりました。
一方で、編纂にあたった人々は、学生らの遺書の内、戦争を賛美する意見、賛意を示す意見は意図して掲載から除外しました。つまり戦後の反戦思想、軍国批判の目的のために、都合のいい遺書だけを取り上げたわけです。これは歴史への客観性という点では大きな捏造であり、思想偏重という意味でも厳しい批判意見があります。また、遺書とは言え、他人に見られることを想定したものもあり、本当に学生の心情を表したものか一概にその内容だけで判断できないでしょう。
遺書が遺族に返還されないという奇妙なこともあり、内容を改竄したのではないか、という疑問も提示されています。


1993年
野村秋介自殺事件
新右翼「風の会」代表の野村秋介が朝日新聞東京本社社長室で拳銃自殺した事件です。
彼は少年時代は愚連隊(暴力的不良グループ)に入り、暴力団とも関係がありました。服役中に五・一五事件に加わったことがある三上卓の弟子と知り合い、自らも出所後に三上の門下となります。右翼として活動するようになりますが、それまでの右翼の親米派に対し、ヤルタ・ポツダム体制批判・日米安保破棄という反米独立思想を主張し(新右翼という)、現政権やメディア(特に朝日新聞)も批判しました。一方、左派系知識人など幅広い交流もありました。
1963年7月15日、憂国道志会会員・松野卓夫と自民党の河野一郎建設大臣私邸に放火、実刑を受けた後、出所後の1977年3月3日、交流のあった元楯の会の伊藤好雄、西尾俊一、元大東塾森田忠明らと武装して経団連会館を襲撃する事件を起こしています。一方、フィリピンで共産ゲリラに拉致された日本人カメラマンの救出にも関わっています。
1992年、参議院選挙で「たたかう国民連合・風の会」から立候補しますが、それを朝日新聞系の週刊朝日に揶揄(※)されると猛抗議、マスコミによる選挙妨害として公職選挙法違反として訴えますが認められませんでした。翌年、朝日新聞社を訪れ、社長と会談中に拳銃で自殺をはかりました。
※同誌の山藤章二の風刺イラストコーナーに「虱の党」と描かれた出来事。


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